「長文」の「もやもや」

各中学の中間テストが終わり、各教科の平均点や得点分布が配られ始めた中学もあります。

 

この「定期テスト結果」は、家庭でチェックを受けて、中学に提出しなければなりません。

中学に提出する前に、塾に持ってきてください。

 

どうか、忘れないようにお願いします。

 

 

5月の月例テストも終わりました。

得点上位者を教室のわきに掲示しておきました。

 

それにしても、今回の月例テストは、国語が特に難しかったようです。

国語は、自信を持っている生徒もけっこういると思いますが、あまく見ていると足元をすくわれます。今後、気を引き締めて挑むようにしましょう。

 

中3は、英語に苦しめられたようです。

今回の問題は、リスニングはそれほど難しくはありませんでしたが、文章題に苦戦しました。

 

 

国語であっても英語であっても、「文章題」では、「情報処理」の能力が問われます。

 

文章題には、様々なパターンの設問がありますが、求められているのは結局、「問い」に整合する「情報」を「文章」の中から抽出するという能力です。

「情報」を見つけ出し、解答の「形式」に合わせて答えるわけです。

 

毎回毎回「惰性」でテストを受けていても、なかなか点数は上がりません。

どのように「対処」すれば、速く、正確に「情報処理」を実行できるのか、自分なりに考えてみましょう。

 

 

 

ところで、私は文章を題材にした大問を「文章題」とか「文章問題」呼んでいるのですが、「長文問題」という人も多いですね。

 

でも、「長文」という言い方、実は、ちょっと引っかかっています。

 

「文章を用いた問題」を、とにかくすべて「長文問題」と表現している問題集などをよく見かけます。

その場合、「短い文章」も「長い文章」もまとめて「長文」と呼んでいるわけです。

 

それは、まったく「論理的」ではありません。

常識的に、「長い文章」だけが、「長文」と称されるべきです。

「短い文章」は「長文」とはいえません。

 

 

「長文問題」というものを想定するのであれば、それに対応して、「短文問題」というものがあり得るはずです。

 

しかし、たとえば、実際に5~6行程度の「短い文章」を用いた問題は一般的に存在するわけですが、それを「短文問題」と呼ぶとすると、「混乱」が生じます。

普通、「短文」といえば、それは「短い文章」を指すのではなく、「短い文」を指すからです。

 

国語や英語のテストで、「短文を作りなさい」という設問は非常にポピュラーなものです。

 

「短文問題」という言い方がなされた場合、「短い文章」を題材とした問題ではなく、「短い文」を題材とした問題のことを指してるかもしれないわけです。

 

 

したがって、「短い文章を題材とした問題」については「短い文章題」とか「短めの文章問題」などと言い表すほうが適切でしょう。

 

 

もし、それを「短い長文」と呼ぶとすると、よりいっそう「もやもや」します。

 

「短い長文」という言い回し、けっこう使われていますが、完全に破綻したフレーズです。

 

 

まあ、こんなこと、はっきりいって「どうでもいい話」なのですが、何か、「もやもや」してしまいますね。「性分」でしょうか。

 

 

 

さて、6月の月例テストは、期末試験の日程の関係で、6月に入ってすぐに実施されます。

まもなく「リベンジ」の機会が訪れます。

 

中3生は、4月、5月のテスト問題を見返して、対処法を練ってみてください。

 

 

(ivy 松村)

 

国公立大学の経済性

国公立大学に入る「メリット」のひとつに「経済性」があります。

 

国公立大学の「経済性」について書いてみます。

 

 

国公立大学の学費は、私立大学よりも安くなっています。

しかし、実は、国立大学のほうが、私立大学よりも経済的に余裕のある学生が多いといわれています。

 

名門の国立大学に通う学生の親の所得は「平均」よりもかなり高いことが、各種データで明らかになっています。つまり、国立大学には、裕福な家庭の学生が多いわけです。

 

一方、奨学金などを頼りに、私立大学に通う学生が多くいます。

国公立大学の方が私立大学よりも学費が安いわけですから、ある意味で、「ねじれた」状況だといえるかもしれません。

 

 

この状況について、さまざまな分析や考察がなされていますが、今回はちょっと置いておきましょう。

まず、何よりも国公立大学の「学費」は安いわけです。

 

 

 

「学費」についてもう少し。

 

大学には、家庭の所得に応じて授業料を免除したり減額したりする制度があります。

実は、この減免の「審査基準」は、私立大学よりも国公立大学の方が「ゆるく」なります。

国公立大学の方が、授業料の免除や減額を認められる可能性が高くなるわけです。

 

もし、親に頼らずに、自分で学費を稼いで大学を卒業しようと考えている人がいたら、調べてみることをお勧めします。扶養からはずれてアルバイトなどで自活をしているのであれば、授業料の減免が認められやすくなると思います。

 

 

 

また、蛇足の話ですが、私立大学は、一般的に「休学」をしても学費を払わなければなりません(大学によって制度が違います)が、国公立大学は、「休学」している期間の学費を納める必要はありません。

 

 

 

それから、多くの大学生はアルバイトをしますが、国公立大学に通う学生は「いいアルバイト」をみつけやすいかもしれません。

学内に多くの「アルバイト先」があるからです。

学内の施設や研究室などで、「人手」が必要なときに、学生に声がかかることがあります。

 

これはあくまで私の主観ですが、国公立大学は「他の機関」に比べて、「運営」や「研究」にかかる「人件費」をきっちりと「予算」に反映させるため、良い条件のアルバイトが多いように思います。

 

 

 

話は変わりますが、少し前に、塾や予備校に一切通わずに今年現役で筑波大学に合格した「進学指導特別推進校」の卒業生に話を聞く機会がありました。

 

どんな受験勉強をしたのかいろいろと教えてもらったのですが、とにかく高校の授業を大切にした、という話が印象的でした。

教科書を使ってしっかりと勉強し、高校で配られる教材に丹念に取り組み、わからないことは先生にききに行くようにしていたのだそうです。

センター試験用の問題集や過去問は買ったけれど、特にそれ以外に問題集や参考書は使わなかったということです。

(一部の教科は、「進学指導重点校」や他の進学校に比べて「進度」が遅かったので、受験直前はけっこう大変だったと言っていましたが。)

 

はっきりいってしまえば、「特殊なケース」なのでしょうが、それでも、いろいろと興味深く思いました。

 

 

塾や予備校に通わずに、早慶などの一般入試に合格するのは至難のわざです。

受験生個人では習得することが困難な膨大な知識やテクニック等の装備が必要になるからです。

 

むしろ、「個人」で勝負するのであれば、国公立大学入試のほうに勝算があるということになります。

 

 

しっかりとした見通しをもって受験に臨むことができる強靭な意志と実行力の持ち主にとっては、国立大学受験は、「低コスト」の受験となりえるのかもしれません。

 

 

(ivy 松村)

 

 

「学歴」の中身

時代によって、「大学」の「ありよう」が大きく変わります。

 

高度経済成長期の1960年代、「大学紛争」が起こりました。

大学は荒廃し、授業も、入試も中止されました。

東大は、特に「大学紛争」が激しかった大学です。

 

当時、大学は「政治運動の場」だったわけです。

 

 

バブル期の1980年代には、大学が「レジャーランド」化していると論じられるようになりました。

この頃の大学は、「大人になる前の時期」を過ごすための、いわゆる「モラトリアムの場」としての色彩を帯びるようになります。

学業をおろそかにして遊びまわっている大学生がたくさんいました。

 

当時、大学は「遊び場」だったわけです。

 

 

そして、2010年代は、大学は、まるで「就職予備校」のようであると評されるようになりました。

現代の学生は、「就職のために」大学に進学します。そして、将来の「就職活動」の準備に余念がありません。

仕事も勉強もしないで遊びまわっている一昔前の大学生と比べれば、まったくもって感心すべきことです。

 

現在大学は、「就職の準備をする場」となっているわけです。

 

 

 

いまや「学歴」は、多くの人にとって、就職を左右する重大な関心事です。

みな、「イイ大学」に入って、「イイ会社」に入りたいと、考えています。

 

 

塾や予備校で働く人間は、みな、生徒たちに、なるべく「レベルの高い大学」に入ってほしいと願います。

 

私も、もちろんそう願っているわけですが、私の場合は、すこし他の人たちと考えが違っているかもしれません。

 

 

多くの学生は、「就職のために」大学を目指すわけですが、それのみにとらわれていては、何というか、落語の「オチ」だけを聞きたがるような、ずいぶん「もったいない行為」のように思えます。

 

 

「レベルの高い大学」に入れば、「レベルの高い学問」を修めることができます。

 

 

 

たとえば、もし、経済学を学びたいのなら、できれば、「レベルの高い国立大学」に進学したほうがいいと思います。

 

経済学は、多くの場合「文系」に分類されますが、これを「きちんと学ぶ」ためには、数学の素養が絶対に必要です。

 

ところが、一部の中堅大学の経済学部では、数学の素養を前提としない授業が行われています。もちろん、「正統な経済学の授業」もあるはずですが、「数学ができなくても経済学部を卒業できる」ような、いわば「ゆるいカリキュラム」となっているわけです。

 

そこでは、経済学を「きちんと学ぶ」ことはなかなか大変だと思います。

 

 

なぜ、数学の素養を前提としない経済学の「授業」が行なわれるのかといえば、その大学の経済学部の入試科目に、数学が含まれていないからです。

つまり、その大学の経済学部は、入学する学生に数学の素養を求めていないわけです。

したがって、数学の素養を前提とするカリキュラムを作成することはできません。

そうしてしまうことは、むしろ理不尽なことであるとさえいえます。

 

(もちろん、これは「傾向」の話をしているわけで、そういった大学の中にも多くの素晴らしい学部・学科があり、また、素晴らしい教員の方が数多くいらっしゃいます。)

 

 

 

さて、何の話をしているのかといえば、たとえ「看板」は同じでも、大学によって「中身」が全然違うということについてです。

 

当たり前の話ですが、「中身」のある大学に入ったほうが、深く学べるわけです。

どの大学に進学するかによって、「何を得るのか」が変わってきます。

 

 

「学歴」について、「一家言」をお持ちのかたは多くいますが、そのほとんどは「就職」や「生涯賃金」についてのものです。

 

もちろん、そのすべてを否定するような野暮な考えはありませんが、それでも、大学に行くのに、もうすこし「純粋な理由」を求めてもいいのではないかと思ってしまうのです。

 

 

 

近年、「学歴フィルター」というものが、世間に認知されるようになってきました。

大手の人気企業は、「就職活動」の際に、「あるレベル以下の大学」の学生の「応募」を、事実上拒絶するような措置を取っています。

 

平たくいえば、「イイ会社」は、「イイ大学」の学生しか採用しないということです。

 

そして実際、「イイ会社」に入る人は、「イイ大学」の人が圧倒的に多いわけです。

 

 

多くの人は、「イイ大学に入る」ことが「イイ会社に入る」ための「条件」だと考えてしまうわけです。

 

 

 

思慮深い視座を持てる人は、「別の現象」をとらえることができます。

 

新卒社員を募集する会社は、その学生が「どこの大学に属しているのか」ではなく、「大学で何を得たのか」ということを評価しようとしています。

 

 

なぜ、「レベルの高い大学」の学生ほど、高い評価を得られるのか。

 

それは、単純に、「レベルの高い大学」の学生は、「正統な学問」を「きちんと学ぶ」という経験を積んでいるからです。

 

結局、「学生としての本分」に誠実である学生ほど、「就職」に強いと思います。

 

 

 

「学歴」の本質は、「入学試験」にあるわけではなく、「入学後」にあると考えるべきなのです。

 

そして、「入学試験」は、その大学で学ぶ「資格」を審査するためのものであると考えるべきなのです。

 

 

(ivy 松村)

思索への疎外

明日は二中とひよ中の中間テストの最終日です。

 

これで、1学期の中間テストが終わります。

 

二中、ひよ中のみなさん、がんばってください。

 

 

 

今週から、保護者面談のご案内をお配りしています。

5月の27日からはじまる保護者面談の希望日時をお知らせくださるようにお願いします。

 

中間テストがあった中学のご家庭は、中間テストの成績をふまえて、期末テストに向けての取り組についてお話しさせていただきたいと思います。

 

 

 

以下、まったくとりとめもない話ですが、今日、ちょっと考えたことについて。

 

 

小6の都立中受検のクラスでは、先週から、「将来」についての作文に取り組んでいます。

 

何というか、「ストレートな内容」に面食らったり、けっこう、考えさせられたりします。

 

まず、「給料がいいから」「お金を稼げるから」という「理由」で「〇〇になりたい」というような内容が書かれた作文は、まったく評価されないという説明が必要でした。

 

 

お金を稼ぐことはもちろん悪いことではありませんが、それを自己表現の「主題」にするのは、一般的にはばかられる行為です。

「お金のために仕事をする」のは、まったくの「道理」ですが、だからこそ、「それ以外の理由」が大事なのです。

 

 

授業では、2つのポイントを示して解説しました。

 

ひとつは、「仕事」は、人と人をつなげるものであるということです。

仕事を持つということは、社会の中に自分を位置づけるということです。

つまり、働くということは、「お金」を媒介として、自分以外の人と何かしらの関係性を持つということを意味しているわけです。(だから、仕事には「責任」がついてくるのです。)

 

 

ちなみに、もうひとつは、「成長」についてです。

将来の仕事について考えるということは、自分は、「どのように成長するつもりなのか」という「見とおし」を持つことでもあります。

 

 

 

さて、今日はその後で中3の国語の授業があり、見田宗介氏の「貧困」をテーマにした文章を読みました。

 

見田氏は、「貧困」とは単に「お金を持たない」ということではなく、「お金が必要な生活の中で、お金を持たない」ということなのだと述べています。

 

自然とともに生き、「貨幣経済」とは無縁の生活をおくっているような人たちは、お金を持たなくとも、不幸(貧困)ではないわけです。

 

一方、「お金」を媒介とすることで生活が成り立つような仕組みの社会では、「お金」を持っているかどうか、によって、自分が「幸福」なのか「不幸」なのかを測るようになるわけです。

 

 

 

一日が終わった後で、ふと、2つの別々の授業の「内容」が、対立しながら重なっていることに気づいたのです。

 

 

なにか、大事なことが思い浮かびそうで、今ちょっと、考え中です。

 

 

 

 (ivy 松村)

 

大学入試改革の話

大学入試改革が「ごたごた」しているさまを見て、大学の受験を憂慮する声があがります。

 

国立大学入試がどうなるかわからない→それで、私立の附属へ進学、という「方策」が提唱されるわけです。

 

結論からいえば、今のところ、それはちょっと「過敏」だと思います。

 

 

まず、多くの場合、こうした話をリードするのは、「受験産業」や「教育産業」の「関係者」であるということに留意が必要です。

 

塾や予備校、通信教育などの「受験産業」は、歴史的に、教育や受験への「不安」を煽ることで、「需用」を喚起し、成長してきました。

 

また、それ以上に注意深く聞き分けるべきであると思われるのは、国公立大学の「競合者」の思惑です。端的に、私学を経営する「産業組織」は、これを「ビジネスチャンス」に変えようと血眼になっているわけです。

 

私立大学(や私立学校)は、大学入試改革を「利用して」学生(生徒)を集めたいわけです。

 

 

 

少し冷静になって考えてみればわかりますが、国立大学への進学が難しくなるわけではありません。「募集人数」が少なくなるわけではないのです。

 

国立大学が受け入れる学生の数が減らされるわけではありません。

 

 

選抜の制度が変わります。

それが不利になる人もいれば、有利になる人もいるでしょう。

なぜか、「新しい制度は不利だ」と誰もが考えてしまうわけですが、むしろ、新しい制度を「追い風」にすることができるかもしれないわけです。

 

そうでなくても、落ち着いて、「なすべきこと」を考えてみれば、新しい制度に対応した勉強をしていけばよい、という結論にたどり着くはずです。

 

 

 

現在議論されている「改革」の内実は、ものすごくざっくりといえば、「記述式(論述式)の問題」を導入したいということです。

(で、「採点をどうする?」ということでもめているわけです。)

 

ということは、「記述式の問題」に対応できる学力を身につけいけばいいわけです。

それは、「国立大学への進学を念頭においている中学生」にとって、「本来必要とされる学力」です。

よく知られているように、国立大学の二次試験では「記述式の問題」が出されるわけです。

 

従来の国立大学入試にくらべて、度し難いほどの大きな負荷が課せられるということはなさそうに思います。

現時点では何ともいえない部分もありますが、むしろ、自分の得意なタイプの試験に様変わりして、有利になるかもしれないわけです。

 

 

 

多くの中学生、高校生が「記述」を苦手としています。

そのため、「記述式の問題」に対する不安が大きくなるのも理解できます。

 

しかし、「記述」は、ある意味で避けては通れない「宿命」なのです。

 

大学入試を、「社会的上昇」のための「関門」であると考えるならば、そこで「記述する能力」を問われることは、まったくの「必然」です。

 

 

国立大学が、入試選抜で「記述」を重視するのには理由があります。

 

 

「入試選抜」の本質的な「機能」は、能力のあるものを引き上げて高度な教育を施し、最終的に、知識や技能、技術を有した人材を、社会のある一定のポジションに割りあてたり、配置したりすることです。

 

それは、産業組織や官僚組織のなかで、生産性を上げるための企画を策定したり、社会や組織全体を管理したりするような「上部の職域」であるといえます。

 

こうした「企画・管理」部門を担う人材には、「記述する能力」が求められるわけです。

 

たとえば、「論文」、「報告書」、「企画書」、「契約書」、「意見書」、「説明書」…など。

 

社会的に高い地位、評価を与えられるような「仕事」には、「書く」という業務が付随しています。

 

つまり、文書(文章)を作成する技量がなければ、「上部の職域」を担うことができないわけです。

 

 

国立大学の二次試験では「記述式の問題」が出されます。それは、志願者に「記述する能力」を錬成させたうえで、それを審査するためです。

 

また、入学後、大学で行われる授業の成績評価の方法も、「記述式の試験」を受けたりレポートを作成したりすることが中心になるわけです。

 

 

 

現在進められている「改革」の「社会構造的」問題点は、あらゆる「階層」に「記述の能力」を求めようとしている点です。この視点は、「完全に見落とされている」と思います。

 

上述したように、社会の「上部の職域」には文書(文章)を作成する技量が要求されます。

しかし、すべての職域で、その技量が必要であるというわけではないのです。

 

「書くこと」とは別の能力や技能、才能を育むべき職業もたくさんあります。

職人とか、技術者とか、漁師とか、デザイナーとか…。

 

こうした仕事を担う人たちは、自分の中にある「書くこと」とは別の能力を開発していくことで、一流の職業人になることを目指すわけです。

 

 

 

「ゆとり」のときもそうでしたが、教育や入試選抜の制度を変えようとする人たちは、どうも、「理想」というか、「思い込み」を優先してしまうように見えます。

 

 

 

それにしても、「新テスト」ですが、いろいろと「骨抜き」になるのは間違いなさそうです。

 

もちろん不安も大きいわけですが、「チャンス」でもあるわけです。

 

「入試」のことだけに目を奪われるような層の一部は、いち早く私学へと「方向転換」します。幸いなことに、競争相手がいなくなってくれるわけです。

「どうしても国立大学に入りたい」という人にとっては、「好都合」です。

「煽り」を真に受けてしまった人たちが国立大学受験を忌避してくれるおかげで、「国立大学に入りやすくなる」かもしれません。

 

 

再度記しますが、国立大学が受け入れる学生の数が減るわけではないのです。

 

 

(ivy 松村)

 

 

定期テストの過去問

1学期中間テストの最初の「山場」にさしかっています。

 

火曜日に平山中の中間テストがあり、今日は七生中の中間テストでした。

明日は四中の中間テストです。

 

平山中は、例年、ゴールデンウィークが明けた直後にテストがあります。

ゴールデンウィークに、生徒たちの気を引き締めるためなのかもしれません。

新学年のカリキュラムはほとんど進んでいないので、多くの教科で、全学年で学習した内容が試験範囲に含まれていました。

決して狭い試験範囲のテストではなかったので、大変だったようです。

 

 

七生中は、ちょっと個性的な問題が出される教科があるので、少し心配していましたが、杞憂でした。

問題量が多いテストがいくつかあったようで、その対応が今後の課題でしょうか。

 

 

四中は、本年度から中間考査が行われることになりました。

そのために、運動会(泰花祭)のプログラムが少し変更になってしまったそうです。

今までこの時期に「テスト勉強」をしていなかったので、ちょっと生活のリズムが大変そうでした。明日頑張り抜いたら、少しゆっくりしてください。

 

 

 

ゴールデンウィークに何をしていたのかと聞かれて、寝ていたとか、ダイエットをしていたなどと答えていたのですが、実は、少しばかり手間をかけて、国語の「定期テスト過去問集」を作っていました。

今回は、とりあえず日野市で使われている光村図書の教科書に準拠した「定期テスト過去問集」です。

 

2年生は『アイスプラネット』と『枕草子』、3年生は『握手』を編集しました。

 

 

 

それぞれの中学の問題を比べてみると、なかなか興味深いことがわかってきます。

 

たとえば、『枕草子』では、7校の問題を収録しましたが、7校のうち5校が、

 

春は「  」。 →「  」に入る言葉を答えなさい(→「あけぼの」)

 

という問題を出しています。

 

 

また、7校のうちやはり5校が、「知識の問題」を出しています。

 

作品名→枕草子

作者→清少納言

時代→平安時代

ジャンル→随筆

文学性→「をかし」

 

 

 

まあ、つまり、学校の先生の「出題ポイント」というのは、本来それほど違わないといえるわけです。

「定期テスト過去問集」に何度も出てくる問題は、出題される可能性が高い問題です。

 

 

 

『握手』は、テストによって、意外と「問題に使用される部分」が分散しているので、それほど出題内容が重複していません。

 

また、中3が対象ということもあって、「凝った問題」が目につきます。

 

 

出題される可能性が高くなりそうなのは、下記の部分でしょうか。

 

・「この世のいとまごい」

・「お別れの儀式」

・「ルロイのこの言葉を忘れないでください。」

・「わたしは右の親指を立て、それからルロイ修道士の手をとって、しっかりと握った。」

・「わたしは知らぬ間に、両手の人差し指を交差させ、せわしく打ち付けていた。」

 

あと、作者名を聞く問題(井上ひさし)も、いくつかありました。

 

 

 

3年前の四中の期末テストでは、ちょっと独特の問題が出されています。

 

 

・「日野四中の十戒」を作るとしたら?

・あなたがルロイ修道士だとしたら、天使園に来た「わたし」に何と声をかける?

 

 

 

今回は、どんな問題が出されるのでしょうか。

中3の定期テストでは、記述や作文が「どっさり」と出題されることがあるので、心して挑んでください。

 

 

 

健闘を祈ります。

 

 

 

(テストが終了した人は、「問題」を持ってくるようにお願いします。)

 

 

 (ivy 松村)