アメフト・タックル問題について

大学アメフトの件が「炎上」し、「社会問題」となっています。

 

「危険なタックル」を実行した選手の記者会見と、その大学の「指導者」の記者会見の「凄惨なコントラスト」が、この問題を一層大きな社会的関心事に祭り上げてしまいました。

 

責任ある立場の老人は、不毛な「現在」を、死守しようとしています。

 

一方、才能のある20歳の若者は、洋々たる「未来」を、自ら閉ざすと言い切りました。

 

 

 

物騒なことですが、「相手を潰せ。」という極めて野蛮な言葉は、確かにスポーツでよく使われるフレーズにちがいありません。

 

しかし、スポーツの世界では、広く一般に、「相手を潰せ。」というのは「比喩表現」であると周知されています。

 

この言葉が、アメフトで日常的に使用されるものであるというのであれば、それこそ、選手が、その意図を間違って認識することはあり得ないでしょう。

 

健全な指導を受けてきたはずのスポーツマンが、果たして「そのような非道な勘違い」をするのか、という疑問があります。

 

「指導者」たちは、「特別な意図」を込めて、この言葉を発したのだろうと思わざるをえません。

 

 

 

「指導者」たちの記者会見では、あの「犯罪的なタックル」は、選手が、監督、コーチの「意図」を誤解してしまったために起こったものだと説明されました。

 

誰が悪いのか、という追及を逃れるためには、自分以外の誰か、が「悪者」でなければなりません。

 

あの神妙な表情のコーチは気づいているのでしょうか。次は自分だ、ということに。

 

 

 

「名門」のチームの監督、そして選手が、どのようなものなのか、わかったような気がします。

 

「そのようなチーム」の監督は、選手に対してコツコツと指導したり、細々と指示を出したりはしないわけです。日本代表に選ばれるような選手でさえ、普段、監督とまともに話したこともないわけです。

 

毎日の練習の「指導」は、10人以上のコーチ陣が担当していて、試合直前になって、監督が突然何かを言ったりするわけです。

 

 

昨年、監督が再就任した直後に大学日本一になったということですが、それは優秀なコーチ陣が作り上げたチームだったのかもしれません。

 

そうだとしても、その「栄誉」を一身に受けるのは、「責任者」の立場にいる人間です。

たとえ、強いチームが出来上がった後に、急に舞い戻ってきたのだとしても。

 

今年再び大学日本一になり、さらに翌年の「ライスボール」に優勝すれば、記念となる年に、華をそえることができたでしょう。

もしそうなれば、その「業績」は、さぞ、学内で讃えられたことでしょう。

それは、「その後」にとって大変意味のあることだったのかもしれません。

 

 

それにしても、彼らは、一体どれほどの「代償」を支払うことになるのでしょうか。

 

 

 

この「事件」は、人間社会の断面を暴き立てる、普遍的なテーマ性を持ったひとつの「悲劇」です。

 

もし、今が江戸時代であったら、歌舞伎や浄瑠璃の題目となり、未来に語り継がれるものとなったかもしれません。「忠臣蔵」のように。

 

 

 

あの会見は、素晴らしく優秀な「弁護士」が、見事にコントロールしていました。

ただ一点、「笛の音は聞こえていた」という返答を除いて。

 

 

私たちは、彼が、入念な「打ち合わせ」を行って、会見に臨んだことを知っています。

 

 

それでも、胸にこみあげるものを抑えることができないのです。

 

 

 

記者たちは、その異常な指示を、拒絶することはできなかったのか、と問いただします。

 

同時に、彼らは、気づいています。

 

目の前にいる、真摯な、外連味のない健気な青年が、実は、自分の「写し鏡」であるということを。

 

私は、「記者」という種類の人間の「業」を非常に良く理解できます。

 

そして、それは、あの場にいた記者だけの話ではないのです。

私たちの社会には、「同じようなタックル」を実行した人間が、あまりにも多すぎるのです。

 

 

 

彼のことをよく理解できる人間と、理解できない人間がいると思います。

 

それは、良いことでもあり、悪いことでもあります。

 

彼を思いやることができる人間が、この世界には必要です。

しかし、そのような人間は、本当は、この世界には存在してはいけないのです。

 

 

 

いろいろとツッこみを浴びることを承知の上で、個人的な思いを述べるなら、私は、彼に、NFLに挑戦してもらいたいと思っています。

 

 

 

この「事件」が、私たちの社会に多くの「教訓」をもたらすことを願っています。

これが、単なる「悪」を懲らしめて心を晴らすストーリーで終わらないように。

 

 

私個人は、この「事件」は、インターネット社会にひとつの「画期」をもたらしたと感じています。

 

問題の発覚と拡散の仕方は、いかにも現代的でした。

 

社会的な問題の経緯や推移が可視化され、多くの人に検分されてしまう時代になったため、当事者が情報をコントロールすることが、非常に難しくなりました。

「民意」を鎮静化して「幕引き」を図ることは、ある種「技術的なオペレーション」となりつつあります。

 

旧来の対処法やリスクマネージメントは、有効ではなくなったばかりか、「逆効果」をもたらします。

 

それから、「記者会見」はこれから様変わりすると思います。

「会見」は、「マスコミ」にではなく、直接「世間」に言葉を届けるようなものになるでしょう。いずれ、「記者」を呼ぶ必要さえなくなるかもしれません。

したがって、「記者」の役割も少しずつ変化していくと思います。その場に臨席する「記者」は、「『世間』が求めている質問」を当意即妙に切り出すことが求められるようになるでしょう。

 

 

 

それにしても、あまりにも多くのことを考えさせられます。

 

しかし、この「報道」に触れてからずっと、ズシリと、私の脳裏を占領し続けているのは、あの発端の「2秒間」なのです。

 

 

 

ボールを投げ終えたクォーターバックに、体をぶつけるまでの2秒間

 

心中に湧きあがろうとする良心を押さえつけて

感情を消し去り

一心に「悪意の塊」であろうとする

 

「逆切れ」し、別の選手を突き飛ばし、退場になった3つ目の反則は

意識的にやった、というが、あれは「心」を失った人間の自暴自棄だった

 

 

あれが、「修羅」というものなのだと思う

 

 

その凍てついた心象を思うたびに、戦慄して涙が出そうになる

 

 

「大人」が、「教育者」が、あんなことをさせてはダメだ

 

 

 

(ivy 松村)