「政治の話」の話

このブログは、いろんな人が見ているようです。

塾の人も、けっこう見ているらしいです。

 

他の塾の教師の中には、うわ、このブログ、政治の話なんか書いている、と思いながらハラハラしている人もいるかもしれません。

また、「性格の悪い人」は、ニヤニヤしながら見ているかもしれません。

 

その感覚も、わかります。「政治の話」というのは、かなりリスキーです。世の中には、「政治の話」に、想像外の反応をする人が多くいます。塾の「評判」に影響が出る可能性もあります。

 

 

「政治の話」を書いている塾のブログは、他にないでしょう。

このブログでも、当初は「政治の話」を書くつもりはありませんでした。

 

まあ、でも、ちょっと「チャレンジ」してみようと思うようになりました。

 

ちょっと、試したくなったのです。

 

 

あと、「政治の話」なんか、読む人いるの?と、いぶかしく思っている人もいるかもしれません。

 

まあ、世の中、何事であっても、興味を持たない人もいれば、興味を持つ人もいるでしょう。

幸か不幸か(?)このブログに興味を持つ人もいます。

 

まことしやかな噂では、政治家や政府関係者も読んでいるとか。(ホンマですか?)

 

どれほど小さなものであったとしても、この社会に、何かしらの「爪痕」を刻むことができたのだとしたら、苦労して書いた意味があったと思えます。

 

 

 

私の文章は、世の中に出回っている「政治評論」とはずいぶん趣が違うと思います。

 

自分で文章を書きながら、「塾の人間」が「政治の話」をするということの「意味」を、ちょっと考えました。

 

このブログの文章には、私が「塾の人間」であるがゆえの特徴がよくあらわれていると思います。

自分で言うのも口はばったいことですが、それは、「簡易化」と「要点化」であるといえます。

 

私は、「知っていること」を「てんこ盛り」にして全部を書きません。

テンポや構成のバランスを損なう情報は、ばっさり削除します。

 

また、内容が雑多になりすぎないように、できる限り単純に、包括的に説明するように心がけます。ノイズになりそうな情報を捨象して、必要な情報をグループ化したり、定式化したり、概念化したりします。

 

私は、こうした作業を、自分で「引き算」と呼んでいます。

 

 

私が文章を書く際に「引き算」を重視するのは、私が「塾の教師」であることと無関係ではありません。私は「理解しやすさ」に気を配りながら、文章を推敲します。

 

 

学者や評論家は、「引き算」が苦手な人が多いと思います。

「情報量」の多寡で「マウント」を取り合う習性が身についてしまっているからです。

 

それに、学者や評論家の中には、「理解するということ」は、より多くの情報や知識を取得することだ、と考える人が多いように思います。

 

一方、私は、「理解するということ」は、物事を「よりシンプルな構造」に組み替えることだと考えます。

 

 

一応、念のために:私は、けっこう図々しい性格をしていますが、いくら何でも、自分の書いたものが、専門家が書いたものよりも優れているとは思っていません。

「役割」が違うわけです。

私が書くものは、いわば「旅行案内」のようなものなのだと思います。

 

 

 

けっこう長い期間「政治の話」を書いてきたわけですが、もうそろそろ終えようか、と思います。まあ、秋ぐらいには、また少し書くかもしれませんが。

 

「政治の話」のシリーズは、各回に設定された主題に沿って、ひとつひとつの記事が書かれています。ですから、それぞれの記事は独立した内容になっているわけですが、実は、シリーズ全体に通底する「テーマ」があります。

回を重ねるごとに、その「テーマ」に少しずつ接近していって、やがて最後の記事に収束するという構成でした。

 

ところが、書いているうちに、まとめるのがちょっと大変になってきました。

それに、いいかげんそろそろ切り上げなければ、別の記事を書く機会がなくなる、という懸念が大きくなりました。

 

それで、この辺でいったん書くのをやめようと決めたわけです。

 

一応、構想としては、この後、「世襲」、「政治スキャンダル」、「圧力団体」、「ウヨクとサヨク」について書くつもりでした。

最後に、「平等と公正」について書くつもりでした。

 

 

 

で、なぜ、このような「言い訳」のようなものを記しているのかというと、ここまで書いてきた内容「だけ」を読んだ人は、けっこういろいろな「誤解」をしてしまうのではないか、と思ったからです。

 

私が一連の記事を通して書きたかったのは、「リベラルの役割」についてでした。

 

 

 

現代日本社会に、「外国人」を酷い言葉で罵倒するような人たちがいます。そのような人たちの言葉に、やるせない憤りを感じます。

 

なぜ彼らはそのような振る舞いをするのか、という動機の説明に「ルサンチマン」という言葉が使われます。

「ルサンチマン」というのは、もともとは哲学の用語ですが、通俗的な用法が広まって、評論などでは、本来とは少し違った文脈で用いられます。

 

評論などで、「ルサンチマン」という言葉は、妬みや嫉みをこじらせて、他者に対して攻撃的な言動を発してしまうような人間の「鬱屈した精神」を指します。

 

一般的にそのような人物は、人生を思い通りに生きられず、その苛立ちや自身の不甲斐なさを他者に転嫁する「弱い人間」であるとみなされます。

 

 

彼らは、狭量で下品な人格であると判断されます。まともな感性の人間は、「彼ら」と同じように思われたくない、と考えるにちがいありません。

 

「リベラル」は、よりいっそう彼らを嫌悪します。「外国人」を悪く言うなんて、と。

 

 

しかし、本来、「リベラル」という思想は、「ルサンチマン」を抱えているような人に寄りそうようなものであったはずなのです。

 

「弱き者の味方」であり続けることこそが、「リベラル」の使命だといえるからです。

 

 

 

多くの人が感じていることなのだろうと思いますが、現代日本の「リベラル」は、「ドメスティックではない背景」に近接しています。

泥沼の「リベラル」言論人や政治家と、「それ」を紐づけているものは、明るみに出せないような、けっこう陰惨なリアリティです。

 

 

まあ、「紐づけられている者」はともかく、「公正」、という人類普遍の価値を推戴する「真のリベラル」は、「真に弱き者」を正しく見つめる必要があるのではないかと思うわけです。

 

過去に、何人もの偉大な人道主義者、啓蒙主義者たちが、人生を投げうって、世界を前進させてきました。彼らは、「弱き人びと」が因襲や蒙昧にとらわれていても、諦めませんでした。

 

 

 

安倍さんは、どちらかといえば「グローバリスト」です。

ですから、まあ、どちらかといえば、社会の下位の階層にいる人たちよりも、社会の上位の階層にいる人たちにとって有利な政策をすすめています。

 

 

「アベノミクス」の成果として、「大手企業」のボーナスが過去最高額になった、というニュースを見て、「やったぜ、さすが安倍総理!」といっている人たちがいるわけです。

でも、「彼ら」の人生は、「それ」とは「交わらない」わけです。

 

それなのに、「彼ら」は、安倍政権を支持します。

その理由は、まったく単純です。

安倍政権は、「ドメスティックではない背景」に譲歩しないからです。

 

ついでにいえば、安倍政権打倒に執念を燃やす人たちの動機も「そこ」にあります。

さらに、ついでをいえば、安倍政権は、米国に対しては、さまざまな譲歩を行っています。

 

 

 

「二元論」でしか物事をとらえられない人は世の中にけっこうたくさんいて、このような文章を書くと、結局お前は「どっちの側」なのだ、とききたがります。

 

そういう問いに一言で答えられないからこそ、書こうとするわけですが。

 

ただ、これまでに書いてきた通り、私は、安倍さんという人を「すごい人」だと思っています。

失意の中から立ち上がり、再び前進を始める人は、誰であっても何ぴとであっても尊敬したくなります。

 

 

 

最後に、「政治の話」を書こうと思った「直接の動機」について書きたいと思うのですが、それは、生徒との「質問タイム」でした。

 

去年の中3の授業では、気になったことを「何でも」質問していい「質問タイム」というものがありました。これは、生徒の「質問」を題材にして、アドリブで私がおもしろおかしく話をするというただの「雑談」の時間なのですが、まあ、「質問」という理屈づけというか、体裁をとっているわけです。

 

で、私は、毎度毎度アホっぽいことをいったり、ボケをかましたりしていたわけです。

去年の中3の生徒は、頭の回転が速い子が多かったので、とても楽しい時間でした。

 

2つのクラスの生徒は、みんな「コミュニケーション」というものの本質を理解していました。

「こういう時間」をうまく活用したほうが、自分にとってもプラスになります。

理解力のある生徒は、「こちらの意図」を汲み取って、気分転換や、「スイッチ」を入れるきっかけにするために、積極的に参加してくれます。

 

 

それで、たまに「政治の話」がトピックになることがありました。

昨年、このブログに政治についての記事を何度か書きました。その記事はかなり婉曲的に書いたので、それについてどういうことなのか、ききたかったのかもしれません。

それに、昨年はいろいろと「政治の動き」が活発だった年でもありました。

 

でも、私は、「政治の話」をあまりすることなく、はぐらかすことが多かったのです。

「政治の話」をすることに躊躇があったのです。

 

それは、個人的な経験に起因しているかもしれません。

中学の頃、延々と「政治の話」をする教師が多くて、いつもうんざりしていました。

自分は「政治の話」をしないようにしよう、と思っていたわけです。

 

しかし、はぐらかしてばかりいると、何となく、やましいことを隠しているような雰囲気になってしまいます。かといって、「マジ」で話をしてしまうと、「質問タイム」の趣旨を損なうばかりか、とんでもなく時間を取られてしまいます。

 

何度か簡単な「答え」を返したこともあったのですが、そのうち、なんとなく「政治の話はNG」みたいな空気になっていきました。

 

後になって、そのことに対して、ちょっとした後悔を感じるようになりました。

 

それで、過去には、生徒たちに、「政治の話」は控えなさい、などと言っていたのに、自分から盛大に「政治の話」を書きまくってしまいました。

 

 

あとは、もう、書き尽してやれ、と思って書いてきましたが、この辺でお終いですね。

 

 

 

最後の最後に、もう一度注釈を。

 

 

政治について議論するときに、以下のことに気をつけてください。

 

これは正しい、とか、これは間違っているというように「価値観を表明すること」と、なぜそのようなことが起きるのか、とか、なぜそのような結論が導かれるのか、というように「論理的に説明すること」は「次元」が違います。

 

 

世の中には、両者の区別がつかない人がたくさんいます。

 

「政治的なこと」について考えるときには、その2つをよくふまえて熟慮するようにしましょう。

 

 

 

 

(ivy 松村)

 

 

 

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