「学校の怪談」

本日で、平山中と石川中の中間試験が終わりました。

 

石川中の1年生の生徒たちは、中間試験がなかったので、初めての定期テストを経験しました。

陵南中、四中、ひよ中の生徒は、奮闘中です。

 

今回、かなり成績が上がりそうな生徒もいるので、結果が待ち遠しいです。

 

 

 

さて、この3週間ほど、各中学の過去の定期試験の問題を見なおしたり、今回の定期テストの問題をチェックしたり、生徒たちに感想などを聞いたりしながら過ごしました。

 

あらためて気づいたのは、試験問題の「多様性」についてです。

本当に千差万別、いろいろな問題がありますね。

 

 

それにしても、ちょっと複雑な思いを抱かざるを得ないのは、試験問題の「使い回し」についてです。

 

過去問を手に入れることができるかどうか。

それが試験の点数に直結するようなケースが、実技教科で散見されます。

 

 

 

また、ある意味で「亡霊」と呼ぶべき試験問題も存在します。

 

 

 

昨年、中学校の教科書が改訂されました。

そのために、国語の教科書から、姿を消してしまった文章があります。

 

また、教科書の改訂に合わせて、採用する教科書を変更した市区町村があります。

 

 

その影響で、国語の定期試験の問題に、「現在の教科書に載っていない文章」が登場することがあるわけです。

 

つまり、それは、本来なら「現世」には存在し得ないという意味で、「亡霊」なのです。

 

 

「現在の教科書に載っていない文章」が試験に使われるパターンは、2つあります。

ひとつは、学校の先生がプリントなどで、「その文章」を使って授業をし、それを試験に使う場合です。

 

そして、もうひとつは「初見の文章題」として流用される場合です。

 

 

 

これは怖いです。読んだことも聞いたこともない文章が、突然「姿」を現すのです。

 

 

 

「ブルブルッ…」

 

 

身震いしますね。

 

 

 

光村図書の国語の教科書は、巻末に、「旧版」に掲載されていた文章の一部が「付録」のような形で収録されています。これは、非常に行き届いた「配慮」なのでしょう。

この部分を使って、授業をされる先生もいます。

 

これは一応「実体」があるので、「亡霊」とはいえません。

 

 

しかし、新版の教科書には掲載されていない、消え去ったはずの文章が、試験問題として登場することがあるわけです。

 

「亡霊」が、姿を現し、生徒たちを恐怖におとしいれるのです。

 

去年、そして今年も、様々な場所で「亡霊」が猛威を奮いました。

 

 

 

「うわ、わわ…」

 

 

身の毛がよだちますね

 

 

 

「亡霊」は、ある市区町村で採択される教科書の変更があった場合にも「目撃」されることがあります。

 

授業に使う教科書は、学校の先生が自分で決めることはできません。

各市区町村の中学の教科書は、教育委員会によって決められます。

 

教科書が変更になると、学校の先生は大変です。

これまで慣れ親しんでいた授業の「題材」と、離別しなければならないわけです。

 

特に 、規模の小さな中学校の先生にとっては深刻な問題です。

 

学年にクラスが1~2学級ほどしかない中学では、1人の国語教師が3学年すべての授業を担当することもあります。そうすると、1年生、2年生、3年生すべての学年の授業計画を、すべて新しく作成する必要があるわけです。

 

もちろん、試験問題も「新作」しなければなりません。

学校の先生にとって、非常に大きな負担です。

 

 

 

そうです!

 

 

 

学校の先生の「怨念」が!!

 

 

 

恐ろしい「亡霊」を生み出してしまうのです!

 

 

 

 

 

 

「ぎゃ~~!!助けて~~!!」

 

 

 

 

 

同じような「怪奇現象」は、教員の「移動」によっても起こります。

 

当然、別の市区町村から別の市区町村の中学校に転勤した場合に、使用する教科書が変わる場合があるわけです。

 

 

 

やはり、学校の先生の「怨念」が!!

 

…(以下略)。

 

 

 

まあ、「そういった事情」で、教科書に掲載されていない文章が、定期試験で出題される場合があるわけです。

 

 

 

いかにも「夏らしい話」で、背筋がぞっとしますね。

 

 

 (ivy 松村)

 

Silence makes you stronger.

昨日、今日と試験勉強のために教室を開放しました。

 

昨日は1つの教室に数セットの机といすを運び込んで、自習室は「満員」状態でした。

 

中1から高3まで、幅広い学年の生徒が一か所で、それぞれの勉強に取り組んだわけです。

 

 

冷房がしっかり効いていたので、「暑苦しい」ということはなかったはずですが、「息苦しい」という気分になった人は少なからずいたみたいです。

 

 

昨日も自習時間の終わりに言いましたが、「あの感じ」を、私は「理想的な自習」だと思っています。

 

 

勉強時間に、「自由に話さない」、「自由に立ち歩かない」というのは、当たり前のことですね。

 

 

自習を始めて、時間が経ってくると、誰かに話しかけたり、何か理由をつけて教室の外に出てうろうろしたりしたくなる人がいます。

 

時間をかけて、1つのことに意識を向けて時間を過ごすことができないのです。

 

そういう人は、「自由に話せない」「自由に立ち歩けない」という状況になると、イライラしてしまうわけです。

 

 

精神と認知能力が未熟なので、「正しい判断」ができません。

 

「勉強に集中できない」のは、「周りのせい」だと思うわけです。

 

 

周りが静かだから、勉強ができない?

 

 

正常な思考能力をもった人間であれば、誰もしゃべらず、誰も立ちあるかない静かな空間は、勉強に適していると考えるはずです。

 

 

「静かな空間で勉強ができない」のは、個性でも性格でも何でもなく、ただ、その人が未熟な人間であるというだけのことです。

 

(ついでにいうと、さらに幼稚な人間は、すぐに「不満」を口にします。自分の不快な気持ちを周りにまき散らして、「自分だけ」気分を晴らそうとするわけです。)

 

 

 

誰かが教室に入ってくる度に、じぃ~と、相手の顔を見る人がいます。

 

驚いたり、笑ったりする「材料」を探しているのです。

沈黙を破る「何か」を見つけようと、全神経を注ぎ込んでいるわけです。

 

勉強時間に、「声を発する理由」を物色しているわけです。

 

生徒のみなさんも、自習室に入ったときに、顔をじぃ~と見られることがあっても、完全に無視してくださいね。

 

 

その「残念な人」は、悪気なく、あなたの勉強の邪魔をしようとしています。

 

 

 

「静かな空間」で勉強すると疲れてしまう人は、「体質」を変えていかなければなりません。

 

意識を勉強だけに向けることが苦手なので、「意識を勉強だけに向けられる状況」になると疲れてしまうわけです。

 

1時間で終えられるはずの勉強に3時間かかります。

 

窓の外を眺めたり、文房具を分解したり、「余計な線」をノートに書きつけたり、シャーペンの芯を替えるのにたっぷりと時間をかけたり、ぼんやりと妄想にふけったりしながら、ダラダラと時間かけてやっているわけです。

 

 

まともに思考すれば、1時間でできるものを3時間かけて行うのは愚かなことだと理解できるはずです。

 

 

でも、1時間で終わらせよう、とは思わないわけですね。

 

なぜなら、「疲れるから」です。

 

とにかく、何よりも、勉強で疲れるのがイヤでイヤでしかたがないわけです。

 

 

 

「まっとうな人間」は、意識を勉強だけに向けて取り組めば、「普段」の3倍の勉強量をこなせるという「事実」に着目します。

 

だから、意識を勉強だけに向ける時間を、伸ばしていこうとします。

 

そして、徐々に、長い時間「勉強」しても、疲れない「体質」になっていくわけです。

 

 

 

「勉強の耐性」が重要だと、以前からずっといい続けています。

 

 

自習室でしゃべっていて注意された人、それから、「自習時間」に何度も何度も水を飲んだり、明らかに不自然なタイミングで頻繁にトイレに行ったり、すぐに必要なわけでもないのに問題集を探しにきたり、わざわざコピーをしにきたりして注意された人。

 

 

どうしても、話さなければならない「理由」はないのです。

どうしても、教室を出なければならない「理由」もないのです。

 

 

すべて、「休憩時間」や「帰る前」にできることなのです。

 

 

ただ、勉強し続けることを「我慢できていない」だけなのです。

まったくどうでもいいことを、「勉強を中断する理由」に仕立て上げているだけなのです。

 

 

 

どうか「理解」してください。

 

なだめたりすかしたり、手取り足取り、こんこんと、一から十まで世話を焼き、相手をしてやらなければ試験勉強しないような人間になってほしくないのです。

 

 

 

5月の後半、高校の中間試験があった時期、卒業した高校生たちが毎日毎日、入れ替わり立ち替わり自習に来ていました。

 

みんな、ふらっとやって来て、教室の片隅でカリカリカリカリと3、4時間ほど勉強して、お礼を言って帰っていきます。

 

その姿を見て、 掛け値なく、本当にうれしい気持ちになります。

 

 

 

(ivy 松村)

 

 

平成29年度都立高校入試の社会の平均点

今年の東京都立高校入試の各教科の平均点や得点分布表などが、教育委員会のホームぺージで公表されました。

 

社会の平均点は、58.6点でした。

昨年は59.3点でしたので、昨年と比べて、0.7点下降しています。

 

平均点だけで判断すれば、ごくわずかに「難化した」、ということになりますが、「難易度」の議論は、少し入り組んでいます。

 

得点分布表をみると、昨年に比べて、グラフの「山」がなだらかになっていることに気づきます。

受験者の得点がある得点域に集中するような「高い山」になっていません。

 

つまり、受験者の得点分布が「分散」したわけです。

 

また、「分布のピーク」は、昨年は65~69点でしたが、今年は55~59点に推移しています。

さらに、高得点を取った受験者の割合が増えています。

 

ということは、今年は、高い点数を得た受験生が増え、かつ、低い点数を取ってしまった受験生も増えているということになります。

 

 

 

「単純な見解」に従えば、今年の社会の入試問題は、より機能的に受験生の学力を検査することができたという見立てになります。

 

しかし、話はそう「単純」ではありません。

 

 

 

今年の入試問題は、記述問題が削減されました。

2題減らされたので、10点分が、選択問題に「振り替えられた」ということになります。

 

選択問題は、完全に設問を「攻略」しなくても、点を得ることが可能です。

 

何人かの受験生は、「勘」で、正解となる選択肢を選び、得点を手にしています。

選択問題は、問われている内容を理解していなくても、点数を得る場合があるわけです。

かつ、選択問題は、正解を導いているのにもかかわらず、失点をする受験者を生み出すことはありません。

 

したがって、選択問題の数が増えるほど、「幸運な得点」を得る受験者が多くなるわけです。

 

 

一方、記述問題は、設問に整合する内容を書き記す必要があります。

 

あらためて述べるまでもないことですが、学力をより正確に、適切に測ることができるのは、記述問題です。

 

 

 

そういうわけで、一般的に、選択問題の方が、記述問題よりも「得点の上乗せ」をしやすいといえるわけですから、もし、昨年と同じ「難易度」の選択問題が並べられていたのであれば、今年の平均点はもう少し上がってもよかったわけです。

 

しかし、今年の平均点は、昨年と比べて、下降を示しています。

 

選択問題で、得点を取り切れなかった受験生が多かったわけです。

 

 

そうすると、今年の入試問題の「難易度」は、「実質」的には、さらに下降しているといえるようにも思えます。

 

 

特に低得点域で、「本来の学力」よりも数点、「幸運な得点」を得た受験者が思いのほか多くいるはずです。

そのため、全体の平均点が「実質」よりも押し上げられ、また、得点分布における「上りの勾配」が、「右側」へ押し込まれていると考えられます。

 

 

 

ところが、一方で、高得点を得た受験者が、昨年に比べて増加しています。

また、実際に、都立トップ校の受験者平均のデータは、昨年と比較して顕著な上昇を示しています。

 

ですから、今年の都立の社会の入試問題は、学力上位層ほど得点を取りやすく、学力下位層ほど苦戦をする内容であったということになります。

 

 

私は、今年の都立高校入試の直後に、社会の入試問題の「解説」の記事を書きました。

そこで書いたことが、データで証明された、ということになります。

 

 

平成29年度都立高校入試の社会①

 

 

 

今年の都立高校入試の社会の問題は、受験者の得点分布が「分散」したわけですが、学力上位層に限れば、その得点分布は高得点域に密集しています。

 

つまり、上位校の入試では85~100点の攻防となっているわけです。

 

 

先の記事にも書きましたが、設問あたりの情報量が増えたことが、学力上位層にとって有利に作用しました。

 

また、今年の社会の入試問題は、「幸運な得点」のアシストを得た受験生が、最上位層を追尾することが可能となる「構成」だったわけです。

 

 

 

「全体」の得点分布は「分散」しましたが、学力上位層の得点分布は高得点域に偏り、「飽和」の兆候を見せつつあります。

 

 

その点をふまえて、都立高校入試の理社についても「独自問題」を解禁するべきではないか、という意見が聞かれるようになってきました。

 

確かに、それは魅力的なアイデアですが、現実的にはなかなか困難です。

近年の都立高校入試は、入試問題の質よりも、作問と採点の「効率と正確性」を優先させなければならなくなっているからです。

 

 

しかし、実は、ある有力な「一手」が、私たちの記憶に横たわっています。

 

来年から、英数国の「自校作成」が復活し、「グループ作成」の体制に終止符が打たれるわけですが、「グループ作成」は、もう、「お終い」なのでしょうか。

 

 

理社を「グループ作成」にするというのが、最も賢明な選択であると、個人的には考えます。

 

 

 

ところで、まったく話は変わりますが、都立高校入試の英語で「スピーキング」の検査を導入することが「検討」されるのだそうです。

 

こういう場合、「方向性」は決まっているわけですから、なんとなく、どうなるかは予想がつくものですが、これは、けっこういろいろな問題をはらむことになりそうです。

 

気になるのは、検査されるのが「英語の学力」といえるのかどうか、ということです。

単純に、人前で話すことが苦手な生徒が「不利」になるわけですが、人前で臆することなく話せることを、「高校入試」で検査するべき「学力」の要件に含むということなのか、という「観点」に行きついてしまうと思うわけです。

(もうちょっと「実際的」な指摘をするならば、「日本語を話す能力」の検査は?優先順位、あってますか?となるわけですが。)

 

もちろん、中学生が、「話す力」を養い、発達させていくことは望ましいことです。しかし、それを「英語」の「一般入学試験」で評価するのかどうか。

 

考えられるのは、「そういった部分」も考慮して、「ゆるい内容」に落ち着くことですが、そうなると、それを導入する意味はあるのか、という話になるわけです。

 

 

もちろん、「コスト」の問題があります。

私が反射的に考えたのは、各校で行うのは無理、外部に委託するのも無理、という話になって、「内申」のように、中学校で「検査」を行い、それを数値化して、入試得点に加算する、というものです。

 

 

はたして、どうなるんでしょうね。

 

 

 

あ、そうそう(←わざとらしい)、英検の二次試験が迫ってきましたので、来週から面接の練習を始めますよ。

 

 

今年の入試には「スピーキング」が導入されることはありませんが、英検に向けて、しっかり「スピーキング」の練習をしていきましょう。

 

 

(ivy 松村)

 

 

「試験勉強」の計画

今日は、中2の特訓クラスの生徒と面談を行いました。

 

その際に、各教科の目標点を達成するために必要な「勉強時間」を出してもらいました。

 

たとえば、英語の目標点「90点」を取るために必要な「勉強時間」は計6時間、数学の目標点「95点」を取るために必要な「勉強時間」は計5時間…というように。

 

そうやって、9教科すべての目標点を達成するために必要な「勉強時間」の合計を出し、それを残りの日数で割ってみると…。

 

1日あたりの「勉強時間」は、7時間とか、8時間とか…。

 

 

ちょっと現実的ではありません。

 

実現が不可能な「計画」ほど、無駄なものはありません。

 

そうなると、各教科に使える「勉強時間」を減らさなければならないわけです。

 

 

目標点を下げるのは、愚かな行動です。

自分が確保できる「勉強時間」を有効に使って、目標点を達成する方法を考えます。

 

 

英語の目標点を取るために、6時間使うことができないわけです。

ですから、より少ない時間で、「6時間分」の内容を学習するために、どうすればいいかを考えなければなりません。

 

まず、無駄を省く。

 

「次は、何を勉強しようか…」などと考える時間を失くさなければなりません。そのために、「その日」に何を勉強するのか、あらかじめ決めておきましょう。

 

その「計画」を立てるために、「勉強時間」を消費するのも無駄です。

 

1日の中で、もっとも「有効に使われていない時間」を活用しましょう。

学校の「休憩時間」。友達とどうでもいい話をして時間を潰すのではなく、「有効」に使ってみてはいかがでしょうか。

 

 

あと、ごそごそとカバンをまさぐって、ダラダラと勉強道具を出して、とりかかるまでに何分も時間を消費するのも無駄ですね。

 

 

 

次に、「勉強の濃度」を濃くしなければなりません。

 

たとえば、1ページ分の英文を覚えるのに15分かけて覚える「予定」を、10分に短縮します。もちろん、「負荷」は大きくなるわけですが、時間を節約できます。

 

 

自分の「成長」をリアルにイメージできる人は、「負荷」を段階的に上げていくことで、能力が向上することを知っています。

つまり、10分で覚えようとすれば、10分で覚えられるようになるとわかっているわけです。10分で覚えられるようになったら、さらに、8分で覚えようとします。そうすれば、いずれ8分で覚えられるようになるわけです。

 

このような「成長のイメージ」は大切です。

これを持たない生徒は、永遠に、15分を基準とします。

 

「今」は同じくらいの「能力」かもしれませんが、「成長」を重ねることのできる生徒は、いずれ、「半分」の時間で、同じ量の課題をこなすようになるわけです。

 

 

「負荷」の増大は、心理的、肉体的な疲労をもたらします。そのため、多くの生徒は「負荷」を大きくすることを嫌がります。

 

その気持ちは理解できます。

 

しかし、時間に追われながら課題をこなしたり、問題に対処したりする経験は、自分の「成長」を促すものなのだという認識を持ってもらいたいと思います。

 

 

ついでに付け加えて指摘するならば、「時間あたりの処理能力」を上げていくことは、「入試」という観点においても重要なことです。

 

 

 

それから、限られた時間のなかで「成果」を出すには、どのような「やり方」が有効なのか、また、効率的なのか、を理解し、実行することが大切だという話をしました。

 

「試験勉強のやり方」に関しては、5教科は演習を中心に、実技は「まとめ」を中心に取り組むように話しています。

また、その際の、ノートの使い方を細かく説明しています。

 

 

 

「目標点を取るために必要な勉強時間」という「発想」は、時間に余裕がある段階では、意味があります。

しかし、時間が限られている状況では、使える時間の使い方や「配分」が、戦略的に重要になってきます。

 

ひとりひとり、残りの「使える時間」を確認しました。

 

 

 

たとえば、1週間後が定期試験日となっている場合、平日に1日4時間、土日に9時間の勉強をするつもりならば、38時間の「勉強時間」を有していることになります。

 

当然、スマホをいじったり、マンガにふけったり、突然部屋掃除を始めたりしてしまうと、その「持ち時間」は削られていきます。

 

38時間を「計画どおり」に使うことが前提です。

 

 

もし、社会と美術、音楽の目標点を必ず「クリア」したいと考えているならば、これらの教科の「勉強時間」を十分に確保したいわけです。

 

社会に6時間、美術と音楽に5時間ずつ「配分」すると、残りは22時間です。

 

それを、たとえば、英数国理に4時間、音楽と技家に3時間ずつ「配分」することができます。

 

もし、数学が得意で、3時間で十分なのだとしたら、苦手な音楽を4時間にする、というような「微調整」を行います。

 

全体の「配分」が定まったら、試験日などを考慮しながら、「どの日」に「何時間」、「何」を勉強するのか、具体的な「予定」に落とし込みます。

 

このとき、注意しなければならないのは、勉強時間をある程度「振り分ける」ことです。

 

たとえば、音楽に使う「勉強時間」は4時間ですが、これを1日で消化するような「予定」を立ててはいけません。

 

①金曜日に1.5時間

②月曜日に1.5時間

③水曜日に1時間

 

というように、4時間を分割して別々の日に振り分けます。

 

 

それは、暗記事項などを忘れていないかどうか、の確認をこまめに行うためです。

 

また、全体の「時間配分」を、勉強の「進捗」によって再度「調整」できるようにするためです。

 

勉強を進めていくうちに、音楽は4時間では足りなくなった、というような場合は、他の教科の時間を削って、音楽の勉強時間を増やしたり、「やりくり」をして勉強時間を確保するように行動したりして、「調整」を行う必要があります。

 

全体の「進捗」を「同時進行」で進めていくことで、「ウィークポイント」を探りやすくなり、かつ、「調整」が容易になります。

 

 

ひとりひとり、細かに話をしました。

また、クラス全体にも、「計画」を立てることの重要性を伝えました。

 

しっかりと「計画」を立てて「試験勉強」を進めていきましょう。

 

 

 

来週から期末テストがはじまります。

 

二中は火曜日からです。

運動会の10日後、というハードスケジュールです。

大変ですが、頑張って乗り越えましょう。

 

横川中、横山中、みなみ野中は、水曜日からです。

3校は、中間試験がなかったために、試験範囲が広くなっています。

計画的に勉強を進めましょう。

 

七生中は金曜日に始まって、土日をはさんで月火の日程です。

「間の土日」は、「心理的なトラップ」になりそうなので、気を付けてください。

土日に「依存」し過ぎないように「計画」を立ててください。

 

 

3年生の何人かは、部活の「山場」に差し掛かっていて、試験直前に「引退」をかけた大会に挑みます。

本当に、どうにかならないのか、と思いますが、愚痴っていても仕方ありません。

 

 

みなさん、ベストを尽くしてください。

そのために、しっかりとした「計画」を立ててください。

 

 

頑張れ!

 

 

(ivy 松村)

 

 

‟Mission:Possible”

生徒が「どれくらい本気で勉強に取り組んでいるか」を測る「物差し」がいくつかあって、そのひとつは、目標設定の際の反応です。

 

 

期末試験が近づいてきて、生徒と面談をしながら、目標点を決めています。

 

中3の生徒たちには、「志望校を受験するのに必要な内申がどのくらいなのか」を伝えています。

 

 

中2の3学期の内申を「目安」として、全体で「いくつ上げるのか」を導きます。

それから、具体的に「どの教科を上げるのか」を決めます。

 

もちろん、中間試験があった中学の生徒は、その結果を勘案します。

 

 

たとえば、都立高校を第一志望にしている生徒が、その志望校の「都立の換算内申の基準」にあと「5」足りない場合。

 

5科を「+1」、実技4科を「+2」にすれば、「基準」に届きます。

 

そこから、社会を「3→4」、美術を「4→5」、音楽を「3→4」にする、というように、具体的に「ターゲット」を定めます。

 

そうすると、社会を「4」にするために確保しなければならない点数が浮かび上がってきます。

 

それを試験勉強の「配分」に落とし込んで学習計画を立てるわけです。

 

 

 

1学期の中間試験の社会の点数が65点だったとします。

その点数が、成績評価の「どの位置づけ」になるのかは、全体の平均点や、担当教師の評価基準によって変わります。

 

しかし、一般的には「65点」という点数は、「4」に相応する点数であるとはいえません。

 

したがって、期末試験では挽回しなければなりません。

「90点」を「ノルマ」にしようという話になるわけです。

 

さらに、非常にありふれた「策」のひとつですが、「90点」を取るために、「95点」を目標にしようという話になるわけです。

「90点」を目標にしてしまうと、往々にして「90点を取るための勉強量」となってしまいます。ほんの少しのミスが出でたり、対策の不備があったりすれば、目標点に届かなくなります。

そのため、確実に「90点」を得るべく、「ハードル」を一段上げようという「心理的な戦略」がとられるわけです。

 

 

 

このように、試験の目標点は「逆算」によって算出されるべきものなのです。

 

 

ところが、多くの生徒は、「自分の学力」を基準にして目標点を設定します。

 

「自分は社会が苦手だから、80点取れれば、頑張ったほうだ」というように。

 

 

 

もうすこし正確にいえば、「自分の学力」というよりも、「どれだけ勉強してもいいか」という「譲歩の気持ち」が目標点を決める大きな要因となっています。

 

つまり、「80点を取るぐらいまでなら、頑張ってもいい」というメンタリティが、「80点」という目標点をはじき出すわけです。

 

必死で努力すれば「90点」を取れると理解していても、そのための努力が嫌なので、妥協して「80点」を目標とするわけです。

 

 

 

「そんなの、無理。」

 

 

いや、まったくその通りです。無理なんですよ。

 

目指さないのだから、無理に決まっています。

 

 

ただ、それなりに「努力したような雰囲気」にひたって、自分をあざむくための「言い訳」が成り立つ程度に勉強して、最終的に「行ける高校」に行けばいいという「本心」を隠している人にとっては、「本気の話」は迷惑なものなのでしょう。

 

「無理やり押し付けられた目標点」に不満が募ります。

 

 

まだ、勉強を、「させられるもの」だと思っているわけです。

 

 

目標点は、「自分を追いつめるもの」だと思っているわけです。

 

 

ちょっと勘違いしています。

 

 

 

これは、行きたいという高校に、どうすれば行けるのか、という話にすぎません。

 

 

 

さて、一方で、あまりにも自然なことですが、「本気の生徒」は、自分に必要な点数を目指します。

 

根拠を示して、「95点」を目標点としなければならない、と説明すれば、納得し、チャレンジしようと思うわけです。

 

 

 

無理。

 

 

目標点を取ることのみに専念しようとしている人にとっては、無意味なことばです。

 

 

(ivy 松村)