”LET IT GO”について考えてみた

ディズニーのアニメ映画「アナと雪の女王」の主題歌「Let It Go」は本当に素晴らしい楽曲ですね。この歌は精神の開放について歌われています。

 

動画サイトなどで、いろいろな国の言葉でこの曲が歌われているのを聞くことができます。中でも日本語で歌われている松たか子さんは海外でも高く評価されているそうです。

 

インターネットのあるサイトで、この曲の英語の歌詞と日本語の歌詞で内容が違っているのかどうかの議論がなされていて、大変興味深く思いました。私はやはり少し違いがあるように思いました。

 

英語の歌詞は、「開き直り」がモチーフとしてあります。

 

秘密を周りの人々に知られてしまい、絶望の底に落とされてしまいます。そんな、最低の状態で、意識は反転します。

 

「なるようになれ “Let it go”」
「もうこれ以上我慢できない “Can’t hold it back anymore”」
「何を言われても気にしない “I don’t care what they’re going to say”」

 

これより下のないどん底から、独りで立ち上がり、周りを気にせずに生きていこうと決意します。これ以上周りの人々が求める価値やルールに縛られることはないという決心です。
だから、

 

「私は自由だ “I’m free!”」

 

と叫ぶのです。

 

一方、日本語で歌われる「ありのままで」には、「秘密を周りに知られてしまった」という状況の設定がありません。したがって、「自分はもう周りのことを気にしない」という文脈が存在しないのです。

 

日本語の歌詞では、本当の自分を隠さずにあらわすことは素晴らしいのだという自己表現が主題となっています。ですから、ここでいう「自由」は観念的なものになっています。

 

 

 

 

日本語の「ありのままで」のすごさは、まず、何よりも、松たか子さんの歌声にあると思います。
そして、さまざまな制約の中で、生み出された言葉が、より歌の魅力を引き出していることにあるように思います。

 

特に、
“Let it go, let it go”
とうたわれるサビの部分を
「ありの ままで」
とされたところに深い感銘を受けました。

 

英語で歌われるとき、「レット・イット・・・」は音の連結が起こって「レッティ」となります。しかし、「ティ」は「リ」に聞こえると思います。

英語の(t)の発音と(l)の発音は非常に近いのです。両者とも、上前歯の裏(硬口蓋)に舌を付けて発音します。英語で(t)を軽く発音したときに、(l)に近い音になってしまうのです。(water→ワラー、little→リル)

 

また、「イット」の(t)は無音化されます。そのため、「レリ・・・」と聞こえるはずです。「レリ・・・」となったところで、英語話者は“let it”と認識できます。

そして、「ゴー」の母音は(0)ですから、口全体を縦に開いて前に突き出して発音します。→「レリゴー」

 

(ちなみに、英語の発音の連結を「リエゾン」という人がいますが、厳密には誤用です。これはフランス語の発音ルールにおける用語ですが、同様の音の連結はフランス語ではアンシェヌマンと言います。)

 

 

 

エルサが劇中でこの曲を歌う場面で、エルサの口は英語の発音に合わせて動きます。当然、アメリカのオリジナルのフィルムは英語での歌唱にあわせて制作されているからです。

 

しかし、驚くべきことに、日本語の歌が流れても口の動きがシンクロしているのです。
「ありの…」と“let it go…”の口の動きが非常に近いからです。

 

この部分だけではありません。この歌が歌われる場面全体を通して、アニメーションの口の動きに合わせて日本語の歌詞が当てられているのです。もちろん、どうしても合わないところもありますが、ものすごい同調率です。

 

たぶん、歌だけを聞くよりも、この場面の動画を見ながら聞いたほうが、心地よいと感じるはずです。それは、何よりも映像が素晴らしいということもありますが、エルサの口の動きに合わせて言葉が出てくるからです。そしてきっと、多くの人はいっしょに口ずさみたくなるのです。

(ivy 松村)

ハンスは何者なのかを考えてみた

今回は、勉強や塾のこととは関係がないのですが、「アナと雪の女王」を観て考えたことなどを書いてみます。特に、ハンスのことが気になりました。

 

 

 

まだ「アナと雪の女王」をご覧になっていない方は注意してください:ネタバレも含んでいます。

 

 

 

「アナと雪の女王」は大変綿密に構成された物語でしたが、ハンスの人物造形は少し不思議な感じがしました。気さくで、紳士的、また誠実で、勇敢であった彼が、実は計算高く野心的な悪役であったことが、物語の後半で明らかになります。その豹変は唐突で、やや不自然に思いました。

 

おそらく、ハンスのキャラクターは最初からそのように設定されたのではなく、シナリオの制約によって与えられたものではないかと思います。

 

この映画の監督は、ハンスは「鏡」であり、周囲の人物を投影する存在であると語っているそうです。しかし、「彼は『鏡』だからあのような行動をとった」と「種明かし」されても違和感が残ります。

 

ハンスは最初から「鏡」として設定されたのではなく、彼を「鏡」であると位置づけることで、彼の支離滅裂な人格に対して整合性をもった説明をつけようとしたのではないかと思います。

 

実は、エルサは当初、悪役になるはずだったそうです。しかし、主題歌になっている「Let it go」の出来があまりにもすばらしかったので、設定が変更され、彼女はもう1人の主役になったのだという解説を読みました。おそらく、この設定の変更による「玉突き」によって、この物語におけるハンスの役割が変わってしまったのではないかと思います。

 

つまり、設定が変更され、物語が再構成されるなかで、エルサが悪役ではなくなり、かわりにハンスが悪役となったのではないかと、思うのです。

 

正体を現すまでのハンスは、少しドジなところも含めて「完璧なヒーロー」でした。そのような描かれ方がなされたのは、その後の悪辣ぶりを際立たせるためだとは思えませんでした。

 

前半のハンスは、まったく自然で説得力のある人物描写でした。一方、後半の悪役としてのハンスは性急で杜撰な行動をしていて、非常に不可解に思えました。

 

実は、前半の彼こそが、もともと「予定」されていたあるべき姿のハンスなのではないのかな、と思います。

 

ハンスが一貫して悪役であるならば、本当は悪役であるという伏線や暗示などが前半にも示されるべきだと思います(ハンスが「鏡」であるがゆえの態度やセリフ回しは見られましたが)。しかし、そのような演出をしてしまうと、物語前半でのアナとハンスのやり取りやロマンスの演出、歌などに、観客は感情移入していけなくなってしまいます。

 

 

もしかしたら、高い完成度に仕上がってしまった、一連の素晴らしいアナとハンスの場面に手を加えることができなくなったのかもしれません。

 

いずれにしても、物語の前半でハンスは、悪をみじんも感じさせない「完璧なヒーロー」を演じてしまいました。そのため、ハンスの、魅力的な若者というキャラクターと、悪役のキャラクターの両方をうまくつなぎ合わせなければならないという「合理的な問題」が生じてしまいます。

 

そこで、前半のロマンスと後半の悪役としてのハンスを両立させるための説明原理として、「鏡」という概念が持ち出されたのではないでしょうか。ハンスが「鏡」であるという設定が先にあったわけではなく、ハンスが矛盾した行動をとるストーリー展開が決められ、それを成立させるための説明として、彼の人物像を「鏡」としたのではないかと想像してしまうのです。

 

 

 

 

一応念のため:製作者の揚げ足を取っていい気になりたいわけではありません。上に書いたことはほとんど想像でしかないのですが、むしろ、本当にギリギリのところで調整をしながら、作品を作っていることが感じられ、感動しました。うまく伝わらなければ、申しわけありません。

 

 

そして、幸福な結末の裏側で、悪役へと身をやつし、みじめなエンディングを迎えざるを得なかったハンスを思い、同情してしまうのです。さらには、「鏡」である彼は、自分というものがない空虚な存在であるとまでいわれています。

 

うがった見方すぎるでしょうか?

(ivy 松村)

why don’t you watch the movie “FROZEN” ?

「アナと雪の女王」の人気がすごいですね。

生徒がいつも劇中歌の「ありのままで」や「生まれてはじめて」を口ずさんでいます。

 

よく、ディズニーのアニメは小さな子供から大人まで楽しめると評されますが、本当にそうですね。「子供向けの作品」というよりも、「子供も楽しめる作品」と言えるのかもしれません。

 

さて、歴史的な大ヒットとなったこの映画、日本語版も素晴らしかったけれど、英語版では、違った楽しさを味わえるかも知れません。

 

ハリウッド映画などで英語の勉強をしようと思っても、なかなかうまくいかないことが多いと思います。

一般的なアメリカ人に向けて作られた作品は、英語に慣れていない人にとって、自然な会話のスピードについていくだけでも大変です。さらに、なまりや俳優のクセのせいで声が聞き取りづらかったり、くだけた表現や婉曲表現を理解できなかったりといったことが多く、ハードルが高くなってしまいます。

 

しかし、ディズニーアニメは子供でも楽しめるように作られているので、ていねいで優しいセリフ回しになっています。その意味で、英語に慣れる教材としても非常に優れていると思います。

声優の発音が非常にきれいで聞き取りやすく、表現もシンプルです。下品な表現も出てこないので、安心して学べると思います。

 

私の友人がアメリカに住んでいるのですが、遊びに行くと、当時5歳と3歳の子供たちはいつもディズニーアニメのDVDを観ていました。

 

同じものを何回も観ていて、飽きないのかな、と思ったけれど、そういえば、自分も同じ絵本を何度も読み直していたなあと思い当たりました。子供って同じお話に飽きないんですよね。

 

彼らは、母語ではなく英語で観ていました。それで、子供たちの様子をよく観察してみると、ぶつぶつとセリフをなぞっていることがあって、そうか、彼らは今、言語を習得しているんだなあと思いました。

 

子供だけでなく、大人にとっても有意義な英語の教材だと思います。字幕のON/OFFを使えば、より効果的な学習ができると思います

(ivy 松村)

地頭がいい?

「地頭」と書かれてある言葉を見て、一般の人は「ジトウ」と読みます。中世の日本で荘園の管理や税の徴収をする役職です。

 

これを「ジアタマ」と呼ぶことがあります。憶測ですが、教育関係者の間で使われはじめたのが広まったのではないかと思われます。

 

漢字で構成された二字熟語に、読み方によって二つの意味を持たせることはよくありますね。

 

「上手、生物、市場、風車、人気、大事、大家、見物、色紙、寒気、分別、金星、今日、最中…」など。

 

さて、「ジアタマ」という言葉は、「その人が持つ本来の頭脳の性能」というような意味を表すようです。

ほとんどの場合「あの子はジアタマがいい」というように、子供に対する評価として使われます。つまりは褒め言葉の一種なのですが、ちょっと不思議な言葉です。

 

この言葉の概念は非常にあいまいです。先天的な素質に言及したいのか、家庭での教育環境を示唆したいのかよくわかりません。

 

また、「ジアタマのよさ」を裏付ける根拠や指標、評価の尺度もありません。多くの場合、「見ていればあの子はジアタマがいいのがわかる」というような、主観的な判断で語られます。数値化したり、証明したりできないので、ただ、「いい」とだけ評されます。

 

つまり、これは全く科学的ではない、ただの通俗的な会話の題材とか、社交のツールといったたぐいのものだといえます。いってみれば、血液型占いのようなものです。

 

この言葉を使って生徒を評する塾講師がたくさんいます。その理由を考えてみました。

 

・褒め言葉なので言われた保護者も悪い気がしない

・成績が良くない生徒にも使え、褒め言葉として汎用性が高い

・根拠なく使える

・実際の成績にあらわれない生徒の素質を見抜く自分、かっこいい

 

以上のような効用があり、とても便利な言葉なので、きっと営業の殺し文句として口癖になっている人もいるのかもしれません。

それでも、保護者に対してお世辞として使う分にはまだ理解できるのですが、講師どうしが軽口で生徒を評してこの言葉を使っているのを聞くと違和感を覚えてしまいます。

 

この言葉は、あたかも責任回避の呪文のようです。生徒の学力には、自分たちの及ばない因子が働いているという口実となります。生徒の学力を伸ばすことができなくても、それは教務力のせいではなく、「ジアタマ」のせいである、という考えに反転します。自分の教師としての能力を正当化してくれるのです。

それでいて自分を高みに配置し、「人の資質を判断することができる高邁な自分」に酔うことができる、魔法の言葉です。

 

塾講師にとって、「ジアタマ」というような視点は、無意味だと思います。

 

・成績のいい生徒で「ジアタマがいい」という評価→当然の帰結であって、中身がない

・成績の悪い生徒だが「ジアタマがいい」という評価→ただの空虚な慰め

・「ジアタマが悪い」→ただの人格攻撃

 

塾は勉強を教えるところです。成績や入試結果以外のもので頭脳の出来不出来を述べても空しいだけだと思っています。

 

科学的な尺度のない評価はただの感想です。

(ivy 松村)

中3の夏期講習

夏期講習も残り3分の1となりました。

 

中3受験生は、少しづつ受験勉強の耐性ができてきました。朝10時から夜の8時くらいまでは塾で過ごすことが当たり前になっています。

 

ivyには町田や西八王子から通っている生徒もいます。彼らは、通塾時間も含めると、かなりの拘束時間になりますが、みんな元気ですね。

 

中3のクラスはとてもいい雰囲気です。仲良く競い合っています。なれ合いにもならず、丁度良い空気です。休憩時間も、お互い張り合いながら、冗談を言いながら、小テストの暗記に精を出しています。授業後もしっかり課題をやって帰っています。

 

もちろん、校舎のほうでも、弛緩しないように指導しつつリラックスして過ごせるように気を配っているつもりですが、それ以上に、生徒たち自身が持つ素質や姿勢がいい方向に共鳴し、反応しあうことで、いい形が出来上がっているように思います。

 

ivyの中3は、今年になって塾に通い始めた生徒や、他塾に通っていたけれど学習指導に不満を感じて転塾して来た生徒ばかりです。きっちりとした進学塾で勉強した経験のない生徒ばかりでした。さらに、夏休みの前半に部活などで来られない日にち・時間が多い生徒ばかりで、かなり気合いをいれて面倒見ないといけないだろうと考えていました。

 

しかし、うれしい誤算といえるのかどうかわかりませんが、思った以上にやる気を出して取り組んでくれています。生徒たちは、自分たちが遅れていることをしっかり認識し、がんばらなければいけないという自覚を強く持っていたようです。

 

しかし、他塾の受験生たちに比べて、自分たちはまだまだ甘い、という現実も知ってほしいと思っています。私がこれまでにみてきて受験生たちは、もっと過酷な夏を過ごしてきました。他の生徒と、「受験生としての質」を比べることは、手の込んだ嫌味にしか聞こえないかもしれません。が、それでも、受験は現実に「競争」です。まわりに負けないように頑張らなければならないという本質を避けることはできません。

 

・・・実はアホなこと言い冗談言いながらも、きつい課題を出したりあおったりするのはいろいろ考えてのことなのですよ。

 (ivy 松村)

 

暗記をしても社会で役に立たないという意見

歴史の年号を覚えることが社会に出て役に立つのか?と問う人がいます。この問いは幼稚で陳腐です。何よりも、知的ではありません。

 

この問いは、論理的に受け止めれば、学校や塾では、社会に出て役に立つことを教えるべきであるということを主張しています。

 

まず、第一に、初等教育、中等教育で学ぶべきなのは、経済活動における直接的な行動の指針ではありません。ここでいう「社会に出る」とは仕事を持つということと同義です。どうして学校で、仕事場における処世術を学ぶ必要があるのでしょう。

 

また、「役に立つ」とは、この場合、仕事をするうえで有益であるという意味にとれますが、即物的、世俗的な利益につながるものにこそ価値があるという安っぽい考えがにじみ出ています。

 

勉強は無駄であると思い込みたいのでしょう。それは自分の心の中に保持しておくべきことで、同調者を募ろうと、世間に向けて発するべきものではありません。児童・生徒の耳に届けるべき言葉ではないのです。

 

当然、仕事をもち、社会というつながりの中で生きていくことは意義あることです。子供たちもいずれ社会に出ていくでしょう。社会に出て必要なことは、生活をし、仕事をするなかで、怒られたり励まされたり褒められたりしながら身につけていくものではないでしょうか。もちろん、人間関係を築くうえで基本となるマナーやコミュニケーションは子供のうちに身につけておくことが望ましいものですが、教科学習で学ぶことではないと思います。

 

そもそも、この世の中にはたくさんの仕事があり、そこで求められる技術や素養は同一ではありません。あらゆる仕事に共通して「役に立つ」事柄だけを教えることは不可能です。

 

 

極論すれば、この世の中に絶対的に必要な知識はありません。時代や場所、社会や立場などによって、どのような知識が大切で価値があるかは変わります。つまり、何を覚えなければならないかは、究極的には、決定的なものではないということです。

 

それでも、年号を覚えることには意味があります。大事なのは、数字の羅列を記憶することではなく、「歴史」という観点から人類の営みやありかたに迫ろうとすることです。暗記は、そのための実に初歩的な手段です。概念や知識をより明確に、鮮明に収集することで、やっと学習の準備が整うのです。

 

さらに重要なのは、暗記が訓練であるという側面です。暗記に向き合い、知識を吸収しようと格闘し、努力することを通して、身につけられるものがあります。

 (ivy 松村)

生徒の皆さんへ

人間の脳は忘れるようにできています。忘却の機能が備わっているので、いざテストのときに思い出せなくなることがあります。

 

忘れるということ自体は、不注意でも怠慢でもなく、生理的なものですから、仕方のないことです。しかし、忘れることへの対策を取らなかったために解答することができなかったのだとしたら、それは反省するべきです。

 

人間は忘れる生き物です。であるならば、忘れてしまっていないかどうかの確認を怠ってはいけません。

 

忘れることは、人間にとって自然なことなのですから、ことさらに恐れる必要はありません。「忘れる」という私たち人間の性質とうまく付き合っていけばいいのです。大切なのは覚えなおすことです。

 

 

ちなみに、大人になるほど、暗記をしなくてもよくなります。自由にメモや記録を見たり、調べたりすることができます。さらに、大人は、忘れたときに「笑ってごまかす」という究極の対処法を使うことができます。ずるいですね。

 

 

忘れてしまうということを常に想定して勉強していきましょう。ただし、「どうせ、忘れる」という認識を持ってはいけません。あくまで、強い意志の下に暗記に取り組んでください。結果として、忘れることがあるのです。

 

がんばって覚えたことを忘れてしまったら、もちろんショックですし、落ち込んでしまいます。自己嫌悪に陥ってしまう人もいると思います。しかし、忘れることは罪ではありません。勉強にとっての罪は、覚えようとしないことです。放置することです。

 

暗記という取り組みは、多くの人にとって苦痛で、ストレスを感じてしまうものです。忘れてしまったときに、覚えるために使った時間や労力が無駄になったように思ってしまいます。結局忘れてしまうのだから、覚えようと努力することに意味はない、と考えてしまう人も出てきます。それは、敗者の思考です。決してそのような考えにとらわれないでください。

 

勇気をもって暗記に取り組んでください。

勇気とは、自分が傷つく可能性を覚悟して前進する決意のことをいいます。

その先に、手に入れるべき財産があります。

 (ivy 松村)

暗記の具体例

「関連づけ」を行いながら暗記をする例を紹介します。

 

 

例えば、歴史の年号を覚えるとき:

 

「いくさ苦しい第二次世界大戦」「い(1)く(9)さ(3)く(9)るしい」というようなゴロ合わせで覚えると、「3項目」覚えることになります。

 

1919年 ベルサイユ条約

1929年 世界恐慌

1939年 第二次世界大戦

 

10年ごとに並べ、流れをつかみます。

 

「ベルサイユ条約によってはじまった軍縮への動きが、世界恐慌によって崩れ、その10年後に次の大戦を迎える」

これらを孤立した個々の出来事として覚えるよりも、つながりのある事柄としてとらえたほうがより覚えやすく、また、連想によって「アウトプット」しやすくなるはずです。

 

 

例えば、英単語を覚えるとき:

 

survival”は「鯖威張る」(魚のサバが生き残ったことを自慢している)などと覚えるのは、あまり質の高い勉強ではありませんね。

 

・survival(存続、生き残ること)は動詞のsurviveの名詞形

・surviveは sur(上に=above)+ vive(生きる=live)という語源(ラテン語)

・「他にまさって生きる」…「生き残る」→「切り抜ける」

・reviveは re(再び=again)+ vive(生きる)→「生き返らせる」「回復する(させる)」

・revival(回復、再生)→「リバイバル」(昔の流行の復活)

・viv =live,vit =life

・vital(生命の、活気のある)、vitality(活力、体力、生命力)

・vivid(いきいきとした→鮮明な)

・sur =above

・surface〔発音注意〕は sur(上)+ face(顔)→「顔の上」…表面

 

「関連づけ」を行うことでことで知識の網目を広げ、 記憶が定着しやすくなります。また、訳語や意味を引き出しやすくなるはずです。

 

 

「関連づけ」は、覚えるべき対象に論理的な意味を与えるということです。少し大げさにいえば、それは創造的な行為であるといえるでしょう。

単なる文字、単なる発音を、内実をともなった概念として捉え直す取り組みです。

 

そうした取り組みは、覚えなければならない事柄をより強く自分に印象付け、暗記の手助けになります。しかし実は、さらに重要なのは、それが暗記の能力を拡張することにつながるのだということです。

 

暗記力は、定められた才能などではありません。工夫と努力によって伸ばしていくことができるものなのです。

 (ivy 松村)

 

 

暗記をするときの工夫

暗記するときに意識しなければならないのは、後で記憶を「アウトプット」できるかということです。「アウトプット」しやすくするために、「インプット」の工夫をすることが、「整理をしながら覚える」ということです。

 

では、「整理」とは、実際「インプット」するときに何をすることなのでしょうか。

 

2つの方法を紹介したいと思います。

 

ひとつは「階層化」です。「階層化」とは、分かりやすくいえば、分類し仕分けることです。

 

パソコンにデータを保存するときのことをイメージしてください。たくさんの種類のデータを一つの場所に全部入れてしまうと、管理が大変になってしまいます。データの種類や使用する用途に合わせて複数のフォルダを作って管理します。必要であれば、フォルダの中にさらにフォルダを作って、細かい分類をします。そうすれば、素早くデータにアクセスしたり閲覧したりできるようになります。

 

例えば、「let it go」という曲を保存するときに、「ミュージック」→「サウンドトラック」→「ディズニー」→「アナと雪の女王」→というように、データの置き場所をある範囲ごとに限定しておくことで、聞きたいときにすぐに見つけ出すことができます。

 

暗記も同じように、まとまりや属性を意識し、分類しながら行うことが効果的です。記憶を「階層化」することで、記憶の奥にまで筋道立ててアクセスできるようになるでしょう。そうすることで、「アウトプット」しやすくなります。

 

もうひとつは「関連づけ」です。

 

文脈の存在しない、単独の言葉の羅列を覚えるのは大変です。しかし、それに比べて、歌の歌詞などは覚えやすいはずです。メロディーやリズムと関連づけられているからです。同様に、感覚や体験と関連づけられた事柄は、はっきり覚えているものです。ですから、ゴロ合わせや替え歌などの「関連づけ」の工夫によって、暗記がはかどることもあります。

 

最もよいのは、覚えるべき事柄同士を関連づけることです。関連づけの網目が強く、広く結びつけられるほど、記憶は確かなものになります。特に、因果関係や比例・反比例などの相関関係や、親族関係、類似性、法則性などを見出し、それぞれ個別に独立してあった事柄をまとめ、記憶をネットワーク化することが効果的です。


(ivy 松村)

暗記とは

暗記について、広く浸透している一般的な誤解があります。

暗記は、言葉を「詰め込む」作業であるという認識です。

 

押し入れに物を収納するときのことを考えてみましょう。

片端から物を突っ込み、ぎゅうぎゅう押し込んで、たくさん入ってよかったね、ということにはならないでしょう。

 

なるべくたくさん物が入ればいいというものではありません。当然のことながら、使いたいと思うときに、使いたいと思う物を取り出せなければ意味がありません。取り出せなければ、それは失われてしまったことと同義です。所有しているはずの物を、新しく買い求めなければならないとしたら、本当にばかげています。

 

記憶にも同じことがいえます。思い出せなければ、忘れてしまったことと同義なのです。「暗記した」というのは、必要なときに、必要な情報や知識を脳から呼び出すことができる状態のことです。

 

テストの後で、答えを知って、あぁ、そうか!と叫んで、がっくり肩を落とした経験は、誰にもあるものだと思います。それは、記憶しているけれど、その情報を取り出すことができなかったということなのです。

 

覚えなければならないときに、言葉を脳に刻みこもうと努力するだけでは効果的な暗記はできません。情報や知識を、後で必要なときに脳から取り出せるように、整理しながら収容することが大切なのです。

 

押し入れに何でもかんでも詰め込んで、いちいち中身をひっかき出して探していたら、毎回大変な労力が必要になります。そうならないために、ふつうは、たくさんの物を収めるときには、冬服、スポーツ用品、玩具、などをボックスに分け入れて収納します。

 

同じように、暗記も、覚える事柄を整理しながら脳に収容していくべきなのです。そうすることで、必要なときに円滑に記憶を取り出すことができるようになるのです。

 (ivy 松村)