英語の語順の話③

英語は、「語順」が定められている言語です。

そのために、「語順整序」のような問題形式があり得ます。

 

一方、日本語は、厳密な「語順」が定められていません。

「助詞」の働きによって「文の成分」が表示されるために、文中のどの位置に「語」を配置しても文意を損なうことはありません。

そのために、自由な語順操作が可能となります。

 

ふたつの言語は、非常に対照的です。

 

しかし、実は、古い英語は、日本語のように「語」を並べ替えることができるタイプの言語でした。これは、意外に知られていません。

 

 

日本語と同じように、語順操作が可能な言語のひとつにドイツ語がありますが、英語の元になったのは、ドイツ語の方言なのです。

 

「古英語」(Old English)は、現在のドイツ語と同じように、語順操作が可能な言語でした。

 

 

 

5世紀ごろに、現在のドイツに住んでいた「ゲルマン人」の、大規模なイギリス移住が起こりました。彼らの話していた言語が英語の「母体」となったのです。

 

 

 

ところで、公立中学では、ほぼ例外なく音楽の時間にシューベルトの「魔王」を学習します。

その中で、いくつかのドイツ語に触れる機会があります。

そこに出てくるドイツ語の単語が、英語に非常によく似ていることに気づいた人もいると思います。

 

 

ドイツ語 英語
私の~ mein(マイン) my(マイ)
息子 Sohn(ゾーン) son(サン)
Varter(ファーター) father(ファーザー)
子供 Kind(キント) kid(キッド)

 

 

 

英語とドイツ語は、もともと「祖先」が同じ言語です。

 

しかし、現在の英語とドイツ語には、非常に大きな相違があるわけです。

それは、英語は「語順」が固定されているのに対し、ドイツは「語順」を操作できるという点です。

 

 

 

次のドイツ語の文を見てみましょう。

 

「Mein Vater liest das Buch.」

 

これは、英語の「My father reads the book.」という文に対応しています。

 

「Mein Vater」=「私の父」

「liest」=「(彼は)読む」

「das Buch」=「その本を」

 

 

(ドイツ語で本のことを「Buch」(ブーフ)と言いますが、英語の「book」と対応していることがわかりますね。)

 

 

さて、英語は、当然のことながら「My father reads the book.」以外の「語順」で語を配置することができないわけです。

「主語・動詞・目的語」の「語順」は「絶対」です。

 

ところが、ドイツ語は、以下のような「語順」で「語」を並べ替えることが許されているのです。

 

 

「Das Buch liest mein Vater.」(その本を、父は読む。)

 

 

「目的語」である「das Buch」が、動詞の前に配置されています。

英語の文法では、その位置は「主語」が置かれなければなりませんが、ドイツ語の場合には、「目的語」や副詞などの「修飾要素」を置くこともできます。「語」の自由な配置が許されているわけです。

(ただし、「動詞」は「第二番目」の位置に置くことが定められています。)

 

 

 

上記のドイツ語と「同じ語順」で英語を並べてみると:

 

 

?「The book reads my father.」(?その本は私の父を読む。)

 

 

まったく「意味不明」の文が出来上がります。

 

 

 

では、なぜ、ドイツ語は英語とは違って、語順操作が可能なのでしょうか。

 

その理由は冠詞と代名詞にあります。

 

「Das Buch liest mein Vater.」という文には、「das」という冠詞(英語の「the」に相当する)と「mein」(英語の「my」に相当する)という代名詞が現れています。

 

実は、これらの語が「主語」や「目的語」を示すように「変化」しているのです。

 

(実際には、少しまぎらわしい部分もあるのですが、)「mein Vater」は必ず「主語」であることを表し、そして「das Buch」は、「目的語」であると理解されるのです。

 

ですから、この2つの「要素」を入れかえても、文意を混同することはあり得ないわけです。

 

 

 

ドイツ語は、「主語」や「目的語」を示すのに、「単語を変化させる」タイプの言語なのです。

 

 

 

まとめてみましょう。

 

 

・「英語」…「主語」や「目的語」を示すのは「語順」

・「日本語」…「主語」や「目的語」を示すのは「助詞」

・「ドイツ語」…「主語」や「目的語」を示すのは「単語の変化」

 

 

 

さて、英語はもともとドイツ語と同じように、語順操作が可能な言語だったという話でした。

 

現代の英語は、古い時代の英語とは「全く別物」となっているのです。

 

かつての英語は、ドイツ語によく似た文法を有し、自由に語を配置することができるタイプの言語でした。

しかし、数百年ほどの間に、英語は急激な変化を遂げ、現在の形になります。

おそらく英語は、地球上のあらゆる言語の中で、ほんの数世紀という短期間に、最も大きく変貌した言語です。

 

 

 

ところで、伝統的な言語学では、言語を3つの類型に分類します。

それは、「言語類型論」と呼ばれます。

一般的には、以下のような分類であると理解されています。

 

 

・「屈折語」…単語が「変化」する(ロシア語・ドイツ語など)

・「膠着語」…単語に付属する「機能語」(つまり「助詞」)がある(日本語・トルコ語など)

・「孤立語」…「単語の変化」や「単語に付属する語」がない(中国語・ベトナム語など)

 

 

実は、言語学の専門家のなかにも、「言語類型論」の本質を見誤っている人がいます。

 

「言語類型論」は、実は、「格」の表示方法によって言語を分類するものなのです。

 

「格」とは、簡単にいえば、「文中での名詞の働き」のことをいいます。もう少しわかりやすくいえば、「主語」や「目的語」といった「役割」のことです。

つまり、「主語」や「目的語」の表しかたによって、言語を分類するわけです。

 

 

したがって、それぞれの言語の「類型」は、以下のような「説明」が、より的を射ています。

 

 

・「屈折語」…単語を変化させて「格」を表示する

・「膠着語」…「機能語」を付属させることによって「格」を表示する

・「孤立語」…「語順」によって、「格」を表示する

 

 

この分類に従えば、現代英語は「孤立語」の特性を持った言語であるということがわかります。

英語は、「屈折語」から「孤立語」へと、その性質を根本から変えてしまった言語なのです。

 

 

「屈折語」であるドイツ語や「膠着語」である日本語は、「主語」や「目的語」を顕在的に示すことができるので、語順操作が可能になります。

 

一方、「孤立語」である英語は、「語順」によってのみ、「格」の表示が可能となります。

 

ですから、「The book reads my father.」という文も、理性的に考えて「私の父はその本を読む。」と言いたいのだな、と頭の片隅では理解していても、その解釈は否定されてしまうわけです。

 

 

「語順」だけが、英語の「格」を決定する「ルール」だからです。

 

 

 (ivy 松村)

 

英語の語順の話②

英語を聞き取るときに、「語順」を意識することが、リスニング上達のポイントです。

 

 

ある英語のセンテンスが、「ミ・シスタ・サー・ラ・キャッティン・ラ・パーケェスタディ」と聞こえたとします。

 

 

まず、最初の「ミ」ですが、その後ろの「シスタ」が「sister」であることがわかるので、その前に置かれるはずの語を「推測」します。

 

「名詞」の直前に置かれる語は、形容詞や冠詞、代名詞などがあります。

「ミ」と聞こえるわけですから、それは「m」という子音をもつ1音節か2音節の語であると考えることができます。

 

そうすると、「my sister…」という「意味のかたまり」が浮かび上がってきます。

 

 

「ミ」という「音」から判断するのではなくて、「シスタ」を含め、文を構成する語との「関連」で捉えるわけです。

「ミ」と発音された瞬間に「その語」の意味が特定されるのではなく、文全体の構成が明らかになるにつれて、「その語」が輪郭をあらわすイメージです。

 

 

「my sister」の次に「サー」と聞こえる語が続きます。

 

文頭にある「my sister」は、名詞の「かたまり」ですから、これが「主語」であると推測することができます。すると、「サー」は動詞であると考えることができます。

 

今度は、「s」という子音を持つ1音節か2音節の動詞を類推します。

 

「see」や「sell」「sit」「set」「say」…などが候補となります。

 

しかし、「主語」は「my sister」です。

その動詞が現在形なのだとすれば、「s」が付けられることになります。

 

「sees」「sells」「sits」「sets」「says」…。

 

そうなると、これらの語は「サー」と聞こえるはずがありません。

 

当然、進行形や完了形、未来形であるはずがないので、「サー」と聞こえる語は過去形であるということになります。

 

「saw」「sold」「sat」「set」「said」…。

 

「sold」は除外されます。「sat」「set」「said」には破裂音が現れます。「ッ」という「つまる音」(促音)です。

 

よって、「サー」と聞こえる動詞は「saw」(ソウ)しかありえません。リスニングの経験を積んで、「サー」と聞こえる「音」と「saw」という語が脳内で常に連結されるようになれば、自然に意味を感知できるようになります。

 

 

同じように、「saw」の後ろには「目的語」が置かれるはずだということが推測てきます。

つまり、名詞か名詞句が並べられるはずです。

したがって、「ラ」と聞こえる「弱い音」が、「the」なのだと特定できるわけです。

 

「キャッティン」と聞こえる部分の後ろにも「ラ」と聞こえる「the」があります。

そうすると、さらにその後ろにある「パーケェスタディ」も、名詞を含む語の「かたまり」であるということになります。

 

 

「パーケェスタディ」は、「音の連結」によって語が「つながって」います。

後半部分が「yesterday」であるとわかれば、前半の「パーケ」と聞こえる部分の語末は「k」の「音」であると思いつくことができるでしょう。

すると、これらの語の「かたまり」は「the park yesterday」となることがわかります。

 

 

「the park」という名詞の前には、前置詞が配置されるはずです。

 

したがって、「パーケェスタディ」の前に置かれている「キャッティン」と聞こえる語のつながりは、前半が名詞、後半が前置詞であるということになります。

 

これが「cat in」であると特定できれば、文全体が浮かび上がってきます。

 

 

「ミ・シスタ・サー・ラ・キャッティン・ラ・パーケェスタディ」

 

→「My sister saw the cat in the park yesterday.」となるわけです。

 

 

 

もちろん、全ての英語話者が、毎時このような「パズル」を解きながらコミュニケーションしているというわけではありません。

 

耳が慣れてくると、もっと直接的に、発音された英語の文の意味を把握することができるでしょう。

 

 

 

耳が慣れてくるまでは、「考えながら聞く」ことがとても重要です。

 

英語の聴き取りは、「音」だけを頼りにして語を特定しようとしても、なかなかうまくいきません。

短期間で英語のリスニングの力を向上させていこうとすれば、「語順」を意識しながら練習したり、訓練したりすることが必要です。

 

 

(ivy 松村)

 

 

英語の語順の話①

英語のテストで出題される典型的な問題形式に「語順整序」があります。

いわゆる「並べ替え問題」です。

 

英語の基本語順は:

 

 

「主語」→「動詞」→「目的語」→「場所・時間」

 

 

になります。

 

このうち、「場所・時間」は、強調したいときなどに文頭に置くことができます。

つまり、「倒置」が可能です。

 

しかし、「主語」→「動詞」→「目的語」の語順を動かすことはできません。

語順を変えてしまうと、文意が変わってしまうからです。

 

 

 

例を見ながら考えてみましょう。

 

My sister saw the cat in the park yesterday.

(私の妹は昨日公園でその猫を見た。)

 

この文は、以下のような「倒置」をすることが可能です。

 

In the park my sister saw the cat yesterday.

(公園で私の妹は昨日その猫を見た。)

 

Yesterday my sister saw the cat in the park.

(昨日私の妹は公園でその猫を見た。)

 

 

「時間・場所」などの修飾要素は文頭に置くことができます。

ですから「語順整序」の問題で、答えを「一通り」にするために、文頭や文末が指定されることがあります。

 

 

 

しかし、以下のような語順操作は許容されていません。

「内容」が変わってしまうからです。

 

 

* The cat saw my sister…

(その猫は私の妹を見た・・・)

 

 

元の文の主語は「my sister」ですが、その位置に目的語である「the cat」を入れてしまうと、「the cat」が「主語」であるとみなされてしまいます。

 

英語は、「主語→動詞→目的語」の語順が固定されている言語です。

 

 

 

一方、日本語は、英語よりも「倒置」の許容範囲が広くなっています。

以下のような語順操作が可能です。

 

 

「私の妹は/その猫を/見た。」

 

→「その猫を/私の妹は/見た。」

 

 

日本語は、文末に述語(動詞)を置くというルールがあるのみで、語順を自由に操作できます。

 

以下のすべての文が許容されます。

 

 

「私の妹は昨日公園でその猫を見た。」

「私の妹は昨日その猫を公園で見た。」

 

「私の妹は公園で昨日その猫を見た。」

「私の妹は公園でその猫を昨日見た。」

 

「私の妹はその猫を昨日公園で見た。」

「私の妹はその猫を公園で昨日見た。」

 

「昨日私の妹は公園でその猫を見た。」

「昨日私の妹はその猫を公園で見た。」

 

「昨日公園で私の妹はその猫を見た。」

「昨日公園でその猫を私の妹は見た。」

 

「昨日その猫を公園で私の妹は見た。」

「昨日その猫を私の妹は公園で見た。」

 

「公園で昨日私の妹はその猫を見た。」

「公園で昨日その猫を私の妹は見た。」

 

「公園で私の妹は昨日その猫を見た。」

「公園で私の妹はその猫を昨日見た。」

 

「公園でその猫を私の妹は昨日見た。」

「公園でその猫を昨日私の妹は見た。」

 

「その猫を昨日公園で私の妹は見た。」

「その猫を昨日私の妹は公園で見た。」

 

「その猫を公園で私の妹は昨日見た。」

「その猫を公園で昨日私の妹は見た。」

 

「その猫を私の妹は昨日公園で見た。」

「その猫を私の妹は公園で昨日見た。」

 

 

 

実際には、述語(動詞)を「倒置」することさえ可能です。

語順操作をしても、文意を損なうことはないからです。

 

 

「見た、私の妹は昨日公園でその猫を。」

「私の妹は見た、昨日その猫を公園で。」

「その猫を私の妹は見た、公園で昨日。」

「公園で見た、昨日その猫を私の妹は。」

「昨日その猫を見た、公園で私の妹は。」

 

 

つまり、厳密には、日本語は、ほぼ全ての「要素」を自由に並べ替えることができるのです。

ですから、「日本語の試験」では「語順整序」の設問が成立しません。

 

 

 

なぜ、日本語にそのような自由な「かき混ぜ」が可能なのかといえば、それは日本語に「助詞」があるからです。

 

「私の妹はその猫を見た。」という文の「主語」は「私の妹は」です。

 

(正確には、「私の妹は」は連文節なので、国文法の説明では「主部」になります。)

 

「私の妹は」という語が、「主語」であると認識されるのは「は」という「助詞」が付属しているからです。そのために、文中のどの位置にあっても、この語は「主語」であると見なされるのです。

 

同様に、「その猫を」が「目的語」であると認識されるのは、「を」という「助詞」の働きによるものです。その機能によって、やはり、文中のどの位置にも置くことができるのです。

 

(国文法では、この語は「連用修飾部」であると説明されます。)

 

 

 

英語は、「位置」によって「主語」と「目的語」を認識します。

 

「my sister」が動詞の前に置かれれば、「my sister」が「主語」になり、「the cat」が動詞の前に置かれれば、「the cat」が「主語」になるのです。

 

 

 

日本語は、文の意味を構成するのに「助詞」に依存する言語です。

 

一方、英語は、文の意味を構成するのに「語順」に依存する言語です。

 

 

 

英語を学習するときには、常に「語順」を意識してください。

 

「語順」が言葉の意味を確定するのですから、英語を読み取ろうとするときには、「語順」を踏まえて考えなければならないのです。

 

 

「語順整序」の問題だけについて述べているのではありません。

当たり前のことですが、英語を読解する際に、常に「語順」を分析する必要があるわけです。

 

 

そして、これは本当に重要な指摘になりますが、実は、リスニングが上達するためには、「語順」を意識しながら聞き取らなければならないのです。

 

 

私たちは、リスニングの際に、つい「音」をクリアに聞き取ろうとしてしまいます。

それは、私たちが日本語話者であることと関係しています。

 

日本語を聞き取るとき、私たちは「助詞」によって意味を把握します。

そのために、私たちは、単語に付属している「助詞」が「が」なのか、それとも「を」なのか、あるいは「に」なのか「の」なのか……集中して聞いているのです。

日本語話者には、「音」を頼りにして「発話内容」を理解しようとする習性があるのです。

 

同じようなアプローチで「英語を聞き取ろう」としても、なかなかうまくいきません。

なぜかといえば、英語話者は、日本人に比べて「音」への意識が希薄なので、非常に散漫な「発音」をするからです。

 

(一応念のためにいっておきますが、私は、英語話者が「いいかげん」であるといっているのではありません。それぞれの言語の「相対的な特徴」についての話をしているのです。)

 

 

英語話者にとって重要なのは「音」に加えて「語順」なのです。

彼らは、私たちがルーズだと感じてしまうような「発音」の意味を理解できます。

それは、文の中で、ある「位置」を占拠するべき語がどのようなものなのか、推測しながら聞き取っているからです。

 

「リスニング」といっても、英語話者は、「音」だけを判断材料にして「内容」を飲み込んでいるのではありません。

「語順」という「フレーム」を前提として発話し、また、聞き取っているのです。

 

 

 (ivy 松村)

 

 

 

明朝有意抱「教科書」来

二中の中間テストが終わり、答案が返されはじめました。

ひよ中の中間テストは、金、月となっています。月曜日に向けてテスト勉強中です。

四中は、月曜日から中間テストがはじまります。

平山中は、火曜日からです。

 

七生中、打越中、横山中は再来週に中間テストがあり、八王子七中はさらにその次の週に中間テストです。

 

今週は七生中と打越中が修学旅行でした。

 

今日は七生中が学校公開日でしたが、各中学で学校公開の日程も違っています。

土曜日の午後から行っている中3の授業がなかなか大変です。

 

今週は、19、22が祝日だったので、中2の授業日が少なくなってしまいました。

そのために、金曜日に振替え授業を行いました。

 

 

10月8日には英語検定があります。

 

中間テストを終えた中学の中3は、公開模試も考えなければなりません。

 

10月初旬から中旬にかけて、生徒面談を行います。

 

10月の後半に入ると合唱コンクールなどがあり、また、せわしなくなってきます。

 

 

 

気がつくと、もう9月も終わりに近づいていて、夏の気配は消え失せていました。

 

 

 

さて、明日も、勉強をする生徒たちのために校舎を開けて待っています。

 

 

(ivy 松村)

 

 

最近のニュースから

この数日、2人の女性政治家が注目を浴びました。

 

小池都知事と蓮舫民進党代表は、外国への留学経験、テレビキャスター出身という共通点があります。

 

しかし、政治スタンスや手法などを比べてみると、2人は実に対照的な政治家だと思います。

 

 

蓮舫さんは、旧来の政治手法を踏襲しています。

派閥政治の枠組みの中で、実力者に支持の「お願い」をして、「数」を確保するという「月並み」な、よく言えば「手堅い」党首戦を戦いました。

 

「メディア対応」の点でも、蓮舫さんは「従来型」の政治家でした。

新聞やテレビといった「マスコミ」をおさえれば、「世論」を引き寄せる上で「有利」になるという「素朴な観念」から抜けきることができませんでした。そのために、一連の「批判」の、反響的な拡大を招きました。

 

 

 

一方の小池さんは、現代政治の最も大きな潮流である「劇場型」の選挙を仕掛け、都知事選を勝ち抜きました。それは、はた目には「奇策」に映るものだったわけですが、小池さんの陣営は、「勝算」があって動いていたはずです。

 

東京は伝統的に「改革派」の候補者が強い地域です。

東京、大阪などの大都市の首長選挙では、「現状」を打破してくれるという期待を抱かせる候補者が現れたときに、票が集中する傾向があります。

近年は、政令市や都道府県の首長選挙でも、たびたび「改革派」の候補者の、いわゆる「地滑り的勝利」が見られるようになりました。

 

 

「改革派」というのは、いわゆる「保守派」と相対する立場、という意味ではありません。

「保守」の対義語には「革新」あるいは「進歩」という語が用いられますが、政治的な文脈では「リベラル」という言葉が使われます。「リベラル」は、残念ながら、21世紀の政治の潮流のなかで「劣勢」に立たされています。

蓮舫さんが自らを「保守」であると強調し、位置づけたのも、現代政治の文脈と関係があります。

 

 

さて、小池さんは、実は、「かなりの保守派」です。小池さんの政治スタンスや過去の発言に注目してみると、小池さんは、自民党内でもどちらかというと「保守」の色が濃い政治家であることがわかります。

 

つまり、政治的には「保守派」の立場をとる小池さんが、今回の都知事選挙では、「改革派」の政治家として、有権者からの票を集め、当選を果たしたわけです。

 

 

 

その点について、もう少し考えてみましょう。

勘違いしている「評論家」も多くいるのですが、現代は、「保守」か「リベラル」かという観点は、有権者の投票行動を規制していません。

つまり、ほとんどの有権者は、候補者の立場や思想が「保守派」であるか「リベラル派」であるかを確認して、だれに投票するかを決めているわけではないのです。

 

「リベラル」な考え方を持っている有権者が、「保守派」の候補者に投票するということが「自然に」起こるわけです。

 

 

今回の都知事選は、各種メディアでは「保守分裂選挙」と言われていました。

「保守派」は「統一候補」を立てることができずに、2人の有力候補が争うことになったわけです。一般的なとらえ方をすれば、「保守派」を支持する有権者の票が分散されることになります。「構図」から考えると、「漁夫の利」を得ることができる「リベラル派」の立候補者は有利な状況です。

 

ところが、結果は、「保守派」の立候補者の1人である小池さんの圧勝でした。

小池さんの、都政を「改革」しようという意志や構想が、有権者の心をつかんだからです。各種の調査で、心情的に「リベラル派」に近い考えを持っている有権者の多くが、小池さんに投票したことがわかっています。

 

都知事選挙では、「何を変えていくのか」という政策構想を伝えることが、もっとも重要なアピールとなります。

にもかかわらず、「リベラル派」の候補者は、「リベラル」という「主義」を主張するために選挙を戦いました。その結果、「惨敗」を喫することになったのです。

 

 

今回の都知事選挙では、小池さんは、「現状」を打破することを期待されたわけです。つまり、都政をより良いものに変えることができる「改革派」の政治家として、票を集め、当選を果たしたのです。

 

 

選挙活動期間をとおして、小池さんの評価は日増しに高まっていきました。

都知事選後、いくつかの報道や記事で、その選挙戦略は小沢さんや小泉さんに学んだものであるという指摘がなされていました。

考えてみれば、小池さんは、冷戦が崩壊し、55年体制が終焉を迎えた90年代以降の「政局」のメインストリームを歩んできた政治家です。

 

さらにいえば、私は、現在の小池さんの政治的な「方法論」は、安倍さんと橋下さんの影響を強く受けていると思います。

 

 

小池さんは、「世論のつかみ方」がとても上手です。「世論」を正しく捉えるために、小池さんのブレーンは、「インターネット」を綿密に分析されていると思います。

また、トピックの提示や政策メッセージの発信が非常に巧みです。

 

 

安倍さんの「スタッフ」には、世耕さんをはじめとする「ネットリテラシー」に長けた「参謀」がいます。自民党が、2010年代に入って圧倒的な「強さ」を発揮しているのは、「世論」に対して的確な「情報収集」と「情報発信」を行うことができているからです。

 

また、橋下さんは、メディアを非常に巧みに利用する「劇場型」の政治家として知られています。

 

安倍さんと橋下さんに共通するのは、情報の扱いに長けているということです。

「世論」の動向を把握したり、「世論」を刺激したりする方法論を確立しつつあるという点でも共通しています。

そして、小池さんもまた、同じ長所を兼ねそなえた政治家であるといえます。

 

小池さんは、間違いなく「現代政治の最前線」にいます。

 

 

 

ところで、最近、元東京都知事の石原さんがニュースに頻繁に登場しています。築地市場の移設先として新しく建設された豊洲市場の地下に「盛り土」がされていなかったことが発覚した問題です。

だれが「その指示」を出したのか、が焦点となっています。

それで、「当時」の「市場長」だった比留間英人さんがニュースに登場して反論したり意見を述べたりしています。

 

この方の名前、どこかで見かけた記憶があると思っていたのですが、少し前に、石原さんの都知事時代を調べたときに確認していました。

 

 

比留間さんは、石原さんが都知事を辞められる直前の2012年に、東京都教育委員会の教育長になった方です。比留間さんは、「教育畑」を歩んできた方で、もともとは教育庁でキャリアを積まれています。

2001年には学務部長をされ、翌年に総務部長、さらに教育庁次長を経て、中央卸売市場長に就任されます。その後、「関連会社」の社長を歴任された後、教育長に任命されます。

比留間さんは、石原さんに抜擢されて、急速に昇任を果たしています。

 

「畑違い」の市場長に任命されたのも、石原さんが頼りにされていたからなのだろうと思います。石原さんは、都知事時代に、教育庁出身の方を重用されていました。

 

 

 

私が最初に比留間さんの名前を確認したのは、歴代の教育委員を調べたときで、「インフラ系」の方が教育長に就任したことに、少し不思議な感じがしました。

それから、経歴を拝見して、もともと教育庁出身の方なのだと分かりました。

教育長の選任には知事の意向が反映されるので、おそらく、石原さんの信任の厚い方なのだろうと考えていました。

 

ところが、教育委員会の会議録などの発言を読んでみると、比留間さんは、必ずしも石原さんの方向性と一致した考えを持っているわけではないということがわかりました。

 

 

これは、興味深く思いました。

石原さんは、比留間さんを優秀な人材として評価し、信頼していたけれども、比留間さんは、都知事辞任後の石原さんに、献身しようと思っていたわけではないのだろうと感じました。

 

それは、比留間さんが必ずしも冷徹な人間であるということではなく、ある意味では道理に沿った行動です。都知事を辞めた石原さんには、比留間さんの言動を規制するような権限はありません。

 

 

 

報道では、石原さんと比留間さんの説明が食い違うことにスポットがあてられていました。

後になって、石原さんは、自分の勘違いがあったと発言を訂正されています。

 

 

それにしても、この件、私には何やら、一種の「寓話」のように感じられます。

 

今後、どのような展開が訪れるのか、ちょっと気になりますね。

 

 

 

また話は変わりますが、難題が山積みの都政を、小池さんがどう「切り盛り」するのか、大きく注目されています。

 

塾の人間としては、小池さんが「教育政策」をどのように考えているのか、気になります。

 

 

石原さんは、都立高校の「復権」を推し進めました。

しかし、実は、石原さんが都知事になる前から、都立高校の「改革」は教育庁内で議論されていました。

実際には、石原さんが率先して都立高校を「復権」させたというよりも、意欲のある「職員」に権限を与えて、「改革」を推し進めることを認可したというべきなのかもしれません。

 

しかし、一般的に健全な社会では、「そういった仕事」もまた、「組織のトップ」の業績としてみなされるわけです。

 

(そして、一方で、職員たちが「勝手にやったこと」であっても、「組織のトップ」の責任であるとみなされるわけです。)

 

 

注目すべきなのは、石原さんが「私立高校」ではなく「都立高校」に重きを置く政策に水をささなかったことです。そのおかげで、都立高校の「復権」は成し得ました。

それは、僥倖であったとさえ思います。

 

 

なぜ、石原さんが「都立高校」の「改革」を支持したのかといえば、その理由のひとつは、おそらく、石原さんの「学歴」と関係しているように思います。

 

石原さんは、神奈川の名門「県立湘南高校」を卒業されています。

これは個人的な想像にすぎませんが、石原さん自身が「公立高校」の出身であることが、「公立高校寄りの政策」を支援する方針に繋がったのではないかと思います。

 

調べてみると、石原さんの周りにも、公立高校出身の方が多くいらっしゃいました。

(これには、世代的な背景もあります。)

 

公立高校の出身で、政・官・財の要職にある人は、体験的に、名門の公立高校から国立大学に入るという「道程」に誇りを持っています。ですから、名門の公立高校は威厳と実力が備わってしかるべきであると考えます。

そういった観念が、都立高校の「復権」の原動力のひとつとなったのかもしれません。

 

 

広く一般的に、人間という存在は、学閥、門閥、派閥などの「出身」を贔屓にする習性があるといえます。

 

 

さて、新しく都知事に就任された小池さんですが、私立学校の出身です。

 

小池さんが、傑出した「政治感覚」を持った政治家であるならば、都立高校の「路線」を後退させようとするような「職員」に、「権限」を与えることはないと思いますが、どうでしょう。

 

気になりますね。

 

 

(ivy 松村)

 

お知らせ「2学期中間テスト対策」

中間テストが近づいてきた中学校があります。

 

定期テスト対策のために、校舎を開けます。

 

中間テスト対策:

 

・9月17日(土) 12:00~

・9月18日(日) 14:00~

・9月19日(休) 14:00~

 

・9月24日(土) 12:00~

・9月25日(日) 14:00~

 

 

来月に中間テストがある中学の人も、今のうちからテスト勉強をはじめてはどうでしょうか。

また、英検対策に取り組むこともできますし、中3生は過去問に挑戦するのもよいと思います。

 

 

 

◎夏期合宿、単語オリンピックの表彰◎

 

gasshuku

 

壮絶な接戦の末、金・銀・銅メダルが決まりました。

 

現在、週2回単語テストを実施していますが、「あのとき」のような「真剣さ」で向き合うことができていますか?

 

 

 (ivy 松村)

 

漢字検定の結果

夏休みに実施した漢字検定の合否結果が判明しました。

 

塾内生のみなさんには、次回塾にいらした際にお伝えします。

 

外部受験された方には、今月末頃に漢検協会から届く予定の正式な合否通知を郵送します。もうしばらくお待ちください。(早く知りたいという方は、お問合せください。)

 

 

準2級、3級の合格率は、約8割です。非常に大きな成果でした。

 

 

 

今回の漢検の結果は、4級以上の受検者に関しては「予想どおり」の結果となりました。

 

生徒のみなさん自身の「手応え」の「そのまま」の結果が出ています。

 

 

夏休みの間、こちらが用意した「ロードマップ」に沿って、しっかりと勉強を積み重ねていった生徒は全員、合格を手にしました。

 

 

夏期講習ーー黙々とノートに漢字を書き続けた日々を、思い起こしてください。

「努力」と「結果」が、意識の中で結びついたときに、これまでの行為の「意味」を理解することができます。

 

 

 

漢字検定は8月23日に実施されました。

それまでに4度、「過去問」を解く機会を設けました。

 

・8月9日(第Ⅳ期の最終日、検定日の2週間前)

・8月14日(第Ⅴ期の最終日、検定日の9日前)

・8月21日(検定日の2日前)

・8月22日(検定日の前日)

 

 

特に、1回目、2回目の「過去問」演習は重要でした。

 

その時点での自分の「実力」を測り、学習計画を調整していくためです。

「過去問」を解いて合格点に達していないときには、学習にテコ入れが必要になります。

 

今回の漢検の合格者のうち、3分の1ほどの生徒は、1回目、2回目の「過去問」演習でかなり厳しい点数を取っていました。

そこで危機感を感じ、取り組みに対する意識を上げ、学習の質を上げていくことができたからこそ、合格を手にすることができました。

 

 

頑張って取り組んでいたのだけれども、「過去問」演習でなかなか合格点に届くことができなかった生徒がいました。しかし、「本番」で無事、「合格」に達しました。

 

実は、私は、合格する、とわかっていました。点数が徐々に上がってきていたのと、合格したい、という気持ちが折れていなかったので、「最後に届く」と思っていました。

(まあ、「後出し」では何とでも言えるわけですが。)

「合格」に値する勉強を続けてきた人に、ふさわしい結果がもたらされたわけです。

 

 

中には、漢検を「なめていた」生徒がいたはずです。

「過去問」演習で、尻に火がついて、あわてて家で集中的に勉強したのだろう、という生徒がいました。

まあ、それもまた、ひとつの学びです。

 

 

 

漢字検定合格に向けて、その「道筋」を入念に計画しました。

 

「検定対策」が後半に差し掛かってから、効果的な「対策教材」を投入しました。 それは最初から計画していた流れでした。

 

その教材は旺文社のものですが、本当に素晴らしい内容です。

その教材を使えば短期間で効果的な学習ができますが、逆にいえば、それは「ギリギリ合格する」ための教材であるともいえます。

非常に無駄のない作りになっているけれども、それだけに頼ることはできないわけです。

 

それぞれの級で出題される漢字を覚え、出題される問題形式を確認し、自分の「弱点」が把握できた段階で、重点的に学習を強化しなければならない部分を固めるために使用することにしました。

(準2級のものが発行されていないのが残念です。ぜひ出版していただきたいと願っているのですが。)

 

 

行事や部活動、クラブ活動等で夏期講習を休まなければならなくなった生徒には、早い時期に教材を渡しました。

その教材を有効に使った人は、良い結果を手繰り寄せることができたようです。

 

 

 

聡明な生徒たちは、もう、気づいているはずです。

 

漢字検定は、「受験」の予行演習だったのです。

 

どのように「勉強」を積み重ね、どのように「準備」し、どのように「本番」を迎えるべきなのか、を学ぶ機会だったのです。

 

 

 

漢字検定の当日、私はできる限りピリピリした空気を作ろうとしていました。

 

本当は言わないでおこうと思ったのですが、中2の生徒たちを集めた教室で、緊張感に耐え切れなくなって苛立ちが態度にあらわれはじめた生徒がいたので、「種明かし」をしました。

 

 

「入試の緊張感は、こんなもんじゃない。君たちは、こういうプレッシャーやストレスに耐えていけるようにならなくてはいけないのです。」

 

 

それから、目の色が変わって、集中力がぐっと上がった生徒が何人かいました。

 

 

最後に、全ての「道筋」が「受験」をなぞっているのだと、「種明かし」をするつもりでした。

検定がはじまる前に私の意図を伝えてしまったことに、しばらく「もやもや」していたのですが、結果としては「よかった」のかもしれません。むしろ、最初から伝えるべきだったのかもしれません。

でも、最後に「計画」を曲げてしまったことに、ちょっと引っかかっているのです。

実は、いまだに、「正解」を探しています。

 

 

 

さて、大きな成果を手に入れることができた生徒たちがいる一方で、不合格だった生徒もいます。

率直にいって、「運が悪かった」というような、同情すべき不合格者はいません。

いろいろと「不合格の理由」を書き連ねて反省してもらおうと思っていたのですが、やめました。

 

ただ、「不合格」と向き合ってください。

 

(ivy 松村)

 

定期試験のあれこれ

10月8日に実施予定の英語検定の申込締切日が迫っています。

受検をお考えの方は、早めに申込くださるようお願いします。

 

 

 

定期テストが近づいています。

 

八王子みなみ野中は今週末からスタートします。

日野二中、ひよどり山中は来週に迫っています。

 

計画的に取り組むようにしましょう。

 

 

 

一学期の期末試験では、何人かの生徒が学年のトップ5位以内に入りました。

 

 

定期テストは「5教科450点」を目指せ、というようなことが巷で言われていて、私も一つの目安として考えているのですが、この塾に通う生徒たちの中学校で、少し事情が違うところがあるようです。

 

 

ある中学のある学年は、一学期の期末試験で451点以上の点数を取った生徒が1人しかいません。

Y中の3年やH中の2年、N中の1年です。

これらの中学の当該の学年は、5教科で、平均が90点より上の点数を取ったのは学年1位の生徒だけなのです。

 

 

5教科の合計点が惜しくも450点を下回っていたある生徒は、目標点に届かなかったために、非常に悔しそうにしていました。ところが、実際には、彼は学年2位という好成績を取っていたのです。

 

 

 

私は、「難しい試験」というものに否定的ではありません。

平均点が低かったり、高度な問題が出題されたりしているというようなことは直ちに批判の材料にはならないと思います。

 

しかし、一学期の期末試験では、いくつかの中学校で、ちょっとひどい問題が出されていました。

 

ある中学校の中1の数学は「激ムズ」でした。

私立中受験の算数の勉強をこなしていなければ90点以上を取ることが不可能な試験でした。中間テストも厳しい内容のものでした。中間、期末ともに「中学1年生」が受ける「1学期の試験」としてはふさわしくないものだったように思います。

おそらく、定期試験をとおして、その学校に多くの「数学嫌い」が生まれてしまったはずです。

 

 

ある中学のある学年の国語のテストは、尋常ではない量の出題がなされました。

2人の教師が1つの学年の国語を担当しており、それぞれの教師が半分ずつの作問を行いました。

その試験は、ほぼ間違いなく、片方の教師が「過去の問題」の使い回しを行っています。つまり、試験の「実情」に合わせて「半分」の量に調整された問題を作るのではなく、過去に作成した「50分で解く1本の試験」を、そのまま「半分の試験」として流用しているわけです。

 

ですから、生徒たちは通常の1.5倍の量の試験に挑まなくてはならなかったわけです。

 

中身も確認しましたが、「初見の文章題」がガッツリ出ていました。つまり、「習っていない内容」の試験だったわけです。

文法も、かなり高度な知識が求められていて、かなり「しんどい」量の試験になっていました。

 

もちろん、その中学のその学年の生徒たちに対して、「条件は同じ」です。しかし、その試験が「定期テスト」として適切なものであったかどうか、疑問が残ります。

 

 

簡単すぎる問題も、やはりあります。

期末ではなく中間試験ですが、ある中学のある学年で、「都道府県名と都道府県庁所在地のみ」のテストが出されました。

別の学校の生徒に「それ、定期テストでやる意味あるの?授業の中の小テストか何かでやればいいんじゃないの?」とツッコまれていました。

 

 

 

塾内で、定期テストの優秀者を毎回表彰しています。

各中学各学年で、「試験」がまるで違うので、一律に比べるのは「フェア」ではありません。

しかし、自分の「位置」を確かめる「目安」というものは必要だと思います。

 

その上、一律に「90点を目指せ」というのも無理のある話です。

しかし、それでも、どこかに「基準」を置かなければなりません。

定期試験の目標を設定するうえで、やはり「9割」という結果を目指してがんばってほしいと思います。

 

 

 

以前は、定期試験の度に、このブログに、生徒の成績が何点アップした、というようなことを書いていましたが、やめました。

 

いつも良い試験を作っておられて、毎回試験を拝見するたびに感服を禁じ得ない先生もいらっしゃれば、あまり作問に熱心ではない方もいらっしゃいます。

 

そもそも、定期試験は、その「質」のブレが大きいために、学力が不安定な生徒は、点数が乱高下しやすいものです。

 

毎回、たまたま点数が大幅にアップしたという生徒は何人かいますが、「発奮材料」ではなく「勘違いの材料」になっているような気がして、これを焦点化するのを止めたのです。

 

 

また、「定期テストの点数アップ」を宣伝に使う塾が結構多くなってきたことも理由のひとつです。この塾の「コンセプト」として、そういう「過熱する宣伝競争」とは距離を置きたいという思いがあります。いつの間にか「当事者」になりつつあって、ぞっとしました。

 

 

更に、塾で定期試験のための特別授業をほとんど行わなくなったことも理由のひとつです。

 

以前は、できる限り時間を調整したり確保したりして、定期試験の度に「解説授業」をしていました。今は、生徒の自主的な勉強を支援する方向で定期試験対策を行っています。

前にこのブログにも書きましたが、面倒を見すぎてしまうと「勉強の依存性」を高めてしまい、学力の向上を阻害することがわかったからです。

 

生徒が自主的に学んでいけるように、検定などを利用して、「自習」の仕方を指導しています。定期試験の勉強も、「自分で学校の授業を復習する」やり方を教えています。

 

もちろん生徒の質問には答えますし、「解説」の要望があれば授業を行います。

特に、2学期から塾に通い始めて、定期試験の勉強に悩んでいる人は、どんどん相談に来てもらいたいと思っています。

 

以前は、定期試験前は11時近くまで「学校別の定期試験対策授業」をしていました。今も定期テストの度に、生徒に合わせて問題を用意したり、資料を作成したりしていますが、一から十までこんこんと教え込むというような「対策」をしなくなっています。

 

 

(あまり、嫌味のようなことは書きたくないのですが、やはり世の中には「単純な思考をする人」もいるので、一言申し上げておきます。物事の表面しか捉えることができない「単純な思考をする人」は、きっと「手抜き」をしていると考えるのでしょう。世の中に、そういう考え方しかできない人がいることもわかっています。今という時代が、そういう人ばかりの世の中なのだとしたら、「定期試験のための解説授業をしなくなった」と書くのは「マイナス」でしかありません。が、私はそうは思いません。ここにその内容を何度も書き記すのは、その意図を理解する人がいると信じるからです。)

 

 

要するに、現在の私は、「生徒の点数」を自慢するような立場にはないわけです。

生徒たちが定期試験で素晴らしい点数を取ることができたとしたら、それは生徒たちの頑張りが結実し、結果となったということです。

それは私の「手柄」などではありません。

それを(外に向けて)誇り、 ひけらかすのは、何というか、どうにも面の皮が厚いと思ったわけです。

 

 

 

中3は、修学旅行の日程が重なってきます。10月の頭までは落ち着く暇がなさそうです。

 

各中学の日程を確認し、授業の調整を進めています。

特に中3は、授業内容や時間などを変更する場合がありますので、しっかりと指示を聞くようにしてください。

 

 

明日は、法政大学高校の過去問をやります。

18:00に集合、18:30にスタートするので、間に合うように集まってください。

 

 

(ivy 松村)