政治の話⑦(「ブーメラン」)

近年「リベラル」の「空回り」が目立ちます。

 

それは、多くの「リベラル派」の人たちが、自分たちの「状況」を正確に把握できていないことが根本的な原因です。

 

大きく4つの点で、「リベラル派」の人たちは「勘違い」をしています。

 

 

1つ目は、自分たちの主張は「論理的である」と考えている点。

 

2つ目は、自分たちは「正義である」と考えている点。

 

3つ目は、自分たちは「支持されている」と考えている点。

 

4つ目は、自分たちの方法論は「効果的である」と考えている点。

 

 

 

まず、1つ目です。「リベラル」が、自分たちの主張は「論理的である」と考えている点です。

 

「リベラル」は、原理的に「パラドクス」を抱え込む「思想」です。

 

とはいっても、それは、その「思想」が質的に劣っているという意味ではありません。

地球上のほとんどすべての思想や価値観の体系は、なにかしらの矛盾を内包しています。科学、という営みでさえ、そういった指摘を免れないでしょう。

 

問題は、そのことを軽視、あるいは、無視していることです。または、そのことに無自覚であることです。

 

思想の「核心部分」に逆説を抱えているわけです。本来ならば、整合性や正当性を突き詰めなければならないはずです。

 

ところが、何人かの「リベラル」の言論人は、無邪気に、自分は、誰もが納得するべき理知的な考えを、朗々と言い聞かせているのだ、と信じ切っています。

 

論理に齟齬があるのに、理論構築をしたり理論武装したりすることなく、放置しています。

 

小手先の理屈で言いくるめられると思っているわけです。

 

ある意味で、「世間」をみくびっています。

 

 

「もりかけ」などの一連の問題で、「世論」を巻き込むことができないのも、「論理の欠如」があるからです。

 

 

 

2つ目です。「リベラル」が、自分たちは「正義である」と考えている点です。

 

現代の「リベラル」のエッセンスを一言でいえば、それは「弱者を助けよう」という「善意」です。

その情動は、尊いものです。

 

しかし、何人かの「リベラル」の言論人は、自分は道義的に正しいことをしていると信じ切っているために、別の考えをもつ人を、反射的に「不道徳」であると考えてしまいます。

 

そのために、何人かの「リベラル」の言論人は、「道義的高み」から、高説を説くがごとく弁舌を奮います。

 

威勢よく強い言葉で「相手」を論難するのは、当人は充足した気分になるでしょうが、それをはた目でみている人は、良い印象を持たないかもしれません。

 

 

また、自身を絶対的な「正義」であるとする考えは、言動に歪を生み出します。

しばし人間は、「大儀」のために、「小さな不義」はやむを得ない、と考えがちです。

 

 

もう一点指摘します。「リベラル」の大きな特徴のひとつは、「道徳性」を、政治的に重要な争点であるとみなす点です。

 

もちろん、自分たちの政府を、「精神的に」信頼できるかどうか、というのは重要なことです。

 

しかし、自らが「道徳性」を持ち出した以上、自身にも「道徳性」が突きつけられてしまうわけです。

 

昨今、「ブーメラン」という俗語が日本の政治の文脈に定着しつつありますが、それは、まさに現代日本の「リベラル」の「現状」を、過不足なく物語っています。

 

 

 

3つ目です。「リベラル」が、自分たちは「支持されている」と考えている点です。

 

「リベラル」は、自分たちは正しいことを言っていると自認しています。

したがって、分別を持った人々は、「実際には」自分たちを支持しているはずだ、と考えがちです。

 

今、劣勢に立たされていても、「うまいやり方」をすれば、「支持」が戻ってくると考えるわけです。

 

 

その「驕り」は、判断を狂わせています。

間違った現状認識のもとで方針を決めたり計画を立てたりするために、思いどおりの「結果」が得られません。

 

 

また、「リベラル」が、オールドメディア、つまり、「マスコミ」に依存する傾向が強いことも、「世論」を読み誤る原因となっています。

 

日本社会は、すでに「インターネット」の影響力がオールドメディアを凌駕する時代に突入しています。

 

しかし、「リベラル」は「インターネット」に対する「不信」に囚われてしまっているために、「インターネット」を有効に活用する路線を打ち出せません。

 

 

先日の世論調査で内閣支持率が上昇しましたが、安倍政権に対する「リベラル」の認識と「世論」の「乖離」は、ある種冷酷な「現実」を突きつけます。

 

「リベラル」の言論人の中には、安倍政権の支持率が下がらない今の世の中はおかしい、と考える人もいます。

 

人間社会に「不条理」が蔓延していることを否定するつもりはありませんが、眼前の「現実」と向き合わなければ、「リベラル」の低落に歯止めがかかることはないでしょう。

 

 

 

4つ目です。「リベラル」が、自分たちの方法論は「効果的である」と考えている点です。

 

日本の社会も日本の政治も「新しい時代」に入っているのですが、「リベラル」の「方法論」は旧来のままです。

 

「成功体験」に固執して、同様の手法で「政治闘争」を繰り返しますが、それは機能しなくなっているのです。

 

「相手」の「人間性」を問題にして、政策や人事の批判につなげ、それを撤回させたり譲歩させたりするやり方は、一昔前には非常に有効でした。

 

しかし、現在はむしろそういった手法は「逆効果」になりつつあります。

 

また、テレビや新聞、週刊誌などのオールドメディアと連携して、「世論」を喚起する方法も、効果が薄れています。

 

「大騒ぎ」をして、さも「相手」が「とんでもないことをやらかした」ということを喧伝するような立ち回りは、もう、見切られています。

 

 

ついでにいえば、世論調査などで、「もりかけ問題」を追求すべきだ、という回答が7割くらいあって、それで、意気盛んになって「もりかけ」に邁進するのも大きな錯誤です。

 

はっきりいってしまえば、ほとんどの日本人は、もう、「もりかけ」に興味がありません。興味のない人間に聞いているわけです。興味のない人間は、質問者が望んでいる回答を汲み取って、「そう答えてあげる」わけです。

 

それで、「もりかけ」が立ち消えになるのは、よいか悪いかといえば、あまりよくないとは思いますが、しかし、「そうさせた」のは「もりかけ」に執心している人たちです。

 

 

 

総じていえば、「リベラル」には、いまだに「過信」があります。

 

それが「リベラル」の低落をもたらしています。

 

 

(ivy 松村)

 

 

 

アメフト・タックル問題について

大学アメフトの件が「炎上」し、「社会問題」となっています。

 

「危険なタックル」を実行した選手の記者会見と、その大学の「指導者」の記者会見の「凄惨なコントラスト」が、この問題を一層大きな社会的関心事に祭り上げてしまいました。

 

責任ある立場の老人は、不毛な「現在」を、死守しようとしています。

 

一方、才能のある20歳の若者は、洋々たる「未来」を、自ら閉ざすと言い切りました。

 

 

 

物騒なことですが、「相手を潰せ。」という極めて野蛮な言葉は、確かにスポーツでよく使われるフレーズにちがいありません。

 

しかし、スポーツの世界では、広く一般に、「相手を潰せ。」というのは「比喩表現」であると周知されています。

 

この言葉が、アメフトで日常的に使用されるものであるというのであれば、それこそ、選手が、その意図を間違って認識することはあり得ないでしょう。

 

健全な指導を受けてきたはずのスポーツマンが、果たして「そのような非道な勘違い」をするのか、という疑問があります。

 

「指導者」たちは、「特別な意図」を込めて、この言葉を発したのだろうと思わざるをえません。

 

 

 

「指導者」たちの記者会見では、あの「犯罪的なタックル」は、選手が、監督、コーチの「意図」を誤解してしまったために起こったものだと説明されました。

 

誰が悪いのか、という追及を逃れるためには、自分以外の誰か、が「悪者」でなければなりません。

 

あの神妙な表情のコーチは気づいているのでしょうか。次は自分だ、ということに。

 

 

 

「名門」のチームの監督、そして選手が、どのようなものなのか、わかったような気がします。

 

「そのようなチーム」の監督は、選手に対してコツコツと指導したり、細々と指示を出したりはしないわけです。日本代表に選ばれるような選手でさえ、普段、監督とまともに話したこともないわけです。

 

毎日の練習の「指導」は、10人以上のコーチ陣が担当していて、試合直前になって、監督が突然何かを言ったりするわけです。

 

 

昨年、監督が再就任した直後に大学日本一になったということですが、それは優秀なコーチ陣が作り上げたチームだったのかもしれません。

 

そうだとしても、その「栄誉」を一身に受けるのは、「責任者」の立場にいる人間です。

たとえ、強いチームが出来上がった後に、急に舞い戻ってきたのだとしても。

 

今年再び大学日本一になり、さらに翌年の「ライスボール」に優勝すれば、記念となる年に、華をそえることができたでしょう。

もしそうなれば、その「業績」は、さぞ、学内で讃えられたことでしょう。

それは、「その後」にとって大変意味のあることだったのかもしれません。

 

 

それにしても、彼らは、一体どれほどの「代償」を支払うことになるのでしょうか。

 

 

 

この「事件」は、人間社会の断面を暴き立てる、普遍的なテーマ性を持ったひとつの「悲劇」です。

 

もし、今が江戸時代であったら、歌舞伎や浄瑠璃の題目となり、未来に語り継がれるものとなったかもしれません。「忠臣蔵」のように。

 

 

 

あの会見は、素晴らしく優秀な「弁護士」が、見事にコントロールしていました。

ただ一点、「笛の音は聞こえていた」という返答を除いて。

 

 

私たちは、彼が、入念な「打ち合わせ」を行って、会見に臨んだことを知っています。

 

 

それでも、胸にこみあげるものを抑えることができないのです。

 

 

 

記者たちは、その異常な指示を、拒絶することはできなかったのか、と問いただします。

 

同時に、彼らは、気づいています。

 

目の前にいる、真摯な、外連味のない健気な青年が、実は、自分の「写し鏡」であるということを。

 

私は、「記者」という種類の人間の「業」を非常に良く理解できます。

 

そして、それは、あの場にいた記者だけの話ではないのです。

私たちの社会には、「同じようなタックル」を実行した人間が、あまりにも多すぎるのです。

 

 

 

彼のことをよく理解できる人間と、理解できない人間がいると思います。

 

それは、良いことでもあり、悪いことでもあります。

 

彼を思いやることができる人間が、この世界には必要です。

しかし、そのような人間は、本当は、この世界には存在してはいけないのです。

 

 

 

いろいろとツッこみを浴びることを承知の上で、個人的な思いを述べるなら、私は、彼に、NFLに挑戦してもらいたいと思っています。

 

 

 

この「事件」が、私たちの社会に多くの「教訓」をもたらすことを願っています。

これが、単なる「悪」を懲らしめて心を晴らすストーリーで終わらないように。

 

 

私個人は、この「事件」は、インターネット社会にひとつの「画期」をもたらしたと感じています。

 

問題の発覚と拡散の仕方は、いかにも現代的でした。

 

社会的な問題の経緯や推移が可視化され、多くの人に検分されてしまう時代になったため、当事者が情報をコントロールすることが、非常に難しくなりました。

「民意」を鎮静化して「幕引き」を図ることは、ある種「技術的なオペレーション」となりつつあります。

 

旧来の対処法やリスクマネージメントは、有効ではなくなったばかりか、「逆効果」をもたらします。

 

それから、「記者会見」はこれから様変わりすると思います。

「会見」は、「マスコミ」にではなく、直接「世間」に言葉を届けるようなものになるでしょう。いずれ、「記者」を呼ぶ必要さえなくなるかもしれません。

したがって、「記者」の役割も少しずつ変化していくと思います。その場に臨席する「記者」は、「『世間』が求めている質問」を当意即妙に切り出すことが求められるようになるでしょう。

 

 

 

それにしても、あまりにも多くのことを考えさせられます。

 

しかし、この「報道」に触れてからずっと、ズシリと、私の脳裏を占領し続けているのは、あの発端の「2秒間」なのです。

 

 

 

ボールを投げ終えたクォーターバックに、体をぶつけるまでの2秒間

 

心中に湧きあがろうとする良心を押さえつけて

感情を消し去り

一心に「悪意の塊」であろうとする

 

「逆切れ」し、別の選手を突き飛ばし、退場になった3つ目の反則は

意識的にやった、というが、あれは「心」を失った人間の自暴自棄だった

 

 

あれが、「修羅」というものなのだと思う

 

 

その凍てついた心象を思うたびに、戦慄して涙が出そうになる

 

 

「大人」が、「教育者」が、あんなことをさせてはダメだ

 

 

 

(ivy 松村)

政治の話⑥(「排除の論理」)

東京都知事の小池さんが立ち上げた希望の党は、とうとう「解党」してしまいました。

希望の党と民進党が「合流」し、国民民主党が立ち上げられました。

 

 

昨年の秋の衆議院選挙で、躍進すると目されていた希望の党は、選挙戦の中盤に入って、急失速し、「惨敗」を喫することになりました。

 

それは、世間一般に、「排除発言」が原因であると考えられています。

 

しかし、実際には、希望の党の「敗因」は「排除発言」ではありません。

 

 

むしろ、「排除しなかったこと」が原因でした。

 

 

 

「排除」という言葉が大きくクローズアップされてしまったために、大きな勘違いが広まっています。

 

小池さんは、当時、党組織の「収容力」と「処理能力」を大きく超える、限界以上の人数に公認を出しました。

 

小池さんは、多くの「リベラル系」の民進党員を受け入れたのです。

それが、その後の希望の党の迷走の大きな原因になるわけですが、混乱が引き起こされるリスクを背負って、「リベラル系」の候補者を合流させたのです。

 

 

それは、「数」が必要だったからです。

 

小池さんは、総理大臣の椅子を狙っていたと思います。

そのために、自身の政党である希望の党所属の衆議院議員の人数をできる限り増やしておく必要があったわけです。

 

小池さんは、「保守系」の政治家で、自民党出身です。

おそらく、小池さんは、一定数の議席を確保したうえで、自民党内の「反主流派」や他の「保守系」の議員とうまく連携できれば、連立内閣を成立させることができると考えたのではないかと思います。

その「流れ」の中で、自身が衆議院議員に「くら替え」する機会を見定めようとしていたのかもしれません。可能であれば、自身も即座に衆議院に立候補、無理であれば、いずれかのタイミングで再度政局を仕掛ける、というような算段だったのかもしれません。

 

 

 

小池さんは、国会内で自身の影響力を確保するために、政治的な考えがまったく違う大勢の「リベラル系」の政治家を飲み込んだわけです。

 

したがって、「排除した」と非難されるのは、かなりの「見当違い」だといえます。

 

 

小池さんが「惨敗」を喫してしまったのは、むしろ、そのために「保守層」の支持が離れてしまったからです。

 

「ここ」の分析を誤ってしまうと、野党も、そして与党も、今後、選挙で同じような失敗をしてしまうでしょう。

 

 

 

直前まで、小池さんが選挙で無類の強さを発揮することができたのは、コアとなる「保守層」の支持に加えて、幅広い層からの支持を取り込むことに成功したからです。

 

実は、「改革派の保守」というのは、現代の日本で最も訴求力のある政治家像です。

 

小池さんは、非常にうまくメディア戦略を展開し、期待される政治家のイメージを具現化しました。

小池さんが「世論」の安定的な支持を得ることができていたのは、「守旧勢力」と対決しながらも、「リベラル」に対して毅然とした姿勢を見せていたからです。

 

 

しかし、昨年の衆議院議員選挙では、「数」を得るために、これまで堅持していた姿勢を崩し、「リベラル」の勢力を党内に取り込みました。

 

そのために、自身の人気の「基調」であった「保守層」の支持を手放すことになってしまったたわけです。

 

 

 

小池さんには、いくつかの「計算外」がありました。

 

そのうち、もっとも大きなものは、当時の民進党の代表だった前原さんの「振る舞い」でした。前原さんが、民進党の候補者「全員」で希望の党に合流することを目指したために、小池さんは、「リベラル色」の強い「左派」の政治家は受け入れない、と「宣言」する必要に迫られたわけです。

 

前原さんは、旧民進党に所属していましたが、「保守系」の政治家です。したがって、小池さんとは政治的な考えが近い政治家です。そのために、「合流話」がうまくまとまったわけですが、当然、「左派」の政治家を受け入れないということも、含意されていたはずなのです。

実際、前原さん自身は党内「左派」の対応に苦慮していました。

 

かなり大掛かりな政局工作が仕掛けられたわけですが、2人は、自民党に対抗する「保守の第二極」を作るという目的で、一致したのだろうと思います。

 

 

ところが、前原さんは、党内の「合意」を得る過程で、にわかに「情緒的」になってしまい、「左派」を「切る」ことを明言するのを躊躇してしまいました。

 

前原さんは、党員に対して、誰が合流を許可され、誰が許可されないのか、さも小池さんの一存で決まるかのように説明してしまったのです。

 

そのうえで、「全員が合流できる可能性もある」というような、その場しのぎの言葉で、いうなれば、まさしく「希望」というものを、「全員に」与えてしまったのです。

 

それは、なかなか強烈な皮肉です。

 

恐らく本当は、前原さんには、党員たちの「運命」が見えていたはずです。

 

 

ただ、私は、個人的には、少しばかり前原さんに同情する余地はあると思っています。

 

喉元過ぎれば熱さを忘れる、ということなのか、多くの人はたった数か月前のことを忘れ去っていますが、衆議院の解散が決まったとき、民進党は、異常な空気に包まれていました。

あのまま選挙に突入していれば、民進党の崩壊どころか、日本から「リベラル」が駆逐されていてもおかしくなかったわけです。それは、当事者である民進党の議員のほうが、よりリアルに理解していたはずです。

後日、前原さんは、希望の党に合流できなかった「左派」の候補者から非難を浴びましたが、「左派」の政治家が、自身の政治信条と小池さんの政治信条を照らし合わせて、同じ政党に所属できると本気で考えていたとするなら、ずいぶん面の皮が厚い、と思います。

 

 

 

さて、何度も言及しているように、小池さんは「保守系」の政治家です。

「リベラル」の政治家とは、政治に対する考え方が大きく違うわけです。したがって、「リベラル」の政治家を受け入れない、という判断は、極めて合理的なものです。

 

 

ところが、「排除発言」は、非常に大きな「非難」を浴びることになりました。

 

 

「排除」という言葉に過敏に反応したのは、「リベラル系のマスコミ記者」でした。

「排除」という言葉が、「リベラル的価値観」を強く刺激したのかもしれません。

 

 

「排除発言」が、「世論」の逆風を招いた、というのは、一般的に信じられている「マスコミ」のロジックですが、実際には、別の「原理」が働いて、希望の党は失速したわけです。

 

 

希望の党は、あてにしていた「保守層」の票を失ったのです。

 

 

さらに、失った票があります。それは、立憲民主党に流れました。

 

 

先の衆議院議員選挙では、立憲民主党は、「リベラル」の票に加えて、希望の党から流れてきた票を得ることができました。

 

 

立憲民主党を浮上させたのは、その、ある特殊な「票」の集まりです。

 

日本の選挙の特徴のひとつは、「信条」ではなく、「心情」で投票する有権者が一定数いることです。

政党や政治家の公約や実績ではなく、その候補者を「応援したい」という気持ちに突き動かされて、投票する「人情票」が存在します。

 

 

今回、立憲民主党に投票した一部の層は、その前の都知事選では、小池さんに投票したでしょう。

その層は、政権交代をしたときの民主党に投票したでしょう。

その前は、小泉さんに投票したでしょう。

 

 

つまり、そのときそのときの選挙で、「その候補者が当選したら面白そうだ」あるいは「その政党が勝ったら痛快だ」というような「感情」にもとづいて投票するわけです。

 

 

「人情票」は「無党派層」と混同されがちですが、立候補者の身の上や人物像に対する「好感度」、あるいは、対立候補に対する「嫌悪感」が投票の「動機」であるという点で、観点が異なります。

 

 

「人情票」は、「数」としては限定的ですが、まとまった票が一斉に動くので、条件が合わさって発動したときには、「劇的な結果」に繋がりやすくなります。

 

 

前回の選挙で、立憲民主党が躍進しましたが、これを「額面どおり」に受け取るのはとても危険だと思います。先の衆議院選挙では、様々な「フィルター」が作用したことが、「票」に結びつきました。

 

もし、今、選挙になれば、かなり深刻な状況になってしまう可能性があります。

 

 

 

それにしても、「一寸先は闇」という言葉がありますが、政治の舞台も、明日をも知れない世界です。

枝野さんが再び表舞台に立ち、小池さんは挫折しました。

 

 

なぜ、小池さんは「あのタイミング」で勝負をかけたのか、いろいろ考えます。

 

もし、「あの選挙」のとき、「党勢の拡大」ではなく、「堅実な足固め」に徹していれば、今、小池さんは、「最大のチャンス」を迎えていたはずです。

自民党内の「反主流派」と一部の野党勢力を結集して、「首班指名」を実現できたかもしれません。

 

もちろん、ただの「結果論」に過ぎませんが。

 

 

これは、まったくの個人的な想像ですが、小池さんの政治家としての「原風景」に、1993年の「政変」が刻印されているのかもしれません。

 

この年、戦後の日本政治を独占し続けた自民党を打ち倒し、細川内閣が成立しました。

小池さんは、細川さんが率いた日本新党の一員として選挙を戦い、日本の政治史にエポックを刻んだのです。

 

あのときの「熱」が、小池さんを突き動かしていたのかもしれません。

 

それから、これも単なる想像ですが、アラブ諸国で連鎖的に起こった政治運動、「アラブの春」に政治家として感応したのかもしれません。小池さんは、アラブ世界に通じた稀有な政治家でした。

 

 

 

いずれにしても、小池さんの「関ヶ原」は終わりました。

 

 

小池さんには、ぜひ都政を良いものにしてもらいたいですね。

オリンピックもありますし。

 

 

その一方、国民民主党は、どうなっていくのでしょうか。

 

 

 (ivy 松村)

 

 

政治の話⑤(「多様性」)

「多様性」というものが良いことである、という観念は、極めて現代的なものです。

 

第二次世界大戦後、「秩序」や「同質性」、「整然とした社会」のイメージは、ファシズムや軍国主義と深く結びつけられ、悪質なものであるとみなされるようになりました。

 

また、前世紀の後半には、個人の「主体的な生」を抑圧する古い社会因習を打破し、個人は、多様な人生のありかたを自由に選択するべきなのだという考えが広まりました。

 

これが「リベラル」の思想的ルーツです。

 

20世紀をとおして、「多様性」は社会の理想的なあり方を示す「キーワード」であるという認識が強められました。

 

現代、「多様性」という概念は、あらゆる「社会思想」においても「重要な位置」を占めているといえます。

 

しかし、ここ数年、「多様性」を重視すべきであるという考えが深く浸透したはずの「先進国」で、これに「逆行」するような動きが強まっています。

 

 

「多様性」について、少し考えてみましょう。

 

 

 

「多様性」が「有益なもの」であるという「見解」は、社会科学的な観察や考察の中から生まれたものではありません。

 

おそらく、生物学的な所見がその基底にあります。

 

よく知られているように、「生態系」における「生物の多様性」は、「自然環境」に強度をもたらします。

 

 

社会学という学問の中に、「社会有機体説」、「社会システム理論」といった考え方があるのですが、これらは、生物学をベースにしたものです。つまり、社会学は、古くから生物学に着想を得てきたわけです。

 

「多様性」を「社会的概念」として導入することは、少なくとも社会学にとってはまったく「自然な発想」であったといえます。

 

 

生物学的な知見に重ね合わせるように、「人間社会」にとっても「多様性」が重要であるという考えが、広く普及しました。

 

 

「多様性」という概念は、本来「人間社会」を対象とした研究から惹起されたものではありません。

そのため、「人間社会」における「多様性」の議論には、いくつかの見落としがあります。

 

 

 

たくさんの種類の生物が生息する「生態系」のなかで、動植物は「共生」しているというように、説明されます。

それぞれの動物たちは、お互いに気を使いながら、仲よく、ほほえましく暮らしているというイメージを思い浮かべてしまいます。

 

しかし、実際には、それぞれの個体は、自分が生き延びるために、自分より弱い個体を捕食しようと五感を研ぎ澄ませ、常に機をうかがっているわけです。

弱い個体は、天敵に捕食されないために、神経をすり減らしながら逃げ惑っているわけです。

 

生物が多様であるということは、別の面では、生存競争が活発であり、苛烈であるということを示唆するはずです。

 

 

「生態系」の「実像」から切り離されて、多様な存在が「同居」しているという表面的なイメージだけが共有されるようになると、多種多様な個体が「弱肉強食」の世界でしのぎを削っているというような「リアリティ」が抜け落ちてしまうわけです。

 

 

 

「自然環境」における「生態系」という観点を持つとき、私たちは、自身を「生態系」の「外側」に置いています。したがって、自身を、その中の「多様性」を担う存在として認識していません。

 

一方、「社会」にとっての「多様性」を考えるとき、私たちは、その社会の構成員であるという前提に立ちます。自身は、「社会」の「内側」に置かれているわけです。

 

 

 

「生態系」に「多様性」は必要か、と問われて、「否」と答える人は、まれです。

自分の生活にとって、眼前の利害と関係しない「議題」を否定する意味はありません。

 

ところが、「社会」に「多様性」は必要か、と問われれば、それは、たちまち複雑な「議題」となり変わります。

 

 

「社会的な多様性」について考えるとき、人は、自分自身が帰属する「コミュニケーションの地平」に「他者」を受け入れるべきかどうか、という「現実」と向き合わなければならなくなるからです。

 

自分の帰属する社会あるいはコミュニティに「他者」が参入することが、自分にとって「プラス」になるという立場の人は「賛成」するでしょう。

 

逆に、それが「マイナス」になるという立場の人は「反対」するでしょう。

 

 

 

「多様性」に恩恵を受けている人は、これを肯定します。

 

「多様性」の恩恵を受けやすいのは、上位の社会階層に帰属する人です。

 

たとえば、大学のような研究機関や多国籍企業は、多様な地域から有能な人材を集めます。

「開放的」な組織に属し、「多様な背景」を持った優秀な同僚、上司部下と接する機会の多い人は、「多様性」の素晴らしさを享受します。

 

また、研究者は、世界中の研究者と交流する必要があります。企業は世界中で取引を行い、世界中で製品を売る必要があります。グローバル化を推し進める組織の中では、閉鎖的な思考が育まれる余地はありません。

 

さらに、スポーツ選手、芸術家、音楽家、俳優、作家等も同様の視点を持つ人が多いでしょう。

 

 

 

ここで、私たちは、現代社会において「多様性」が「社会」にとって良いものであるとみなされていることを思い出します。

 

一般的に、「多様性」を否定することは不見識な行為であるとみなされます。

「他者」を快く受け入れる寛容な心を示すことが、優れた「人間性」の証であると考えられているわけです。

 

そこで、私たちは、公に「多様性」を否認するようなことを慎むわけです。

 

そして、「多様性」を否認していると受け止められるような誰かの言動に触れたとき、即座にこれを咎め、抑え込もうとします。そうすることで、自分自身の器量を誇示することができるわけです。

 

 

 

ひとつの、捨て置かれている「視点」を指摘することができると思います。

 

すなわち、全員が、というつもりはありませんが、少なくとも一部の「多様性の守護者」は、「多様性」を肯定することで、自尊心を満たしているのだ、といえるわけです。あるいは、自身の人格の高潔さを世間に知らしめようとしているのだ、といえるわけです。そして、多くの場合、「彼ら」は「安全な場所」にいます。しかも、そのことに無自覚です。

 

 

 

さて、今の時代に、「多様性」の「神話」を疑う声が広がりつつあります。

 

多くの国で、社会的な葛藤が引き起こされています。

それは、ある意味で、社会階層間の相克でもあるわけです。

 

それはまた、その国の社会の「分断」が進行していることを物語っています。特に顕著なのが、アメリカ合衆国です。

こうして、ひとつの社会の中で、それぞれの人々が、別々の「地平」を生き、別々の「社会観」を持つわけです。

 

 

これはある意味で喜劇、同時に悲劇です。

 

 

皮肉なことに、「多様性」に否定的な人は、「同質的な社会」を希求しながら、その意思を「同胞」に否定されるわけです。

 

「多様性」に肯定的な人は、「排他的な人たち」よりも「多様な背景を持つ人々」との親交を大事にします。

 

 

さらに、皮肉なことに、「多様性」に肯定的な人は、「多様性」を否定する人々の存在もまた、「多様性」の一部である、という単純な事実に気づきません。

 

 

「多様性」を否定する人々を否定することは、「多様性」を否定することになるわけですが…。

 

 

 

 

 (ivy 松村)

 

政治の話④(「マスコミ」)

安倍内閣の実質的な「ナンバー2」である麻生財務大臣と「マスコミ」の記者の対立が先鋭化しています。

 

麻生大臣が担当する財務省は、「一連の問題」の「震源地」となりました。

 

一部の記者が麻生さんに刺激的な質問を浴びせ、それに対して、麻生さんは歯に衣着せない辛辣な口調で記者に「反論」する様子が、テレビや新聞に度々取り上げられています。

 

 

麻生さんは、先の総理大臣時代に、自らの発言を「マスコミ」に何度も悪意的に取り上げられた苦い経験があります。

マスコミの「キャンペーン」と、いわゆる「リーマンショック」などによる世界的な経済危機への対応に苦慮し、麻生政権はじりじりと追い詰められました。

 

麻生さんには「マスコミ」に対する、大きな「遺恨」があるわけです。

 

 

一方、「マスコミ」にとっては、麻生さんは「旧弊」を絵に描いたような横暴で独善的な政治家に映ります。

一部の「マスコミ」の記者は、是が非でも麻生さんから「失言」を引き出し、それを政権批判に結び付けようと躍起になります。

 

第二次安倍政権が発足した後も、閣僚となった麻生さんの「失言」は何度も「マスコミ」で取り上げられました。

 

しかし、それは、政権に、大きな「ダメージ」を与えていません。

 

「マスコミ」は、さらに必死になって麻生さんの「失言」を大々的に取り上げますが、思ったように「世論」を喚起することができません。

 

 

 

いまや、麻生さんが総理大臣だった「10年前」とは違います。状況が劇的に変化しています。

 

完全に「潮目」が変わり、「失言」のような小手先の「陥穽」で、政権を追い落とすことができるような時代ではなくなっているのです。

 

 

もちろん、許されてはならない言語道断の「問題発言」をする政治家がいます。社会的に認められはない発言をしてしまった政治家は、その責任のありかたを問われるべきです。

 

過去に、何人もの国務大臣が、呆れるような「舌禍」をさらし、更迭されました。

 

 

しかし、特定の政治家を追い詰めるために、文脈から切り離された「一部の発言」を糾弾するような手法は、もはや実効性が無くなりつつあります。

 

「そういった手法」が効果的でなくなったばかりか、むしろ「そういった手法」が即座に見ぬかれ、逆に非難を受ける時代になったわけです。

 

 

 

「世論」への「マスコミ」の影響力が弱まっているのは、「マスコミ」の報道に対する「不信感」が高まっているためです。

「マスコミ」の報道は公平中立ではなく、強いバイアスがかかっていると、知られるようになりました。

 

特に「インターネット」は重要な役割を担いました。

 

 

一部の「マスコミ」は、いまだに「インターネット」の影響力を軽視しています。

 

 

「インターネット」の「プラットフォーム」には、あらゆる「個人」、あらゆる「組織」から多面的な情報が集積されます。また、そこから、広範に情報が拡散されます。

 

 

「人間」を軽んじている人間は、より多くの人間が介在すれば、信用できない情報があふれることになる、と考えます。しかし、実際には、「その反対」が優位となります。

 

つまり、多くの人間が介在することによって、より論理的でより整合的な情報が選択され、拡散されるのです。

 

「マスコミ」に限らず、多くの「識者」は、「インターネット」の「多参性」というものを過小評価しすぎていると思います。

 

 

どこの誰が発信したのかわからない情報は、確かに存在します。なかには、それを無条件に信じる人もいるでしょう。

しかし、「インターネット」の利用者の多くは、「どこの誰が発信したのかわからない情報」であるからこそ、その情報が信用できるかどうかを示す「根拠」を重視します。

 

いわゆる「エビデンス」というやつですね。

 

 

(それとも、単純に、情報を使って人々を扇動しようとする人間ほど、他人も同じように、情報を使って人々を扇動しようとするはずだ、と考えるのかもしれません。)

 

 

 

これまで、「マスコミ」はその強大な「影響力」を集約的に動員することで、「ここぞ」という場面で政治状況に「加担」してきました。

安倍さんも麻生さんも、過去に、煮え湯を飲まされてきました。

 

しかし、現代、「マスコミ」は、政治を左右する力を失いつつあります。

 

その事実は、「マスコミ」に強烈な焦燥感をもたらしています。

 

 

 

財務事務次官が辞任に追い込まれた問題は、「政治」と「マスコミ」の間に横たわる「溝」を、修復不可能な深奥としました。

 

当然、「リテラシー」を有した人は気づいていますが、これは、「表面的な問題」と「本質的な問題」が別、なのです。

「マスコミ」は、自身の体質を棚上げして、これを「倒閣」の材料に加えようと「決断」しました。その「報酬」として、政治家、官僚さらには財界人、学者、専門家、もっといえばジャーナリストも、「マスコミ」に過度に近づくべきではない、との共通の認識を持つに至りました。

特に政治家と官僚は、今後「マスコミ」と「深奥な距離」を保つように努めるでしょう。それは、どうしても合理的、常識的な判断であるといわざるをえません。

同時に、「マスコミ」の取材は、やはり「自制」すべきものになりました。

それが「マスコミ」の「要望」であるというわけです。

 

 

 

さらに、安倍政権と「マスコミ」の「確執」には、別の「根本的な要因」が存在することも指摘しておかなければなりません。

 

安倍政権は、新聞社とテレビ局の「特権」の廃止に向けて動き出しています。

具体的には、新聞社の税制上の優遇を撤廃し、テレビ局の「既得権益」を潰そうとしています。

 

「マスコミ」が安倍政権に対して闘争的なのは、自身の存亡が、政権の存亡と「背中合わせ」になっているからです。

さて、果たして、どうなることに、なるのでしょうか。

 

 

 

それにしても麻生さんの「マスコミ」に対する「攻撃的な態度」は、ちょっと気になります。

 

財務省の「公文書書き換え問題」は、麻生さんと熾烈に「やり合っていた」報道機関のスクープでした。また、その報道機関と関係の深い別の報道機関は、財務次官の問題にも関与していました。

 

これらの報道によって、麻生さんは財務大臣を辞任せざるを得ない状況に追い込まれる可能性がありました。

 

当初、私は、麻生さんの「ストレス」が言動にあらわれているのかもしれないと考えました。

 

しかし、その後、「一連の問題」が収束しつつあるにもかかわらず、麻生さんの「マスコミ」に対する姿勢は、あまり変化しませんでした。

 

 

もしかすると、麻生さんは、もはや「マスコミ」に対して「取り繕う必要はない」、と考えているのかもしれません。

 

 

あるいは、別の可能性もあります。

 

麻生さんは、秋以降、財務大臣ではなく、別のポストに就任するのかもしれません。

それは、もしかすると「党務」のほうなのかもしれません。

 

安倍さんは、果断に「人事の変更」をします。

安倍政権について、「お友達内閣」などと揶揄されることがありますが、安倍さんは、「抜擢」が多く、同時に「見切り」も早い政治家です。

 

(本当のところをいえば、「お友達内閣」という評論は、「リベラル」な人物を排除する安倍さんの姿勢を批判する物言いなのです。)

 

実は「大胆な人事」というのは、安倍さんの政治家としての「特徴」のひとつです。

(これは、個人的には、小泉さんの影響が大きいと思います。)

 

安倍さんの「人事」については、決断力があるともいえますが、同時に「情が薄い」と考える人もいるかもしれません。

 

 

安倍さんと麻生さんが二人だけで会合をしたというニュースを、けっこう気にしているのですが、どうなんでしょう。気になりますね。まあ、秋までに状況に変化があるかもしれませんし、今はわかりませんね。

 

 

 

 (ivy 松村)

 

 

政治の話③(「倒閣運動」)

国会の「攻防」が激化しています。

「正念場」となったこの2か月、数々の「問題」が矢継ぎ早に噴出し、「野党」の攻勢に拍車がかかりました。

 

 

「野党」には、この通常国会の会期中に、どうしても安倍政権に「致命傷」を与えておかなければならない「事情」がありました。

ある意味で、数々の「問題」は、そのために「用意されたもの」であるといえます。

 

 

 

秋に、自民党の「総裁選」が行われます。

 

もし、そこで、安倍さんが自民党の総裁に選ばれず、他の誰かが新しい自民党の総裁に選ばれれば、結果として、安倍政権は幕を閉じることになります。

新しい総裁が、内閣総理大臣に指名されることになるからです。

 

そうなれば、現在の日本の「野党」の「最優先の目的」である、「倒閣」が実現するわけです。

 

 

通常国会が終われば、国会は「夏休み」に入ります。

そうすると、「野党」が、安倍政権を直接攻め立てる機会は完全に失われます。

 

したがって、今このときに、安倍政権が危機的な状況を迎えているという「空気」を、大きくふくらませておく必要があったわけです。

 

 

 

「野党」にとって「政権交代」は、もはや現実的ではありません。選挙では、勝てる見込みがないからです。

 

そこで、自民党内で働く「力学」に刺激を与えることで、「安倍おろし」を実現させたいと考えているわけです。

 

 

現職総理大臣に対する「世論」の反発が盛り上がれば、自民党内で現職総理大臣の求心力が低下します。現職総理大臣が「トップ」のままでは、選挙に勝てなくなると考える党員が出てくるからです。

 

また、次の総理大臣の椅子を狙う自民党の政治家の活動が活発になります。

現在の「トップ」を追い込むことが、自分にとって「プラス」になるからです。

したがって、党内の「権力争い」が顕在化します。

 

 

「野党」にとって、自民党は倒すべき敵ですが、自民党内には、「同じ目的」を持った「敵の敵」がいるわけです。そこで、「野党」は、自民党内の実力者に、それとなく「呼応」を促し、安倍さんの失脚につなげようと考えます。

 

このような、他の政治勢力に対して協力関係を求める態度を、政治の文脈で「秋波をおくる」と表現します。

 

よくニュースを見てみると、「秋波」に反応しようとしている自民党の政治家がいることがわかります。ときに、自民党の政治家が、政権批判を行ったりすることがありますね。

 

 

 

現在の「与党」の最大勢力である自民党の「トップ」を決める「総裁選」は、総理大臣を決定する「プロセス」でもあります。

 

「野党」の、内閣に対する激しい攻撃は、自民党内部に揺さぶりをかけようという意図があるわけです。

 

 

 

この2か月の「攻防」は、戦後政治史に残るほどの無軌道ぶりをみせ、苛烈を極めました。

 

しかし、「野党」の目論見は、徐々に腰砕けになりつつあります。

 

現状では、安倍体制の牙城を崩すことはできないでしょう。

 

安倍さんは、非常に巧みに自民党をまとめています。

秋の「総裁選」では、安倍さんが再選される見通しが強まっています。

 

 

 

安倍さんの自民党内の「ガバナンス」が安定している理由をいくつか挙げることができます。

 

 

1つ目は、安倍さんの「選挙の強さ」です。

 

第2次政権以降、安倍さんは、都知事選、都議会選では苦杯を喫しましたが、国政選挙では、無類の強さを発揮しています。

 

国民人気の高い安倍さんが「総理・総裁」であれば、自民党の政治家は当選する可能性が高くなるわけです。

 

 

2つ目は、党の「執行部」の「集権化」が進んでいることです。

 

自民党では、かつて「派閥政治」が横行しました。

現在も「派閥」の枠組みは温存されていますが、もはや「派閥」単位で選挙を戦う時代ではなくなりました。衆議院で小選挙区制が導入されたことや政党助成法ができたことで、「執行部」(特に幹事長)が、公認や資金の分配などの権限を持ちました。

それによって、2000年代中ごろから、自民党は、ボトムアップ型の組織からトップダウン型の組織へと変貌しました。

 

 

 

3つ目は、安倍さんの「後継者」がいまだに頭角を現していないことです。

 

これは、同じように長期政権を担った小泉さんとは対照的です。

小泉さんはその執政期に、安倍さんを含め、多くの後継者候補を育てました。

 

 

 

そして、4つ目は、安倍さんの「トップ」としての資質です。

 

安倍さんは、他の政治家とは異質な「感性」を持った政治家だと思います。

それは、安倍さんの「キャリア」と関係しているように思います。

 

 

安倍さんは、世襲政治家でありながら、長い「下積み時代」を経験しています。また、当初は民間企業に勤めました。

 

安倍さんは、しがらみや固定観念にとらわれず、適材適所に人を配置します。人の能力を引き出す術を知っている人だと思います。言葉をかえるならば、人を使うのが非常に上手です。

安倍さんは、他の政治家とは一線を画した「組織論」を持っているように思います。

 

さらに、安倍さんは、類まれなコミュニケーション能力を持った政治家です。

折衝や交渉が非常に巧みで、社交性が豊かです。冗談や皮肉も上手です。

 

こうした「能力」は、天分なのかもしれませんが、その多くをサラリーマン時代や「下積み時代」に培ったのだろうと推察します。

 

 

また、安倍さんは、第1次政権時に大きな蹉跌を経験しました。

 

今の安倍政権には、多少の「揺さぶり」には動じない強い「メンタリティ」があると思います。ありていな言葉でいえば、「腹が据わっている」というのだろうと思います。

それは、一度失敗をして、這いあがってきた政治家に特有のものなのかもしれません。

 

 

(反面の、安倍さんの政治家としての欠点は、「口の軽さ」だったり、信用できないとみなした相手を徹底的にみくびって反感や恨みを買う部分だと思います。また、その「頑固さ」は、長所でもありますが、短所でもあると思います。)

 

 

 

さて、安倍政権が、猛攻撃に見舞われながら、なお盤石な体制を維持している最大の理由は、やはり、「野党」に対する世の中の「不信感」が大きくなっていることです。

 

「野党」を信用できないので、消去法で現政権を支持せざるをえないという層が広がっています。

たとえ「消去法」であっても、「政権・与党」が多数の「支持」を集めているという「構図」に変わりはないわけです。

 

「野党」への支持が広がらないのは、「倒閣」が、完全に「目的化」してしまっているからです。

無理を押し通してでも「倒閣」を遂行しようという思惑が透けて見えてしまって、共感をよばないわけです。「安倍政権を倒す」ということの優先順位が、「この国を良くしよう」という政治家の「本懐」よりも上にきてしまっています。

 

 

もう少し踏み込んだ指摘をするならば、一連の問題で見せた「野党」の行動パターンは、すでに古い時代のものになっています。

したがって、同じように古い感性を共有する層にはある程度の訴求力を発揮しますが、同時代的な感性には共感をよびません。

 

「テレビ栄え」を意識したパフォーマンスや演出は、むしろ逆効果となっています。

 

 

 

「野党」は、財務省の「公文書書き換え問題」で、政権を追い込もうと試みましたが、「失敗」に終わりました。

「野党」にとって思いどおりの「成果」を得ることはできませんでした。

 

 

本来であれば、「問題」の原因を突き止めて、再発防止に向けた議論を行うべきでしょう。

 

ところが、野党は、「倒閣」のために、この問題を利用しようとしました。

「誰かの指示」があったのではないか、という「ストーリー」にこだわり過ぎたのです。

 

そのおかげで、麻生財務大臣は辞任を免れたといってもいい過ぎではないと思います。

 

国家公務員が、重大な違反行為を行ったわけです。

「責任者」が「責任」を取る、というのは、(個人的には疑問に思う部分もありますが)日本社会の「しきたり」や「慣習」に従えば、十分に「筋」のとおる決着のつけかたであったといえると思います。しかし、これを「政権の進退」という「論題」にすり替えようとしてしまったために、なけなしの「成果」さえも失ってしまったわけです。

 

 

 

さらに、財務省の次官が辞任に追い込まれた件でも、「野党」は「それ」を「倒閣」に結び付けようとしました。

 

本来であれば、「この問題」は、日本社会や日本の「組織」をより良くするための「一歩」となったかもしれなかったのです。

「問題の本質」とはかけ離れた扱われ方をしてしまったために、禍根だけが残りました。

 

 

 

今また加計学園問題が再燃していますが、政権を追いつめるのは、やはりちょっと厳しそうです。まあ、この件は少し他と違う点があるので、まだちょっとわからない部分もあるのですが。

 

 

 

「野党」の「倒閣運動」は、たとえるなら「無自覚な焦土戦」です。

 

これまで築き上げられてきた政治的なインフラや社会システムを倒壊させながら、「政治不信」を膨張させています。

 

 

ある人たちは、一部の「野党」に対して、「混乱」を拡大させることに、ある種の「インセンティブ」があるのではないかと疑っています。真偽はともかく、こうした「疑念」を持たれてしまうことが、さらに安倍政権を幇助するわけです。

 

 

(ivy 松村)

 

政治の話②(「リベラルズ・パラドクス」)

前回の衆議院選挙以降、いくつかのメディアでは、若者の「保守化」が進行しているとして、ちょっとした話題になりました。

 

これは、不正確な認識だと思います。

 

正しくは、(若者の)「リベラル離れ」が進行しているのです。

 

 

若い世代ほど、「リベラル」的な価値観や言論、政策に説得力を感じない人が増えています。

そのために、近年、日本の政治的、社会的形勢から「リベラル」が加速度的に退潮しています。

 

これは西欧や北米など、資本主義と民主主義が根づいている国々、つまり「先進国」で同時的に進行している現象ですが、日本独自の文脈も存在します。

 

 

日本の「リベラル」の言論は、多くの論理的不整合を抱え、自家撞着を起こしています。

私は、これを「リベラルズ・パラドクス」と呼んでいます。

 

 

「リベラルズ・パラドクス」に対する「回答」を提示しない限り、「リベラル」は、より衰退することになるでしょう。

 

 

 

日本の「リベラル」の最大の特徴は、「多様性」というものを最重視することです。

さらに付け加えるならば、それは、他の様々な社会的、個的異相を放置し、民族的、文化的な差異のみに、強く焦点化されます。

 

 

わかりやすくいえば、「マイノリティに対する寛容さ」という主題に「オールイン」してしまうわけです。

 

 

しかも、それは「インバウンド」における「マイノリティ」に結論づけられてしまっています。

 

 

たとえば、「金星」では「火星人」は「マイノリティ」です。

しかし、「火星」では、「金星人」が「マイノリティ」です。

 

「マイノリティ」という「立場」は、相対的なものであって、固定的なものではありません。

したがって、「火星人」は、常に弱い立場の少数者というわけではありません。

 

 

「マイノリティ」を気遣い、いたわりながら接することが普遍的な義務であるといえるのであれば、それは「金星人」だけでなく、「火星人」にとっても義務であるはずです。

 

もし、「金星人」に対しては義務の履行を強く迫る一方で、「火星人」に対しては「目こぼし」を行うのであれば、それは一貫性のない単なる「ご都合主義」にしかなりません。

 

 

「『金星人』は『火星人』の気持ちをもっと考えるべきである」などと安易に口にする人がいるわけです。

「彼ら」は、「その逆」もいえるのだということを無視しているか、あるいはそれに無自覚でありつづけます。

 

 

このような「片務性」は、現代の日本の「リベラル」が抱えるもっとも顕在的な「パラドクス」です。

 

 

 

もう少し、「リベラルズ・パラドクス」について考えてみましょう。

 

 

「国民」とか「民主主義」という言葉は、「絶対的な価値と大儀」を示す「威光」のように扱われます。

 

「国民が納得しない!」

「民主主義をないがしろにするな!」

 

というように、「政敵」に対して非難を浴びせる際に用いられるわけです。

 

 

いうまでもないことですが、国民は主権者です。

 

したがって、「多数の日本国民」の意見や感情に寄りそって、政策は施行されるべきです。

日本国籍を持たない「外国人」に対して、「過度の優遇」が行われるとすると、それは「国民主権」の否定になってしまいます。

 

 

 

さて、ここでちょっと「注釈」を。

「こうした議論」には、一抹の懸念があります。「こうした議論」を実直に続けていくと、「苛烈な反応」が生じるかもしれないという憂慮がもたげます。「この時点」で、すでに、私が「マイノリティ」を悪くいっていると受け止めてしまうような、知性に乏しく読解力の貧しい人間が、世の中に存在するわけです。

 

 

いうまでもないことですが、私は、「パラドクス」について述べているのです。

 

 

 

議論を戻しましょう。

 

「民主主義」についても、相似の「パラドクス」が存在します。

 

つまり、「少数派」に対する配慮が度をこえてしまうと、「民主主義」の否定につながるわけです。

 

たしかに、「民主主義」の「説明」には、「少数の意見を尊重すること」が付随します。

しかし、「少数意見を尊重すること」は、「少数意見を取り入れること」とは違います。

 

無知なのか故意なのか、わかりませんが、政治家の中にも、間違った解釈にもとづいて「多数決」を非難する人がたまにいます。

 

「民主主義」の根幹は、「議論」です。「尊重」というのは、少数意見であっても「議論」の対象とすることが重要であるということなのです。

 

当たり前の話ですが、少数意見を認めたり少数意見に譲歩したりするような「特別扱い」を許容するとすれば、それは、むしろ健全な民主主義が機能していない状態です。

 

もし、「少数派」が「少数派であること」を理由として利得を得るようなことがあれば、「民主主義」は崩壊します。

 

「民主主義」と「少数派の優遇」は、原則として「両立」しません。

 

 

つまり、そこには、やはり「パラドクス」が潜んでいるわけです。

 

 

 

最後に、構造的な「パラドクス」について考えてみましょう。

 

 

「リベラル」は、「寛容さ」という姿勢と態度を、社会に求めます。

「他者」に対する「寛容さ」が、「多様性」を醸成させるというわけです。

 

したがって、「寛容さ」というものは、「リベラル」にとって、ある種の「教条的な意味」を持つといえるのかもしれません。

そうすると、「リベラル」は、道理として「不寛容」を放置できないわけです。

 

つまり、「リベラル」は、原理的に、「不寛容」に対して「不寛容」である、という状態に陥るわけです。

 

それが、「リベラル」にとって最大の「パラドクス」となっています。

 

 

たとえば、「『火星人』を受け入れるな」というような「不寛容」な意見は封じ込めなければならないわけです。

 

 

「リベラル」にしてみれば。

 

 

ところが、「『火星人』を受け入れるな」という意見も、「多様な意見」のうちのひとつであるといえます。

 

さらにいえば、「『火星人』を受け入れるな」という意見を認めないという態度は、「不寛容」であるといえるわけです。

 

 

 

念のために再度述べますが、これは「パラドクス」についての説明です。

私自身が、排他的な主張をしているわけではありません。

 

このような「論」を述べると、「いや、でも社会的に悪影響のある意見は抑止しなければならないのだ」というようなことを反射的に発したくなってしまう人がいます。

そういう人は、「それ自体」が、私の述べていることの一部であるということに永遠に気づきません。

 

 

あえて加言すれば、その「無残な鈍感さ」が、「リベラル離れ」の主因です。

 

 

 

私は、「パラドクス」について述べています。

 

 

 

(ivy 松村)

 

 

政治の話①(「支持率」)

当初、このブログには「政治的なこと」を書くつもりはなかったのですが、折に触れていくつかの記事を書きました。「政治」を「タブー」にするほうが、なんというか、不自然だなと、だんだんに思うようになってきたのです。

 

去年は、まとまった記事を書いてみましたが、それは、ちょっとした「実験」の意味合いもありました。

「政治的な考え」を抑制しながら、「政治的な意見」を書くことができるのかどうか、試してみようと思いました。それが、うまくいったのかどうか、まあ、まだよくわかっていないのですが。

 

 

そんなこんなで、今回も、ちょっと「政治的なこと」を書いてみようと思っているのですが、政治の話なので、自分の考えとは違う、と思う人もたくさんいると思います。ですが、まあ、いってみれば、小話の一種のようなものですので、その辺によくいる市井のおっさんの独り言だと思って、気楽に受け流してもらえれば、と思います。

 

 

それで、これは常日頃いっていることなのですが、これは正しい、とか、これは間違っているというように「価値観を表明すること」と、なぜそのようなことが起きるのか、とか、なぜそのような結論が導かれるのか、というように「論理的に説明すること」は「次元」が違うわけです。

 

 

世の中には、両者の区別がつかない人がたくさんいます。

 

「政治的なこと」について考えるときには、その2つをよくふまえて熟慮するようにしましょう。

 

 

 

さて、最近の「政治的な状況」をきちんと整理してみようと思ったのが、「きっかけ」です。

 

 

「もりかけ問題」が1年以上もくすぶり、さらに、この2か月ほどの間にも、次々と「問題」が発覚しました。

 

「野党」は、血気にはやり、内閣を追い詰めようと精力的に活動しましたが、いまや完全に「袋小路」の状態になってしまいました。

 

「野党」の「倒閣運動」がうまくいかない最大の理由は、「世論に訴える」という旧来の方法論が機能しなくなっているからです。

 

 

本来、政権にとって、「支持率」の低下は見過ごすことのできない大きな関心事のはずです。

放っておけば、「選挙」に勝てなくなるからです。

 

そのため、従来は、内閣の「支持率」が下がってくると、与党内からも「突き上げ」が起こりました。

党内外、そしてマスコミからの「首相下ろし」の圧力が強まって、政権の維持が現実的ではなくなると、次の選挙に臨む前に、その内閣は「末期」を迎えました。

 

 

過去のこのような政治のメカニズムは、もはや前時代的なものになりつつあります。

 

現政権にとって、マスコミが示す「世論」は「弱み」ではなくなっているからです。

 

 

安倍政権が、「支持率」の低下に大きく動揺しない理由はおもに2つあります。

 

 

ひとつは、「世論調査」の信憑性がゆらいでいることです。

 

 

アンケート調査は、質問文の書き方や質問の順序を調整したり、回答者を選別したりすることによって、「結果」をある程度コントロールすることができます。

 

具体的には、アンケートの対象を「固定電話」の所有者に限定する場合、回答者の「属性」に偏りが生じます。平均年齢が高くなるわけです。

 

 

近年は、新聞各紙あるいは各テレビ局がどのような「政治色」を持っているのか、一般にもよく知られるようになってきました。

そのうえで、各報道機関の「世論調査」が、その報道機関の主張にとって都合の良い数字になることも広く知られるようになってきました。

 

たとえば、現政権を支持する論調の新聞の「内閣支持率」は高めに出て、反対に現政権に批判的な論調の新聞の「内閣支持率」は低めに出るわけです。

 

結果的に、現代は、政治に関心を持っている人ほど、「内閣支持率」を「あて」にしなくなっています。

 

 

インターネットの台頭によって現出した「情報社会」は、「マスコミ」の影響力の崩落をもたらしました。

 

「マスコミ」の「主観性」が広く浸透し、その「誤謬性」を誰もが疑うようになったわけです。

 

 

そのため、「内閣支持率」の下落傾向が強くなっても、「世間」の反応は鈍いし、政権も慌てふためいたりはしないわけです。

 

 

 

もうひとつの理由はもっと単純です。

「支持率」が低下しても「選挙」に勝てるという目算があるからです。

 

端的に、一連の「倒閣運動」でより大きなダメージを負ったのは、「野党」のほうでした。

「内閣支持率」は下降しましたが、「与党支持率」とその他の政党の「支持率」は、依然大きく広がったままです。

 

「支持政党なし」の割合が大きくなっていますが、現状では、選挙になった場合「無党派層」は「与党」に傾くので、「野党」は全体の勢力をさらに縮小させることになるでしょう。

 

これまで、「支持率」という数字に大きな関心が寄せられていたのは、それが「選挙」を占うものだと考えられていたからです。

 

また、それが「選挙」に影響を与えるものだと考えられていたからです。

 

 

安倍さんは、自民党の総裁になって以降、国政選挙にすべて勝っています。

「支持率」が低くても、「選挙」で勝てるのであれば、「支持率」を気にする必要はないわけです。

 

 

海外の選挙でも似たような傾向が出始めていますが、現代は、「支持率」と「選挙」がリンクしない時代となりつつあります。

 

 

もう少し踏み込んでいえば、マスコミ報道をとおして「危機感」や「終末感」を煽るというような「手法」は、もはや効果的ではなくなっているのです。

 

 

反面、テレビや新聞のみを情報源としている人は、注意が必要かもしれません。

「報道とは違う現実」と直面して、戸惑うことになります。

たとえば、これだけの騒ぎを起こしておいて、なぜ内閣は平気でいるのだ、と不思議に思う人もいるでしょう。

 

 

(ivy 松村)

 

 

ハリルホジッチ氏の解任について考えたこと

今年はサッカーのワールドカップが開かれる「ワールドカップ・イヤー」ですが、ワールドカップ本選を目前にして、3年間日本代表チームの監督を務めたバヒド・ハリルホジッチ氏が解任され、大変な議論となりました。

 

 

サッカーのワールドカップは、その歴史、規模、注目度からいって、まさしく世界最高峰のスポーツイベントです。ワールドカップの「成績」は「その国のサッカー」の今後を大きく左右するにちがいありません。

 

ハリルホジッチ氏の解任に「賛成」の立場の人は、ハリルホジッチ氏が監督では、ワールドカップで良い成績が残せないと考えています。

したがって、別の監督に変えなければならない、というわけです。

 

一方、ハリルホジッチ氏の解任に「反対」の立場の人は、「継続性」を重視します。

ハリルホジッチ氏の就任からワールドカップ終了までを1つの「区切り」であると捉え、その期間の「検証」を行うことで、それを「次」につなげることができると考えているわけです。

 

また、「消極的な反対派」も存在します。

彼らは、ハリルホジッチ氏の手腕に疑問を抱いているけれども、直前に監督を変更するのは「悪手」であると考えています。

 

 

 

今回の「解任劇」について、新聞やテレビには「前代未聞」という刺激的な言葉が踊りました。

 

しかし、「サッカーの世界」では、本番直前に監督が解任されたり、大会期間中に監督が更迭されたりすることなど、実は、わりとよくある話です。

ハリルホジッチ氏自身、ワールドカップ直前に解任されたのは、これが「2度目」の経験です。

 

つまり、日本サッカー協会の「決断」は、そうした「サッカーの世界」の「スタンダード」からみれば、決してめずらしいものではないのです。

 

ある意味で、ハリルホジッチ氏の「反応」は過剰だったともいえます。

 

 

日本サッカー協会が、その「態度や物腰」を、さも非礼で冷淡であるかのようにそしられ、そのような「予想以上」の反響にとまどい、苛立ちを募らせたのは、無理もないことだったのかもしれません。

 

 

 

ただ、私は、「この件」に関しては、ハリルホジッチ氏に同情的です。

 

ハリルホジッチ氏は、「プライドを傷つけられた」と繰り返し述べていました。

 

ハリルホジッチ氏が耐えられなかったのは、本当は、「辞めさせられたこと」ではないのかもしれません。

 

「ハリルホジッチ氏ではワールドカップに勝てない」という評価を下されたことなのだろうと思います。

 

 

 

ハリルホジッチ氏に限らず、およそすべてのスポーツ指導者は、悲惨な負け方をしてしまったときに、酷評される覚悟をしていると思います。

 

ところが、「今回」は、「結果」ではなく「予想」で監督としての能力を見限られてしまったわけです。

ハリルホジッチ氏は「そのような事態」をまったく想定していなかったために、狼狽し、錯乱したのだと思います。

 

少し補足するならば、ハリルホジッチ氏は、前回のワールドカップで、前評判を覆し、世界を驚嘆させる結果を残した監督です。日本サッカー協会は、まさに「その手腕」を見込んで、日本代表の監督のオファーを出したわけです。

 

 

 

解任の「ひきがね」となったのは、3月の「遠征試合」でした。

その「試合内容」に危機感を募らせた日本サッカー協会は、ハリルホジッチ氏の解任に大きく傾くことになったと言われています。

 

日本サッカー協会は、その「遠征試合」を、ワールドカップ本番をみすえた重要な「模擬戦」であると捉えていました。

他方、ハリルホジッチ氏は、その「遠征試合」を、本番に向けた調整の一部であると考えていました。

 

 

両者の「認識の違い」は「問題」を複雑にした原因のひとつですが、通常、こうした「溝」は容易に解消することができるものです。

 

単純に、「遠征試合の結果次第では、解任もあり得る」と伝えておけばよかったのです。

 

そうすれば、ハリルホジッチ氏は協会が「危機感」を抱いていると理解し、自分の「立場」や「なすべきこと」について考えをはせることができたはずです。

 

日本サッカー協会は、選手との「コミュニケーション不足」を、ハリルホジッチ氏の指導の問題点として挙げていました。

 

しかし、実際にコミュニケーションが不足していたのは、協会と監督だったということなのですが、「そのこと」を「ほとんどの人」は示唆しません。

 

 

 

別の見解も存在します。

「遠征試合」の試合内容が良くなかったというのは「口実」にすぎず、もっと他の「直接的な理由」があったのではないかという観点です。

 

そうであるならば、日本サッカー協会の説明は、単なる「後付け」の解任理由であるということになります。そのために、「遠征試合」の結果が「唐突に問題視されることになった」のかもしれません。

 

 

日本サッカー協会が「問題視」したのはハリルホジッチ氏の「選手選考」であった、という可能性があります。

こうした見方は、なお報道関係者の間でくすぶっています。

 

 

つまり、ワールドカップに向けたハリルホジッチ氏の構想が具体的になるにつれて、協会側が要望する選手がメンバー登録から外される可能性が強まったわけです。

 

日本サッカー協会は、「経済効果」も含めた「総合的な見地」から、代表監督の人事を考えなければならないということなのでしょう。

 

 

 

「選手選考」は監督の「専権事項」であり、他の何人たりとも侵害しえない、という観念は、根強くあります。

 

 

しかし、現実的に、サッカーの「プロの監督」は、無制限の「権限」を与えられ、自由にチームを編成したり、独自の方針や戦術を決定したりすることができるような存在ではありません。

 

それはサッカーの監督に限った話ではなく、およそ「現場の指揮者」という役割を担う人物は、様々な「制約」や考慮すべき「リクエスト」などを飲み込んで、「チーム」をコントロールし、成果をあげようとするはずです。

 

イタリアなどのヨーロッパのサッカークラブではよくある話ですが、たとえば、「ワンマン」的なクラブの「オーナー」が、ある選手と「出場試合数」を保証する契約を結ぶことがあります。その選手に「強力なスポンサー」がついているような場合です。

そのチームの監督は、「あたえられた条件」をふまえてチームの戦術を策定しなければなりませんが、「それ」も「監督の仕事」に含まれているわけです。

 

 

 

ヨーロッパでキャリアを積んできたハリルホジッチ氏は、当然、そうしたサッカーの監督の「リアリティ」というものを身に染みて理解しているはずです。

 

 

もしかすると、日本サッカー協会は、ハリルホジッチ氏に「自由に選手を選んでよい」と伝えていたのかもしれません。

 

だとすれば、「問題」の所在は、「そこ」にあるような気がします。

 

日本サッカー協会にしてみれば、それは「建前」です。

最後はこちらの意向を汲んでくださいね、いや、汲んでくれますよね、という思いを抱いていたのでしょう。

 

何というのか、「そういうこと」を表現する便利な日本語があったような気がするのですが、まあ、ちょっとわすれてしまいました。

ともかく、日本サッカー協会は、表面上は、ハリルホジッチ氏を信用して「一任する」という態度を示しておきながら、胸中に「自分たちの要請」をしまいこみ、なぜか、「きっと思いが通じる」という根拠のない期待をしていたのではないのかな、と思います。

 

ハリルホジッチ氏にしてみれば、「契約」に書かれていないことを考慮する義務はありません。

信用しているので好きなように選手を選んでくれ、と言われれば、わかった、ということで自分の信念にもとづいて、「選手選考」を行うでしょう。

 

 

 

ハリルホジッチ氏は、「真実」を知りたい、と繰り返し述べていました。

 

自分は信用されていると自負していたのに突如解任され、それをまったく理解できない状況だったわけです。だから、最初、ハリルホジッチ氏は自身の解任について「陰謀」に巻き込まれたのだと感じたのでしょう。

 

 

やはり、「コミュニケーション不足」というキーワードが浮かびあがります。

 

 

 

中心選手をワールドカップのメンバーから外す、というのは、少々大げさにいえば、「スキャンダル」に限りなく近い行為なのだと思います。

 

思い起こされるのは、1998年、日本が初出場したフランス・ワールドカップです。

当時日本代表チームの監督だった岡田武史氏は、ワールドカップ直前ギリギリ、フランスでのキャンプ中に、最終メンバーを選びました。

おそらく、岡田氏はもっと前からチーム構想を固めていたはずですが、できるかぎり「雑音」を遮断しようとしたのだろうと思います。

 

岡田氏は、「自由に選手を選んでもよい」という「言葉の裏側」をよく理解していたのだと思います。

日本の「組織人」である岡田氏は、「それは簡単なことではない」と熟知していたので、本当に自由に選手を選ぶために、「正攻法」をとらなかったのだろうと思います。

 

 

2002年に日本代表の指揮を執ったフィリップ・トルシエ氏も、日本サッカー史上もっとも優れたテクニックを持つ選手のひとりをメンバーから外す決断をしました。

 

トルシエ氏は、非常に「エキセントリック」な指導者として知られました。

トルシエ氏の任期中に、一部の「協会関係者」から「解任の声」が上がりましたが、サッカーファンは、「解任反対」の運動を展開し、トルシエ氏の続投を望みました。そして、当時の日本サッカー協会の会長だった岡野俊一氏の「一声」で、トルシエ氏の留任が決まりました。

ある意味で、「今回」とは反対の結果だったわけです。

協会のトップの「お墨付き」と、ファンからの熱烈な信頼を得たトルシエ氏は、完全に自由裁量の「選手選考」を行うことができました。

 

 

「逆の例」としては、2006年に指揮を執ったジーコ氏、2014年に指揮を執ったザッケローニ氏が挙げられます。両氏は、協会との良好な関係を保ちました。

 

 

 

振り返ってみれば、日本が初めてワールドカップに出場して、20年の月日が経ちました。

 

この20年の間に、「グローバリズム」が大きく進展しました。

多くの人が見落としていることですが、「サッカー」は、もっとも強く「グローバリズム」の影響を受けている「ビジネス」のひとつです。

 

 

日本は、1993年までサッカーのプロリーグを持ちませんでした。

そのためか、日本のサッカー界には、非常に頑強な「アマチュアリズム」が根付きました。

信じがたい話かもしれませんが、日本サッカー協会は、かつてはワールドカップよりもオリンピックのほうを重視していたくらいです。

 

「Jリーグ」が発足して四半世紀、ワールドカップに出場して20年。「日本のサッカー」は、大きく発展しました。

 

しかし、「世界のサッカー」は、それ以上の速度で展開しています。他に類をみないほどの急激な変化が起こっているわけです。サッカーは、今や「巨大な資本」が動く、大掛かりな地球規模の「ビジネス」です。

 

 

これは個人的な所感ですが、日本人は、サッカーというスポーツの「ビジネス」としての側面を、うまく制御できていないような気がします。

さらに踏み込んでコメントを加えるならば、多くの人は自分はグローバル化にコミットしていると思い込んでいるけれども、肝心なところでは、ローカルなメンタリティとローカルなコミュニケーション様式に埋没してしまうのだと思います。

 

 

 

ハリルホジッチ氏の解任の理由が「選手選考」にあったのだとしたら、「処方箋」はわりとすぐに見つかりそうです。

 

 

「こちらの意向」を汲んでくれることを期待し、期待が裏切られたら、「困った性格」などといって、「相手のせい」にするのは、もうやめなければなりません。

 

 

「処方箋」のひとつは、「こうして欲しい」と直接相手に伝えることです。

それが、「コミュニケーション」の本質なのだろうと思います。

 

どうしても折り合わなければ、解任ということになりますが、お互いの立場を説明し、意見を出し尽くした末の「結果」であれば、「相手」も納得することができるでしょう。

 

 

もうひとつの「処方箋」は、協会の権限を具体的に「契約」に盛り込むことです。

これは「例」のひとつですが、「必ず2人は協会の指定した選手をメンバーに選ぶ」というような内容に同意したうえで、監督を引き受けてもらうわけです。

 

こうした「契約」をばかばかしく感じてしまう人もいると思いますが、このほうが、「グローバル・スタンダード」です。

 

 

 

さて、ここまで述べてきたとおり、私は、日本サッカー協会が日本代表の「選手選考」に介入することに、必ずしも否定的ではありません。

 

そして、ハリルホジッチ氏の解任が「正解」なのか「不正解」なのか、結局「正しい判断」をすることができる人はいないのだろうと思っています。

 

 

しかしながら、「今回のこと」については、ハリルホジッチ氏を気の毒に思います。

 

 

評論家やジャーナリスト、コメンテーターの意見をざっくりと見ましたが、監督を経験したことがあるかないかによって、意見に偏りがあるように感じました。

 

つまり、監督経験のある人は、解任に反対する人が多いわけです。

一方、そうでない人は、解任に賛成する人が多いわけです。

 

時間が経つにつれて、解任に賛成するという意見を述べる人が増えていきました。

 

 

これは、「想像力」の問題でもありますが、別の「力学」も作用しています。

日本サッカー協会の「立場」を推し量って、批判的なコメントを差し控えているわけです。

 

何というのか、「そういうこと」を表現する便利な日本語があったような気がするのですが、まあ、ちょっとわすれてしまいましたが、ともかく、日本サッカー協会に「不利」なことは言わないわけです。

 

いろんな情報番組で、ハリルホジッチ氏や通訳の方を小ばかにするような、軽薄な言動が聞かれたようです。

 

なかでも、20年前に、直前にメンバーから外され、ワールドカップに行くことができなかった「元選手」の辛辣なコメントには、せつない感情が沸き起こりました。

 

 

 

多くの人が「想像力」というものを勘違いしていると思うのですが、「想像力」というのは、見たこともない別世界を思い描くこと、ではありません。

 

自分の体験に照らし合わせて、「他のシチュエーション」を理解することです。

多様な体験を積み重ねてきた人ほど、豊かな「想像力」を持っているわけです。

 

 

彼は、ハリルホジッチ氏の胸中を、より深く理解できる人であるはずなのに。

 

 

 

これは、論理的な思考ではなく、多分に情緒的なものですが、私は、ハリルホジッチ氏の「無念」に思いをはせます。

 

きっと、同じように感じる塾の人間は、たくさんいると思います。

 

 

 

それから、私は、Jリーグがスタートした1993年の熱気を思い起こします。

あのとき、私たちは「100年後の日本のサッカー」を夢想したのです。

 

 

「目先の結果」も大事ですが、培ってきたものを大切にすることも意味のあることだと思います。

 

 

 

日本のサッカーが、「75年後」に、さらに前に向かって進んでいることを願います。

 

 

 

 (ivy 松村)