「政治の話」の話

このブログは、いろんな人が見ているようです。

塾の人も、けっこう見ているらしいです。

 

他の塾の教師の中には、うわ、このブログ、政治の話なんか書いている、と思いながらハラハラしている人もいるかもしれません。

また、「性格の悪い人」は、ニヤニヤしながら見ているかもしれません。

 

その感覚も、わかります。「政治の話」というのは、かなりリスキーです。世の中には、「政治の話」に、想像外の反応をする人が多くいます。塾の「評判」に影響が出る可能性もあります。

 

 

「政治の話」を書いている塾のブログは、他にないでしょう。

このブログでも、当初は「政治の話」を書くつもりはありませんでした。

 

まあ、でも、ちょっと「チャレンジ」してみようと思うようになりました。

 

ちょっと、試したくなったのです。

 

 

あと、「政治の話」なんか、読む人いるの?と、いぶかしく思っている人もいるかもしれません。

 

まあ、世の中、何事であっても、興味を持たない人もいれば、興味を持つ人もいるでしょう。

幸か不幸か(?)このブログに興味を持つ人もいます。

 

まことしやかな噂では、政治家や政府関係者も読んでいるとか。(ホンマですか?)

 

どれほど小さなものであったとしても、この社会に、何かしらの「爪痕」を刻むことができたのだとしたら、苦労して書いた意味があったと思えます。

 

 

 

私の文章は、世の中に出回っている「政治評論」とはずいぶん趣が違うと思います。

 

自分で文章を書きながら、「塾の人間」が「政治の話」をするということの「意味」を、ちょっと考えました。

 

このブログの文章には、私が「塾の人間」であるがゆえの特徴がよくあらわれていると思います。

自分で言うのも口はばったいことですが、それは、「簡易化」と「要点化」であるといえます。

 

私は、「知っていること」を「てんこ盛り」にして全部を書きません。

テンポや構成のバランスを損なう情報は、ばっさり削除します。

 

また、内容が雑多になりすぎないように、できる限り単純に、包括的に説明するように心がけます。ノイズになりそうな情報を捨象して、必要な情報をグループ化したり、定式化したり、概念化したりします。

 

私は、こうした作業を、自分で「引き算」と呼んでいます。

 

 

私が文章を書く際に「引き算」を重視するのは、私が「塾の教師」であることと無関係ではありません。私は「理解しやすさ」に気を配りながら、文章を推敲します。

 

 

学者や評論家は、「引き算」が苦手な人が多いと思います。

「情報量」の多寡で「マウント」を取り合う習性が身についてしまっているからです。

 

それに、学者や評論家の中には、「理解するということ」は、より多くの情報や知識を取得することだ、と考える人が多いように思います。

 

一方、私は、「理解するということ」は、物事を「よりシンプルな構造」に組み替えることだと考えます。

 

 

一応、念のために:私は、けっこう図々しい性格をしていますが、いくら何でも、自分の書いたものが、専門家が書いたものよりも優れているとは思っていません。

「役割」が違うわけです。

私が書くものは、いわば「旅行案内」のようなものなのだと思います。

 

 

 

けっこう長い期間「政治の話」を書いてきたわけですが、もうそろそろ終えようか、と思います。まあ、秋ぐらいには、また少し書くかもしれませんが。

 

「政治の話」のシリーズは、各回に設定された主題に沿って、ひとつひとつの記事が書かれています。ですから、それぞれの記事は独立した内容になっているわけですが、実は、シリーズ全体に通底する「テーマ」があります。

回を重ねるごとに、その「テーマ」に少しずつ接近していって、やがて最後の記事に収束するという構成でした。

 

ところが、書いているうちに、まとめるのがちょっと大変になってきました。

それに、いいかげんそろそろ切り上げなければ、別の記事を書く機会がなくなる、という懸念が大きくなりました。

 

それで、この辺でいったん書くのをやめようと決めたわけです。

 

一応、構想としては、この後、「世襲」、「政治スキャンダル」、「圧力団体」、「ウヨクとサヨク」について書くつもりでした。

最後に、「平等と公正」について書くつもりでした。

 

 

 

で、なぜ、このような「言い訳」のようなものを記しているのかというと、ここまで書いてきた内容「だけ」を読んだ人は、けっこういろいろな「誤解」をしてしまうのではないか、と思ったからです。

 

私が一連の記事を通して書きたかったのは、「リベラルの役割」についてでした。

 

 

 

現代日本社会に、「外国人」を酷い言葉で罵倒するような人たちがいます。そのような人たちの言葉に、やるせない憤りを感じます。

 

なぜ彼らはそのような振る舞いをするのか、という動機の説明に「ルサンチマン」という言葉が使われます。

「ルサンチマン」というのは、もともとは哲学の用語ですが、通俗的な用法が広まって、評論などでは、本来とは少し違った文脈で用いられます。

 

評論などで、「ルサンチマン」という言葉は、妬みや嫉みをこじらせて、他者に対して攻撃的な言動を発してしまうような人間の「鬱屈した精神」を指します。

 

一般的にそのような人物は、人生を思い通りに生きられず、その苛立ちや自身の不甲斐なさを他者に転嫁する「弱い人間」であるとみなされます。

 

 

彼らは、狭量で下品な人格であると判断されます。まともな感性の人間は、「彼ら」と同じように思われたくない、と考えるにちがいありません。

 

「リベラル」は、よりいっそう彼らを嫌悪します。「外国人」を悪く言うなんて、と。

 

 

しかし、本来、「リベラル」という思想は、「ルサンチマン」を抱えているような人に寄りそうようなものであったはずなのです。

 

「弱き者の味方」であり続けることこそが、「リベラル」の使命だといえるからです。

 

 

 

多くの人が感じていることなのだろうと思いますが、現代日本の「リベラル」は、「ドメスティックではない背景」に近接しています。

泥沼の「リベラル」言論人や政治家と、「それ」を紐づけているものは、明るみに出せないような、けっこう陰惨なリアリティです。

 

 

まあ、「紐づけられている者」はともかく、「公正」、という人類普遍の価値を推戴する「真のリベラル」は、「真に弱き者」を正しく見つめる必要があるのではないかと思うわけです。

 

過去に、何人もの偉大な人道主義者、啓蒙主義者たちが、人生を投げうって、世界を前進させてきました。彼らは、「弱き人びと」が因襲や蒙昧にとらわれていても、諦めませんでした。

 

 

 

安倍さんは、どちらかといえば「グローバリスト」です。

ですから、まあ、どちらかといえば、社会の下位の階層にいる人たちよりも、社会の上位の階層にいる人たちにとって有利な政策をすすめています。

 

 

「アベノミクス」の成果として、「大手企業」のボーナスが過去最高額になった、というニュースを見て、「やったぜ、さすが安倍総理!」といっている人たちがいるわけです。

でも、「彼ら」の人生は、「それ」とは「交わらない」わけです。

 

それなのに、「彼ら」は、安倍政権を支持します。

その理由は、まったく単純です。

安倍政権は、「ドメスティックではない背景」に譲歩しないからです。

 

ついでにいえば、安倍政権打倒に執念を燃やす人たちの動機も「そこ」にあります。

さらに、ついでをいえば、安倍政権は、米国に対しては、さまざまな譲歩を行っています。

 

 

 

「二元論」でしか物事をとらえられない人は世の中にけっこうたくさんいて、このような文章を書くと、結局お前は「どっちの側」なのだ、とききたがります。

 

そういう問いに一言で答えられないからこそ、書こうとするわけですが。

 

ただ、これまでに書いてきた通り、私は、安倍さんという人を「すごい人」だと思っています。

失意の中から立ち上がり、再び前進を始める人は、誰であっても何ぴとであっても尊敬したくなります。

 

 

 

最後に、「政治の話」を書こうと思った「直接の動機」について書きたいと思うのですが、それは、生徒との「質問タイム」でした。

 

去年の中3の授業では、気になったことを「何でも」質問していい「質問タイム」というものがありました。これは、生徒の「質問」を題材にして、アドリブで私がおもしろおかしく話をするというただの「雑談」の時間なのですが、まあ、「質問」という理屈づけというか、体裁をとっているわけです。

 

で、私は、毎度毎度アホっぽいことをいったり、ボケをかましたりしていたわけです。

去年の中3の生徒は、頭の回転が速い子が多かったので、とても楽しい時間でした。

 

2つのクラスの生徒は、みんな「コミュニケーション」というものの本質を理解していました。

「こういう時間」をうまく活用したほうが、自分にとってもプラスになります。

理解力のある生徒は、「こちらの意図」を汲み取って、気分転換や、「スイッチ」を入れるきっかけにするために、積極的に参加してくれます。

 

 

それで、たまに「政治の話」がトピックになることがありました。

昨年、このブログに政治についての記事を何度か書きました。その記事はかなり婉曲的に書いたので、それについてどういうことなのか、ききたかったのかもしれません。

それに、昨年はいろいろと「政治の動き」が活発だった年でもありました。

 

でも、私は、「政治の話」をあまりすることなく、はぐらかすことが多かったのです。

「政治の話」をすることに躊躇があったのです。

 

それは、個人的な経験に起因しているかもしれません。

中学の頃、延々と「政治の話」をする教師が多くて、いつもうんざりしていました。

自分は「政治の話」をしないようにしよう、と思っていたわけです。

 

しかし、はぐらかしてばかりいると、何となく、やましいことを隠しているような雰囲気になってしまいます。かといって、「マジ」で話をしてしまうと、「質問タイム」の趣旨を損なうばかりか、とんでもなく時間を取られてしまいます。

 

何度か簡単な「答え」を返したこともあったのですが、そのうち、なんとなく「政治の話はNG」みたいな空気になっていきました。

 

後になって、そのことに対して、ちょっとした後悔を感じるようになりました。

 

それで、過去には、生徒たちに、「政治の話」は控えなさい、などと言っていたのに、自分から盛大に「政治の話」を書きまくってしまいました。

 

 

あとは、もう、書き尽してやれ、と思って書いてきましたが、この辺でお終いですね。

 

 

 

最後の最後に、もう一度注釈を。

 

 

政治について議論するときに、以下のことに気をつけてください。

 

これは正しい、とか、これは間違っているというように「価値観を表明すること」と、なぜそのようなことが起きるのか、とか、なぜそのような結論が導かれるのか、というように「論理的に説明すること」は「次元」が違います。

 

 

世の中には、両者の区別がつかない人がたくさんいます。

 

「政治的なこと」について考えるときには、その2つをよくふまえて熟慮するようにしましょう。

 

 

 

 

(ivy 松村)

 

 

 

政治の話⑨(「アベノミクス」)

安倍内閣の政策の目玉は、「アベノミクス」であるということになっています。

 

「アベノミクス」は、経済の「成長戦略」であると説明されます。

 

要するに、経済活動を抑制したり、緊縮させたりしないようにするわけです。

 

そのために、投資家に、積極的に投資をしてもらえるようにするわけです。

また、企業が、積極的に経済活動を行えるようにするわけです。

 

 

そして、政府は、積極的に「公共事業」を行います。

「公共事業」は、社会生活や経済活動の基盤となるような設備やシステムを整えることです。

これらは、一般的に、「社会資本(インフラ)」と呼ばれます。

「社会資本」の整備は、政府の重要な機能の1つで、「公費」が投じられます。

つまり、「税金」を使って、「仕事」と「雇用」を生み出すわけです。

 

 

余談ですが、かつて、「公共事業」は、「政治腐敗」の温床となりました。

政治家は、自分たちに利益を還流してくれる業者に、「公共事業」を優先的に発注したわけです。

 

 

景気を浮揚させるために、政府が、積極的に「公共事業」を行うことは、いうまでもなく「経済の基本」です。

しかし、これを「歳出」でまかなうわけですから、過剰な「公共事業」が行われてしまうと、「財政」が悪化します。

ですから、「公共事業」は、念入りに計画されなければなりません。

 

 

ここには、ひとつの問題点が横たわっていると思います。

 

 

すなわち、「消費税率の引き上げ」です。

 

 

積極的な「財政出動」を行って経済成長を促す、というのが「アベノミクス」の骨子だったわけです。そして、「アベノミクス」は順調だ、と。

 

非常にシンプルな話で、「歳出」を増やしたあげく、「歳入」が足りなくなって、「増税」…「これ」に納得できない人は多いと思います。

 

もちろん、「消費税率の引き上げ」を決めたのは安倍さんではありません。

「財政」に占める「公共事業費」の割合も大きくはありません。

 

が、これは、「整合性」の問題、というか、説明に「納得できるか」という問題です。

 

 

 

投資家や大企業は、「アベノミクス」の恩恵を受けています。

 

「経済活動」をするうえで、さまざまな「制約」が取り払われたからです。

 

また、政府が、「円安」を誘導してきたことも、メーカーなどの企業の追い風になりました。

「円安」は輸出企業に有利に働くからです。

 

多くの企業が収益をアップさせ、株価も上昇しました。

 

しかし、投資家や大企業からの税収が増えているわけではありません。

さまざまな「租税回避」が可能となっているからです。もちろん、それは「合法」ですが、「収益に見合った納税」をしていない、とみることもできるわけです。

 

 

つまり、「アベノミクス」によって、投資家や企業の経済活動は活発になったわけですが、「財政」の状況がよくなっているわけではないのです。

 

 

それで、「消費税率の引き上げ」です。

 

 

 

「雇用状況」がよくなっているのは、「アベノミクス」の成果であると説明されます。

 

失業率が下がり求人倍率が上がりました。特に、大学の新卒の「就職活動」が、完全な「売り手市場」になっていることが大きな話題になっています。

 

しかし、これは割と単純に、団塊世代がリタイアして、企業が「人手不足」になっていることが主な原因です。団塊世代が、「定年→(嘱託→)退職」を迎えるタイミングが訪れたわけです。

 

少し補足すると、いくつかの企業では、給与の高いベテラン社員が退職し、若い社員の割合が高くなったために、人件費が下がり、利益が出やすくなっているわけです。

 

 

他にも、「人件費」を抑える方法がいくつかあります。

企業は、「正社員」の比率を下げることで「支出」をカットすることができます。

また、低賃金で働いてくれる外国人労働者を雇うことができます。

さらに、「物価」が上昇しないので、平均賃金の上昇も抑制できます。

 

企業で働く「中低所得層」の収入が増えているわけではないので、「インフレ」が誘導されません。

 

「アベノミクス」は「好景気」をもたらしている、と広報されているわけですが、現実的に、この数年、日本社会全体の「生活水準」が上がっているとはいい難いと思います。

 

 

それなのに、「消費税率の引き上げ」です。

 

 

 

少し嫌味ないい方をするならば、「お金持ち」から税金を集めずに、税収が足りなくなり、仕方がないので「みんな」から徴収する、という感じでしょうか。

 

 

消費税率が引き上げられ、東京オリンピックが終わった後の日本を想像すると、けっこう怖いものがあります。

 

 

日本は資源を持たないので、「ものづくり」の国を目指しました。

日本の「ものづくり」は高く評価されて、工業先進国となりました。

しかし、もはや、後発の国々に完全にキャッチアップされています。

 

現在、日本のメーカー企業の業績がいいのは、政府が、「税と為替」の支援をしているからです。

こうした「ドーピング」が効かなくなったときに、日本の企業は競争力を発揮できるのでしょうか。

 

 

 

「アベノミクス」には、ちょっと「あやふや」なところがあって、危うい部分がります。

 

たまに「アベノミクス」の問題点を指摘する「声」を聞くこともありますが、オープンに議論する人はあまりいないように感じます。

 

反面、安倍さんは、けっこういろいろな「人格攻撃」にさらされていますが。

 

 

テレビや雑誌などで活躍する「識者」は、どちらかといえば「アベノミクス」の恩恵を受ける側であることが、その理由の1つかもしれません。

 

テレビ局などは「典型」ですが、下火となりつつある産業であるにもかかわらず、「業績」は上がっているわけです。

 

また、安倍さんの支持者は、「経済政策」よりも「外交」や「防衛」に興味がある人が多いことも原因かもしれません。

 

 

「マスコミ」や「野党」の人でも、「おいしい思い」をしている人は、 「やぶへび」になりそうな「余計はこと」は決していわないわけです。よくわからない人も、やっぱり何もいわないわけです。

 

 

ついでにいうと、「働き方改革」や「教育無償化」にもいろいろな問題点がありそうです。

もっと議論するべきだったと思いますが。

 

ああ、何か、いろいろありましたね。

 

 

 

ところで、「増税」を主導したのは、いうまでもなく財務省です。

 

 

ああ、あの省庁。

 

 

官僚たちの説明を聞いて、政治家は「増税やむなし!」という結論になったわけですね。

 

 

それにしても、その説明、「本当」ですか?

 

 

 

(ivy 松村)

 

 

政治の話⑧(「派閥」)

現在の自民党を支える「三鼎」は、以下の3派閥です。

 

・「清和会」系「細田派」

・「宏池会」系「岸田派」

・「経世会」系「竹下派」

 

 

自民党総裁であり、内閣総理大臣でもある安倍さんは、「細田派」の出身です。

 

「細田派」の正式な派閥名称は、「清和政策研究会」ですが、「清和会」と表記して話を進めていきましょう。同じく、「岸田派」は「宏池会」、「竹下派」は「経世会」と表記します。

 

 

少し補足ですが、その他、自民党内には「麻生派」、「二階派」などの派閥があります。

 

「清和会」に次ぐ大勢力の「麻生派」は、「宏池会」の流れをくむ派閥ですが、派閥の会長である麻生さんは、安倍政権を支える閣僚でもあります。

 

「二階派」の会長であり、また、自民党幹事長でもある二階さんは、もともと「経世会」出身の政治家で、「根回し」や「調整」を得意とします。ある意味で、二階さんはもっとも「経世会」的な政治家であるといえるかもしれません。

 

 

 

さて、安倍さんの出身派閥である「清和会」ですが、ときに皮肉交じりに「保守傍流」と呼ばれることがあります。

 

他の「宏池会」と「経世会」は、日本の戦後政治の礎を築いた吉田茂の系譜に連なる「名門派閥」です。

2派閥は、ある種の自負心から、自分たちを「保守本流」であると称しました。おのずと「清和会」は、「保守傍流」という位置づけになるわけです。

 

 

しかし、最近20年ほどの間、「清和会」は常に自民党の「主流派」を構成してきました。

その間、自派閥から、森喜朗、小泉純一郎、安倍晋三(第一次)、福田康夫、安倍晋三(第二次)の「5人」を総理大臣に排出しました。

 

「傍流」などと皮肉られてきた「清和会」ですが、現在は、名実ともに保守政権の「中枢」を担っているわけです。

 

 

また、「清和会」は、政治評論家などに「タカ派」と呼ばれることがあります。

「タカ派」というのは、強い保守的傾向を示す「政治用語」です。

 

一方、「宏池会」「経世会」は、自民党内の「ハト派」であると位置づけられることがあります。

 

一般的に、ハトという鳥は「平和の象徴」であるとみなされることから、「ハト派」というのは、平和主義的な穏健派、を指すものであるとされています。

 

反面、「タカ派」というのは、強硬的、武断的な政治姿勢を暗示し、どちらかというと、悪い評価であるとみなされます。

 

 

「清和会」という派閥は、かつては「保守傍流」、「タカ派」などと「揶揄」される対象だったわけです。

 

 

 

80~90年代は、「清和会」にとって不遇の時代でした。

 

2000年代に入り、特に小泉さんの「登板」を契機として、「清和会」は「最盛期」を迎えます。

 

小泉さんは、古い自民党の「構造」を壊して、党組織を刷新しようとしました。

「派閥」を失くそうとしたのです。ところが、その後、「派閥」が復活し、「清和会」が自民党内の「主導権」を保持し続けました。

 

現在、自民党内にいくつかの派閥が存在していますが、総理・総裁を擁する「清和会」の発言力は、強大です。

 

ある意味で、「自民党全体」が「清和会」に染まりつつあるといえるのかもしれません。

 

つまり、「自民党全体」が「タカ派」的な色彩を強めているわけです。

 

 

 

「清和会」の最大の特徴は、「親米」です。

 

歴史的に「清和会」は、アメリカ合衆国との「連携」を深めてきました。

 

別の面からいうならば、「清和会」の政治家は、基本的に、米国の利益を損なわないような政策を実施してきました。

 

 

小泉さんは、アメリカ合衆国大統領だったブッシュさんと緊密な関係を築きました。

 

安倍さんは、オバマさんの対日不信を払拭しました。

安倍さんは、また、今、トランプ大統領との「関係」を強化しつつあります。

 

 

 

ついでに述べると、「清和会」は、かつては韓国とも「太いパイプ」でつながっていました。

 

冷戦下、日本、米国、韓国は、資本主義の同盟国として、協調して社会主義に対抗する必要があったわけです。

 

ところが、韓国が「民主化」され、冷戦が終結したことで、韓国国内の政治状況が大きく変化しました。

北朝鮮に対して宥和的な「左派」の政治勢力が台頭しました。

 

90年代後半から、韓国は「右派」と「左派」が交互に政権を取り合います。

 

「振幅」の激しい政治状況で、両者ともに共振することができたのが、「反日」だったわけです。

 

さらに近年、韓国は中国への経済的依存を強め、「親中反米」に傾斜しました。これは、厳密には「親北反米」工作です。

 

 

つまり、日本が米国との関係を強める一方で、韓国は、日米との距離を広げていったわけです。

 

 

あまり話題に上ることはありませんが、安倍さんのお父さんは、安倍晋太郎さんという方で、「清和会」のリーダーでした。安倍晋太郎さんは韓国に「コネクション」を持つ「親韓派」の政治家として知られました。

 

 

 

「清和会」の話の続きです。

 

ちょっと俗な直言をすれば、「清和会」の「バック」には、アメリカがいるというわけです。

 

したがって、他の政治勢力は、アメリカ以外の国との「連携」を模索します。

 

「経世会」は、中国に接近しました。(が、歴史的に、中国と「太いパイプ」を構築したのは、小沢一郎さん、二階俊博さんなど、「経世会」から離脱していった人たちでした。)

 

そして、「保守本流」を自認する「宏池会」ですが、80年代に入って以降、急速に「リベラル」色を強めました。中国や韓国に対して、さまざまな面で配慮や歩み寄りを行いました。

 

 

 

90年代までの日本では、「反米」というような政治的立場をとる人たちが、一定の勢力を保っていました。日本は、米国への依存を脱し、「自主的な国」になるべきだという考えが根強くあったわけです。

 

つまり、「清和会」の「旗色」は、あまり良くなかったわけです。

 

しかし、2000年代以降、中国や韓国との間で「対立」が鮮明化しました。また、ロシアが国力を高めましました。北朝鮮の問題もありました。

 

日本は、やはりアメリカとの関係を強化するべきだという「世論」が高まったのです。

 

 

「清和会」が台頭するのは、ある意味で「必然」だったわけです。

 

 

「民主党」による政権奪取を経て、現在、日本は、再び自民党の政権下にあります。その「中枢」に座しているのは、やはり「清和会」です。

「民主党政権」は、「清和会」の「権勢」を決定づけたといえます。

 

 

 

現在、北朝鮮問題が「山場」を迎え、日米両国は強調して、事態に臨もうとしています。

 

しかし、実際には、安倍さんは、トランプさんに振り回されています。

 

「今」も、「土壇場」になって「アドリブ」が飛び出さないか、ひやひやしているかもしれません。

 

 

トランプさんは、アメリカ合衆国の歴史の中で、特異な大統領です。トランプさんは「ビジネスの世界」と「テレビの世界」で活躍してきた人で、本来「政治の世界」の人ではありません。

 

つまり、自民党「清和会」が、長い年月をかけて築き上げてきた「パイプ」を使って「意見」や「利害」を調整することができない相手であるということです。

 

 

トランプさんは一般的な政治の文脈や、国際政治の慣例などを無視して、予想外の行動に出たり、突発的な発言をしたりします。

 

それは、政治家としてありえない短慮な言動だったり、感情的なリアクションだったりすることもありますが、ときとして、それは、「ビジネス」の経験をもとにしたトランプさんの「交渉術」の一端であるわけです。

 

 

表面上、安倍さんとトランプさんは、非常に友好的な関係を築いているように見受けられますが、実際には、海千山千の「ビジネスマン」は、「自分の利益」を冷徹に見積もっているでしょう。

 

日本の「顔」を立ててやれば、「見返り」を要求できる、と考えているかもしれません。

 

 

 

アメリカ合衆国に、日本の「国益」の一部が流出することに対しては、「世論」は一定の理解を示すと思います。回りまわって、日本に一部の「利益」が還流することもあります。

 

しかし、朝鮮半島情勢に日本が関与しなければならなくなるとすると、「世論」の反応は大きくなるかもしれません。

 

 

安倍さんは、米国との関係を強化する一方で、周辺国に対して譲歩しないことで支持を集めてきました。

ところが「これから」は、「それぞれ」を「別々」に対処することができなくなるかもしれないわけです。

 

 

(ivy 松村)

 

 

政治の話⑦(「ブーメラン」)

近年「リベラル」の「空回り」が目立ちます。

 

それは、多くの「リベラル派」の人たちが、自分たちの「状況」を正確に把握できていないことが根本的な原因です。

 

大きく4つの点で、「リベラル派」の人たちは「勘違い」をしています。

 

 

1つ目は、自分たちの主張は「論理的である」と考えている点。

 

2つ目は、自分たちは「正義である」と考えている点。

 

3つ目は、自分たちは「支持されている」と考えている点。

 

4つ目は、自分たちの方法論は「効果的である」と考えている点。

 

 

 

まず、1つ目です。「リベラル」が、自分たちの主張は「論理的である」と考えている点です。

 

「リベラル」は、原理的に「パラドクス」を抱え込む「思想」です。

 

とはいっても、それは、その「思想」が質的に劣っているという意味ではありません。

地球上のほとんどすべての思想や価値観の体系は、なにかしらの矛盾を内包しています。科学、という営みでさえ、そういった指摘を免れないでしょう。

 

問題は、そのことを軽視、あるいは、無視していることです。または、そのことに無自覚であることです。

 

思想の「核心部分」に逆説を抱えているわけです。本来ならば、整合性や正当性を突き詰めなければならないはずです。

 

ところが、何人かの「リベラル」の言論人は、無邪気に、自分は、誰もが納得するべき理知的な考えを、朗々と言い聞かせているのだ、と信じ切っています。

 

論理に齟齬があるのに、理論構築をしたり理論武装したりすることなく、放置しています。

 

小手先の理屈で言いくるめられると思っているわけです。

 

ある意味で、「世間」をみくびっています。

 

 

「もりかけ」などの一連の問題で、「世論」を巻き込むことができないのも、「論理の欠如」があるからです。

 

 

 

2つ目です。「リベラル」が、自分たちは「正義である」と考えている点です。

 

現代の「リベラル」のエッセンスを一言でいえば、それは「弱者を助けよう」という「善意」です。

その情動は、尊いものです。

 

しかし、何人かの「リベラル」の言論人は、自分は道義的に正しいことをしていると信じ切っているために、別の考えをもつ人を、反射的に「不道徳」であると考えてしまいます。

 

そのために、何人かの「リベラル」の言論人は、「道義的高み」から、高説を説くがごとく弁舌を奮います。

 

威勢よく強い言葉で「相手」を論難するのは、当人は充足した気分になるでしょうが、それをはた目でみている人は、良い印象を持たないかもしれません。

 

 

また、自身を絶対的な「正義」であるとする考えは、言動に歪を生み出します。

しばし人間は、「大儀」のために、「小さな不義」はやむを得ない、と考えがちです。

 

 

もう一点指摘します。「リベラル」の大きな特徴のひとつは、「道徳性」を、政治的に重要な争点であるとみなす点です。

 

もちろん、自分たちの政府を、「精神的に」信頼できるかどうか、というのは重要なことです。

 

しかし、自らが「道徳性」を持ち出した以上、自身にも「道徳性」が突きつけられてしまうわけです。

 

昨今、「ブーメラン」という俗語が日本の政治の文脈に定着しつつありますが、それは、まさに現代日本の「リベラル」の「現状」を、過不足なく物語っています。

 

 

 

3つ目です。「リベラル」が、自分たちは「支持されている」と考えている点です。

 

「リベラル」は、自分たちは正しいことを言っていると自認しています。

したがって、分別を持った人々は、「実際には」自分たちを支持しているはずだ、と考えがちです。

 

今、劣勢に立たされていても、「うまいやり方」をすれば、「支持」が戻ってくると考えるわけです。

 

 

その「驕り」は、判断を狂わせています。

間違った現状認識のもとで方針を決めたり計画を立てたりするために、思いどおりの「結果」が得られません。

 

 

また、「リベラル」が、オールドメディア、つまり、「マスコミ」に依存する傾向が強いことも、「世論」を読み誤る原因となっています。

 

日本社会は、すでに「インターネット」の影響力がオールドメディアを凌駕する時代に突入しています。

 

しかし、「リベラル」は「インターネット」に対する「不信」に囚われてしまっているために、「インターネット」を有効に活用する路線を打ち出せません。

 

 

先日の世論調査で内閣支持率が上昇しましたが、安倍政権に対する「リベラル」の認識と「世論」の「乖離」は、ある種冷酷な「現実」を突きつけます。

 

「リベラル」の言論人の中には、安倍政権の支持率が下がらない今の世の中はおかしい、と考える人もいます。

 

人間社会に「不条理」が蔓延していることを否定するつもりはありませんが、眼前の「現実」と向き合わなければ、「リベラル」の低落に歯止めがかかることはないでしょう。

 

 

 

4つ目です。「リベラル」が、自分たちの方法論は「効果的である」と考えている点です。

 

日本の社会も日本の政治も「新しい時代」に入っているのですが、「リベラル」の「方法論」は旧来のままです。

 

「成功体験」に固執して、同様の手法で「政治闘争」を繰り返しますが、それは機能しなくなっているのです。

 

「相手」の「人間性」を問題にして、政策や人事の批判につなげ、それを撤回させたり譲歩させたりするやり方は、一昔前には非常に有効でした。

 

しかし、現在はむしろそういった手法は「逆効果」になりつつあります。

 

また、テレビや新聞、週刊誌などのオールドメディアと連携して、「世論」を喚起する方法も、効果が薄れています。

 

「大騒ぎ」をして、さも「相手」が「とんでもないことをやらかした」ということを喧伝するような立ち回りは、もう、見切られています。

 

 

ついでにいえば、世論調査などで、「もりかけ問題」を追求すべきだ、という回答が7割くらいあって、それで、意気盛んになって「もりかけ」に邁進するのも大きな錯誤です。

 

はっきりいってしまえば、ほとんどの日本人は、もう、「もりかけ」に興味がありません。興味のない人間に聞いているわけです。興味のない人間は、質問者が望んでいる回答を汲み取って、「そう答えてあげる」わけです。

 

それで、「もりかけ」が立ち消えになるのは、よいか悪いかといえば、あまりよくないとは思いますが、しかし、「そうさせた」のは「もりかけ」に執心している人たちです。

 

 

 

総じていえば、「リベラル」には、いまだに「過信」があります。

 

それが「リベラル」の低落をもたらしています。

 

 

(ivy 松村)

 

 

 

政治の話⑥(「排除の論理」)

東京都知事の小池さんが立ち上げた希望の党は、とうとう「解党」してしまいました。

希望の党と民進党が「合流」し、国民民主党が立ち上げられました。

 

 

昨年の秋の衆議院選挙で、躍進すると目されていた希望の党は、選挙戦の中盤に入って、急失速し、「惨敗」を喫することになりました。

 

それは、世間一般に、「排除発言」が原因であると考えられています。

 

しかし、実際には、希望の党の「敗因」は「排除発言」ではありません。

 

 

むしろ、「排除しなかったこと」が原因でした。

 

 

 

「排除」という言葉が大きくクローズアップされてしまったために、大きな勘違いが広まっています。

 

小池さんは、当時、党組織の「収容力」と「処理能力」を大きく超える、限界以上の人数に公認を出しました。

 

小池さんは、多くの「リベラル系」の民進党員を受け入れたのです。

それが、その後の希望の党の迷走の大きな原因になるわけですが、混乱が引き起こされるリスクを背負って、「リベラル系」の候補者を合流させたのです。

 

 

それは、「数」が必要だったからです。

 

小池さんは、総理大臣の椅子を狙っていたと思います。

そのために、自身の政党である希望の党所属の衆議院議員の人数をできる限り増やしておく必要があったわけです。

 

小池さんは、「保守系」の政治家で、自民党出身です。

おそらく、小池さんは、一定数の議席を確保したうえで、自民党内の「反主流派」や他の「保守系」の議員とうまく連携できれば、連立内閣を成立させることができると考えたのではないかと思います。

その「流れ」の中で、自身が衆議院議員に「くら替え」する機会を見定めようとしていたのかもしれません。可能であれば、自身も即座に衆議院に立候補、無理であれば、いずれかのタイミングで再度政局を仕掛ける、というような算段だったのかもしれません。

 

 

 

小池さんは、国会内で自身の影響力を確保するために、政治的な考えがまったく違う大勢の「リベラル系」の政治家を飲み込んだわけです。

 

したがって、「排除した」と非難されるのは、かなりの「見当違い」だといえます。

 

 

小池さんが「惨敗」を喫してしまったのは、むしろ、そのために「保守層」の支持が離れてしまったからです。

 

「ここ」の分析を誤ってしまうと、野党も、そして与党も、今後、選挙で同じような失敗をしてしまうでしょう。

 

 

 

直前まで、小池さんが選挙で無類の強さを発揮することができたのは、コアとなる「保守層」の支持に加えて、幅広い層からの支持を取り込むことに成功したからです。

 

実は、「改革派の保守」というのは、現代の日本で最も訴求力のある政治家像です。

 

小池さんは、非常にうまくメディア戦略を展開し、期待される政治家のイメージを具現化しました。

小池さんが「世論」の安定的な支持を得ることができていたのは、「守旧勢力」と対決しながらも、「リベラル」に対して毅然とした姿勢を見せていたからです。

 

 

しかし、昨年の衆議院議員選挙では、「数」を得るために、これまで堅持していた姿勢を崩し、「リベラル」の勢力を党内に取り込みました。

 

そのために、自身の人気の「基調」であった「保守層」の支持を手放すことになってしまったたわけです。

 

 

 

小池さんには、いくつかの「計算外」がありました。

 

そのうち、もっとも大きなものは、当時の民進党の代表だった前原さんの「振る舞い」でした。前原さんが、民進党の候補者「全員」で希望の党に合流することを目指したために、小池さんは、「リベラル色」の強い「左派」の政治家は受け入れない、と「宣言」する必要に迫られたわけです。

 

前原さんは、旧民進党に所属していましたが、「保守系」の政治家です。したがって、小池さんとは政治的な考えが近い政治家です。そのために、「合流話」がうまくまとまったわけですが、当然、「左派」の政治家を受け入れないということも、含意されていたはずなのです。

実際、前原さん自身は党内「左派」の対応に苦慮していました。

 

かなり大掛かりな政局工作が仕掛けられたわけですが、2人は、自民党に対抗する「保守の第二極」を作るという目的で、一致したのだろうと思います。

 

 

ところが、前原さんは、党内の「合意」を得る過程で、にわかに「情緒的」になってしまい、「左派」を「切る」ことを明言するのを躊躇してしまいました。

 

前原さんは、党員に対して、誰が合流を許可され、誰が許可されないのか、さも小池さんの一存で決まるかのように説明してしまったのです。

 

そのうえで、「全員が合流できる可能性もある」というような、その場しのぎの言葉で、いうなれば、まさしく「希望」というものを、「全員に」与えてしまったのです。

 

それは、なかなか強烈な皮肉です。

 

恐らく本当は、前原さんには、党員たちの「運命」が見えていたはずです。

 

 

ただ、私は、個人的には、少しばかり前原さんに同情する余地はあると思っています。

 

喉元過ぎれば熱さを忘れる、ということなのか、多くの人はたった数か月前のことを忘れ去っていますが、衆議院の解散が決まったとき、民進党は、異常な空気に包まれていました。

あのまま選挙に突入していれば、民進党の崩壊どころか、日本から「リベラル」が駆逐されていてもおかしくなかったわけです。それは、当事者である民進党の議員のほうが、よりリアルに理解していたはずです。

後日、前原さんは、希望の党に合流できなかった「左派」の候補者から非難を浴びましたが、「左派」の政治家が、自身の政治信条と小池さんの政治信条を照らし合わせて、同じ政党に所属できると本気で考えていたとするなら、ずいぶん面の皮が厚い、と思います。

 

 

 

さて、何度も言及しているように、小池さんは「保守系」の政治家です。

「リベラル」の政治家とは、政治に対する考え方が大きく違うわけです。したがって、「リベラル」の政治家を受け入れない、という判断は、極めて合理的なものです。

 

 

ところが、「排除発言」は、非常に大きな「非難」を浴びることになりました。

 

 

「排除」という言葉に過敏に反応したのは、「リベラル系のマスコミ記者」でした。

「排除」という言葉が、「リベラル的価値観」を強く刺激したのかもしれません。

 

 

「排除発言」が、「世論」の逆風を招いた、というのは、一般的に信じられている「マスコミ」のロジックですが、実際には、別の「原理」が働いて、希望の党は失速したわけです。

 

 

希望の党は、あてにしていた「保守層」の票を失ったのです。

 

 

さらに、失った票があります。それは、立憲民主党に流れました。

 

 

先の衆議院議員選挙では、立憲民主党は、「リベラル」の票に加えて、希望の党から流れてきた票を得ることができました。

 

 

立憲民主党を浮上させたのは、その、ある特殊な「票」の集まりです。

 

日本の選挙の特徴のひとつは、「信条」ではなく、「心情」で投票する有権者が一定数いることです。

政党や政治家の公約や実績ではなく、その候補者を「応援したい」という気持ちに突き動かされて、投票する「人情票」が存在します。

 

 

今回、立憲民主党に投票した一部の層は、その前の都知事選では、小池さんに投票したでしょう。

その層は、政権交代をしたときの民主党に投票したでしょう。

その前は、小泉さんに投票したでしょう。

 

 

つまり、そのときそのときの選挙で、「その候補者が当選したら面白そうだ」あるいは「その政党が勝ったら痛快だ」というような「感情」にもとづいて投票するわけです。

 

 

「人情票」は「無党派層」と混同されがちですが、立候補者の身の上や人物像に対する「好感度」、あるいは、対立候補に対する「嫌悪感」が投票の「動機」であるという点で、観点が異なります。

 

 

「人情票」は、「数」としては限定的ですが、まとまった票が一斉に動くので、条件が合わさって発動したときには、「劇的な結果」に繋がりやすくなります。

 

 

前回の選挙で、立憲民主党が躍進しましたが、これを「額面どおり」に受け取るのはとても危険だと思います。先の衆議院選挙では、様々な「フィルター」が作用したことが、「票」に結びつきました。

 

もし、今、選挙になれば、かなり深刻な状況になってしまう可能性があります。

 

 

 

それにしても、「一寸先は闇」という言葉がありますが、政治の舞台も、明日をも知れない世界です。

枝野さんが再び表舞台に立ち、小池さんは挫折しました。

 

 

なぜ、小池さんは「あのタイミング」で勝負をかけたのか、いろいろ考えます。

 

もし、「あの選挙」のとき、「党勢の拡大」ではなく、「堅実な足固め」に徹していれば、今、小池さんは、「最大のチャンス」を迎えていたはずです。

自民党内の「反主流派」と一部の野党勢力を結集して、「首班指名」を実現できたかもしれません。

 

もちろん、ただの「結果論」に過ぎませんが。

 

 

これは、まったくの個人的な想像ですが、小池さんの政治家としての「原風景」に、1993年の「政変」が刻印されているのかもしれません。

 

この年、戦後の日本政治を独占し続けた自民党を打ち倒し、細川内閣が成立しました。

小池さんは、細川さんが率いた日本新党の一員として選挙を戦い、日本の政治史にエポックを刻んだのです。

 

あのときの「熱」が、小池さんを突き動かしていたのかもしれません。

 

それから、これも単なる想像ですが、アラブ諸国で連鎖的に起こった政治運動、「アラブの春」に政治家として感応したのかもしれません。小池さんは、アラブ世界に通じた稀有な政治家でした。

 

 

 

いずれにしても、小池さんの「関ヶ原」は終わりました。

 

 

小池さんには、ぜひ都政を良いものにしてもらいたいですね。

オリンピックもありますし。

 

 

その一方、国民民主党は、どうなっていくのでしょうか。

 

 

 (ivy 松村)

 

 

政治の話⑤(「多様性」)

「多様性」というものが良いことである、という観念は、極めて現代的なものです。

 

第二次世界大戦後、「秩序」や「同質性」、「整然とした社会」のイメージは、ファシズムや軍国主義と深く結びつけられ、悪質なものであるとみなされるようになりました。

 

また、前世紀の後半には、個人の「主体的な生」を抑圧する古い社会因習を打破し、個人は、多様な人生のありかたを自由に選択するべきなのだという考えが広まりました。

 

これが「リベラル」の思想的ルーツです。

 

20世紀をとおして、「多様性」は社会の理想的なあり方を示す「キーワード」であるという認識が強められました。

 

現代、「多様性」という概念は、あらゆる「社会思想」においても「重要な位置」を占めているといえます。

 

しかし、ここ数年、「多様性」を重視すべきであるという考えが深く浸透したはずの「先進国」で、これに「逆行」するような動きが強まっています。

 

 

「多様性」について、少し考えてみましょう。

 

 

 

「多様性」が「有益なもの」であるという「見解」は、社会科学的な観察や考察の中から生まれたものではありません。

 

おそらく、生物学的な所見がその基底にあります。

 

よく知られているように、「生態系」における「生物の多様性」は、「自然環境」に強度をもたらします。

 

 

社会学という学問の中に、「社会有機体説」、「社会システム理論」といった考え方があるのですが、これらは、生物学をベースにしたものです。つまり、社会学は、古くから生物学に着想を得てきたわけです。

 

「多様性」を「社会的概念」として導入することは、少なくとも社会学にとってはまったく「自然な発想」であったといえます。

 

 

生物学的な知見に重ね合わせるように、「人間社会」にとっても「多様性」が重要であるという考えが、広く普及しました。

 

 

「多様性」という概念は、本来「人間社会」を対象とした研究から惹起されたものではありません。

そのため、「人間社会」における「多様性」の議論には、いくつかの見落としがあります。

 

 

 

たくさんの種類の生物が生息する「生態系」のなかで、動植物は「共生」しているというように、説明されます。

それぞれの動物たちは、お互いに気を使いながら、仲よく、ほほえましく暮らしているというイメージを思い浮かべてしまいます。

 

しかし、実際には、それぞれの個体は、自分が生き延びるために、自分より弱い個体を捕食しようと五感を研ぎ澄ませ、常に機をうかがっているわけです。

弱い個体は、天敵に捕食されないために、神経をすり減らしながら逃げ惑っているわけです。

 

生物が多様であるということは、別の面では、生存競争が活発であり、苛烈であるということを示唆するはずです。

 

 

「生態系」の「実像」から切り離されて、多様な存在が「同居」しているという表面的なイメージだけが共有されるようになると、多種多様な個体が「弱肉強食」の世界でしのぎを削っているというような「リアリティ」が抜け落ちてしまうわけです。

 

 

 

「自然環境」における「生態系」という観点を持つとき、私たちは、自身を「生態系」の「外側」に置いています。したがって、自身を、その中の「多様性」を担う存在として認識していません。

 

一方、「社会」にとっての「多様性」を考えるとき、私たちは、その社会の構成員であるという前提に立ちます。自身は、「社会」の「内側」に置かれているわけです。

 

 

 

「生態系」に「多様性」は必要か、と問われて、「否」と答える人は、まれです。

自分の生活にとって、眼前の利害と関係しない「議題」を否定する意味はありません。

 

ところが、「社会」に「多様性」は必要か、と問われれば、それは、たちまち複雑な「議題」となり変わります。

 

 

「社会的な多様性」について考えるとき、人は、自分自身が帰属する「コミュニケーションの地平」に「他者」を受け入れるべきかどうか、という「現実」と向き合わなければならなくなるからです。

 

自分の帰属する社会あるいはコミュニティに「他者」が参入することが、自分にとって「プラス」になるという立場の人は「賛成」するでしょう。

 

逆に、それが「マイナス」になるという立場の人は「反対」するでしょう。

 

 

 

「多様性」に恩恵を受けている人は、これを肯定します。

 

「多様性」の恩恵を受けやすいのは、上位の社会階層に帰属する人です。

 

たとえば、大学のような研究機関や多国籍企業は、多様な地域から有能な人材を集めます。

「開放的」な組織に属し、「多様な背景」を持った優秀な同僚、上司部下と接する機会の多い人は、「多様性」の素晴らしさを享受します。

 

また、研究者は、世界中の研究者と交流する必要があります。企業は世界中で取引を行い、世界中で製品を売る必要があります。グローバル化を推し進める組織の中では、閉鎖的な思考が育まれる余地はありません。

 

さらに、スポーツ選手、芸術家、音楽家、俳優、作家等も同様の視点を持つ人が多いでしょう。

 

 

 

ここで、私たちは、現代社会において「多様性」が「社会」にとって良いものであるとみなされていることを思い出します。

 

一般的に、「多様性」を否定することは不見識な行為であるとみなされます。

「他者」を快く受け入れる寛容な心を示すことが、優れた「人間性」の証であると考えられているわけです。

 

そこで、私たちは、公に「多様性」を否認するようなことを慎むわけです。

 

そして、「多様性」を否認していると受け止められるような誰かの言動に触れたとき、即座にこれを咎め、抑え込もうとします。そうすることで、自分自身の器量を誇示することができるわけです。

 

 

 

ひとつの、捨て置かれている「視点」を指摘することができると思います。

 

すなわち、全員が、というつもりはありませんが、少なくとも一部の「多様性の守護者」は、「多様性」を肯定することで、自尊心を満たしているのだ、といえるわけです。あるいは、自身の人格の高潔さを世間に知らしめようとしているのだ、といえるわけです。そして、多くの場合、「彼ら」は「安全な場所」にいます。しかも、そのことに無自覚です。

 

 

 

さて、今の時代に、「多様性」の「神話」を疑う声が広がりつつあります。

 

多くの国で、社会的な葛藤が引き起こされています。

それは、ある意味で、社会階層間の相克でもあるわけです。

 

それはまた、その国の社会の「分断」が進行していることを物語っています。特に顕著なのが、アメリカ合衆国です。

こうして、ひとつの社会の中で、それぞれの人々が、別々の「地平」を生き、別々の「社会観」を持つわけです。

 

 

これはある意味で喜劇、同時に悲劇です。

 

 

皮肉なことに、「多様性」に否定的な人は、「同質的な社会」を希求しながら、その意思を「同胞」に否定されるわけです。

 

「多様性」に肯定的な人は、「排他的な人たち」よりも「多様な背景を持つ人々」との親交を大事にします。

 

 

さらに、皮肉なことに、「多様性」に肯定的な人は、「多様性」を否定する人々の存在もまた、「多様性」の一部である、という単純な事実に気づきません。

 

 

「多様性」を否定する人々を否定することは、「多様性」を否定することになるわけですが…。

 

 

 

 

 (ivy 松村)

 

政治の話④(「マスコミ」)

安倍内閣の実質的な「ナンバー2」である麻生財務大臣と「マスコミ」の記者の対立が先鋭化しています。

 

麻生大臣が担当する財務省は、「一連の問題」の「震源地」となりました。

 

一部の記者が麻生さんに刺激的な質問を浴びせ、それに対して、麻生さんは歯に衣着せない辛辣な口調で記者に「反論」する様子が、テレビや新聞に度々取り上げられています。

 

 

麻生さんは、先の総理大臣時代に、自らの発言を「マスコミ」に何度も悪意的に取り上げられた苦い経験があります。

マスコミの「キャンペーン」と、いわゆる「リーマンショック」などによる世界的な経済危機への対応に苦慮し、麻生政権はじりじりと追い詰められました。

 

麻生さんには「マスコミ」に対する、大きな「遺恨」があるわけです。

 

 

一方、「マスコミ」にとっては、麻生さんは「旧弊」を絵に描いたような横暴で独善的な政治家に映ります。

一部の「マスコミ」の記者は、是が非でも麻生さんから「失言」を引き出し、それを政権批判に結び付けようと躍起になります。

 

第二次安倍政権が発足した後も、閣僚となった麻生さんの「失言」は何度も「マスコミ」で取り上げられました。

 

しかし、それは、政権に、大きな「ダメージ」を与えていません。

 

「マスコミ」は、さらに必死になって麻生さんの「失言」を大々的に取り上げますが、思ったように「世論」を喚起することができません。

 

 

 

いまや、麻生さんが総理大臣だった「10年前」とは違います。状況が劇的に変化しています。

 

完全に「潮目」が変わり、「失言」のような小手先の「陥穽」で、政権を追い落とすことができるような時代ではなくなっているのです。

 

 

もちろん、許されてはならない言語道断の「問題発言」をする政治家がいます。社会的に認められはない発言をしてしまった政治家は、その責任のありかたを問われるべきです。

 

過去に、何人もの国務大臣が、呆れるような「舌禍」をさらし、更迭されました。

 

 

しかし、特定の政治家を追い詰めるために、文脈から切り離された「一部の発言」を糾弾するような手法は、もはや実効性が無くなりつつあります。

 

「そういった手法」が効果的でなくなったばかりか、むしろ「そういった手法」が即座に見ぬかれ、逆に非難を受ける時代になったわけです。

 

 

 

「世論」への「マスコミ」の影響力が弱まっているのは、「マスコミ」の報道に対する「不信感」が高まっているためです。

「マスコミ」の報道は公平中立ではなく、強いバイアスがかかっていると、知られるようになりました。

 

特に「インターネット」は重要な役割を担いました。

 

 

一部の「マスコミ」は、いまだに「インターネット」の影響力を軽視しています。

 

 

「インターネット」の「プラットフォーム」には、あらゆる「個人」、あらゆる「組織」から多面的な情報が集積されます。また、そこから、広範に情報が拡散されます。

 

 

「人間」を軽んじている人間は、より多くの人間が介在すれば、信用できない情報があふれることになる、と考えます。しかし、実際には、「その反対」が優位となります。

 

つまり、多くの人間が介在することによって、より論理的でより整合的な情報が選択され、拡散されるのです。

 

「マスコミ」に限らず、多くの「識者」は、「インターネット」の「多参性」というものを過小評価しすぎていると思います。

 

 

どこの誰が発信したのかわからない情報は、確かに存在します。なかには、それを無条件に信じる人もいるでしょう。

しかし、「インターネット」の利用者の多くは、「どこの誰が発信したのかわからない情報」であるからこそ、その情報が信用できるかどうかを示す「根拠」を重視します。

 

いわゆる「エビデンス」というやつですね。

 

 

(それとも、単純に、情報を使って人々を扇動しようとする人間ほど、他人も同じように、情報を使って人々を扇動しようとするはずだ、と考えるのかもしれません。)

 

 

 

これまで、「マスコミ」はその強大な「影響力」を集約的に動員することで、「ここぞ」という場面で政治状況に「加担」してきました。

安倍さんも麻生さんも、過去に、煮え湯を飲まされてきました。

 

しかし、現代、「マスコミ」は、政治を左右する力を失いつつあります。

 

その事実は、「マスコミ」に強烈な焦燥感をもたらしています。

 

 

 

財務事務次官が辞任に追い込まれた問題は、「政治」と「マスコミ」の間に横たわる「溝」を、修復不可能な深奥としました。

 

当然、「リテラシー」を有した人は気づいていますが、これは、「表面的な問題」と「本質的な問題」が別、なのです。

「マスコミ」は、自身の体質を棚上げして、これを「倒閣」の材料に加えようと「決断」しました。その「報酬」として、政治家、官僚さらには財界人、学者、専門家、もっといえばジャーナリストも、「マスコミ」に過度に近づくべきではない、との共通の認識を持つに至りました。

特に政治家と官僚は、今後「マスコミ」と「深奥な距離」を保つように努めるでしょう。それは、どうしても合理的、常識的な判断であるといわざるをえません。

同時に、「マスコミ」の取材は、やはり「自制」すべきものになりました。

それが「マスコミ」の「要望」であるというわけです。

 

 

 

さらに、安倍政権と「マスコミ」の「確執」には、別の「根本的な要因」が存在することも指摘しておかなければなりません。

 

安倍政権は、新聞社とテレビ局の「特権」の廃止に向けて動き出しています。

具体的には、新聞社の税制上の優遇を撤廃し、テレビ局の「既得権益」を潰そうとしています。

 

「マスコミ」が安倍政権に対して闘争的なのは、自身の存亡が、政権の存亡と「背中合わせ」になっているからです。

さて、果たして、どうなることに、なるのでしょうか。

 

 

 

それにしても麻生さんの「マスコミ」に対する「攻撃的な態度」は、ちょっと気になります。

 

財務省の「公文書書き換え問題」は、麻生さんと熾烈に「やり合っていた」報道機関のスクープでした。また、その報道機関と関係の深い別の報道機関は、財務次官の問題にも関与していました。

 

これらの報道によって、麻生さんは財務大臣を辞任せざるを得ない状況に追い込まれる可能性がありました。

 

当初、私は、麻生さんの「ストレス」が言動にあらわれているのかもしれないと考えました。

 

しかし、その後、「一連の問題」が収束しつつあるにもかかわらず、麻生さんの「マスコミ」に対する姿勢は、あまり変化しませんでした。

 

 

もしかすると、麻生さんは、もはや「マスコミ」に対して「取り繕う必要はない」、と考えているのかもしれません。

 

 

あるいは、別の可能性もあります。

 

麻生さんは、秋以降、財務大臣ではなく、別のポストに就任するのかもしれません。

それは、もしかすると「党務」のほうなのかもしれません。

 

安倍さんは、果断に「人事の変更」をします。

安倍政権について、「お友達内閣」などと揶揄されることがありますが、安倍さんは、「抜擢」が多く、同時に「見切り」も早い政治家です。

 

(本当のところをいえば、「お友達内閣」という評論は、「リベラル」な人物を排除する安倍さんの姿勢を批判する物言いなのです。)

 

実は「大胆な人事」というのは、安倍さんの政治家としての「特徴」のひとつです。

(これは、個人的には、小泉さんの影響が大きいと思います。)

 

安倍さんの「人事」については、決断力があるともいえますが、同時に「情が薄い」と考える人もいるかもしれません。

 

 

安倍さんと麻生さんが二人だけで会合をしたというニュースを、けっこう気にしているのですが、どうなんでしょう。気になりますね。まあ、秋までに状況に変化があるかもしれませんし、今はわかりませんね。

 

 

 

 (ivy 松村)

 

 

政治の話③(「倒閣運動」)

国会の「攻防」が激化しています。

「正念場」となったこの2か月、数々の「問題」が矢継ぎ早に噴出し、「野党」の攻勢に拍車がかかりました。

 

 

「野党」には、この通常国会の会期中に、どうしても安倍政権に「致命傷」を与えておかなければならない「事情」がありました。

ある意味で、数々の「問題」は、そのために「用意されたもの」であるといえます。

 

 

 

秋に、自民党の「総裁選」が行われます。

 

もし、そこで、安倍さんが自民党の総裁に選ばれず、他の誰かが新しい自民党の総裁に選ばれれば、結果として、安倍政権は幕を閉じることになります。

新しい総裁が、内閣総理大臣に指名されることになるからです。

 

そうなれば、現在の日本の「野党」の「最優先の目的」である、「倒閣」が実現するわけです。

 

 

通常国会が終われば、国会は「夏休み」に入ります。

そうすると、「野党」が、安倍政権を直接攻め立てる機会は完全に失われます。

 

したがって、今このときに、安倍政権が危機的な状況を迎えているという「空気」を、大きくふくらませておく必要があったわけです。

 

 

 

「野党」にとって「政権交代」は、もはや現実的ではありません。選挙では、勝てる見込みがないからです。

 

そこで、自民党内で働く「力学」に刺激を与えることで、「安倍おろし」を実現させたいと考えているわけです。

 

 

現職総理大臣に対する「世論」の反発が盛り上がれば、自民党内で現職総理大臣の求心力が低下します。現職総理大臣が「トップ」のままでは、選挙に勝てなくなると考える党員が出てくるからです。

 

また、次の総理大臣の椅子を狙う自民党の政治家の活動が活発になります。

現在の「トップ」を追い込むことが、自分にとって「プラス」になるからです。

したがって、党内の「権力争い」が顕在化します。

 

 

「野党」にとって、自民党は倒すべき敵ですが、自民党内には、「同じ目的」を持った「敵の敵」がいるわけです。そこで、「野党」は、自民党内の実力者に、それとなく「呼応」を促し、安倍さんの失脚につなげようと考えます。

 

このような、他の政治勢力に対して協力関係を求める態度を、政治の文脈で「秋波をおくる」と表現します。

 

よくニュースを見てみると、「秋波」に反応しようとしている自民党の政治家がいることがわかります。ときに、自民党の政治家が、政権批判を行ったりすることがありますね。

 

 

 

現在の「与党」の最大勢力である自民党の「トップ」を決める「総裁選」は、総理大臣を決定する「プロセス」でもあります。

 

「野党」の、内閣に対する激しい攻撃は、自民党内部に揺さぶりをかけようという意図があるわけです。

 

 

 

この2か月の「攻防」は、戦後政治史に残るほどの無軌道ぶりをみせ、苛烈を極めました。

 

しかし、「野党」の目論見は、徐々に腰砕けになりつつあります。

 

現状では、安倍体制の牙城を崩すことはできないでしょう。

 

安倍さんは、非常に巧みに自民党をまとめています。

秋の「総裁選」では、安倍さんが再選される見通しが強まっています。

 

 

 

安倍さんの自民党内の「ガバナンス」が安定している理由をいくつか挙げることができます。

 

 

1つ目は、安倍さんの「選挙の強さ」です。

 

第2次政権以降、安倍さんは、都知事選、都議会選では苦杯を喫しましたが、国政選挙では、無類の強さを発揮しています。

 

国民人気の高い安倍さんが「総理・総裁」であれば、自民党の政治家は当選する可能性が高くなるわけです。

 

 

2つ目は、党の「執行部」の「集権化」が進んでいることです。

 

自民党では、かつて「派閥政治」が横行しました。

現在も「派閥」の枠組みは温存されていますが、もはや「派閥」単位で選挙を戦う時代ではなくなりました。衆議院で小選挙区制が導入されたことや政党助成法ができたことで、「執行部」(特に幹事長)が、公認や資金の分配などの権限を持ちました。

それによって、2000年代中ごろから、自民党は、ボトムアップ型の組織からトップダウン型の組織へと変貌しました。

 

 

 

3つ目は、安倍さんの「後継者」がいまだに頭角を現していないことです。

 

これは、同じように長期政権を担った小泉さんとは対照的です。

小泉さんはその執政期に、安倍さんを含め、多くの後継者候補を育てました。

 

 

 

そして、4つ目は、安倍さんの「トップ」としての資質です。

 

安倍さんは、他の政治家とは異質な「感性」を持った政治家だと思います。

それは、安倍さんの「キャリア」と関係しているように思います。

 

 

安倍さんは、世襲政治家でありながら、長い「下積み時代」を経験しています。また、当初は民間企業に勤めました。

 

安倍さんは、しがらみや固定観念にとらわれず、適材適所に人を配置します。人の能力を引き出す術を知っている人だと思います。言葉をかえるならば、人を使うのが非常に上手です。

安倍さんは、他の政治家とは一線を画した「組織論」を持っているように思います。

 

さらに、安倍さんは、類まれなコミュニケーション能力を持った政治家です。

折衝や交渉が非常に巧みで、社交性が豊かです。冗談や皮肉も上手です。

 

こうした「能力」は、天分なのかもしれませんが、その多くをサラリーマン時代や「下積み時代」に培ったのだろうと推察します。

 

 

また、安倍さんは、第1次政権時に大きな蹉跌を経験しました。

 

今の安倍政権には、多少の「揺さぶり」には動じない強い「メンタリティ」があると思います。ありていな言葉でいえば、「腹が据わっている」というのだろうと思います。

それは、一度失敗をして、這いあがってきた政治家に特有のものなのかもしれません。

 

 

(反面の、安倍さんの政治家としての欠点は、「口の軽さ」だったり、信用できないとみなした相手を徹底的にみくびって反感や恨みを買う部分だと思います。また、その「頑固さ」は、長所でもありますが、短所でもあると思います。)

 

 

 

さて、安倍政権が、猛攻撃に見舞われながら、なお盤石な体制を維持している最大の理由は、やはり、「野党」に対する世の中の「不信感」が大きくなっていることです。

 

「野党」を信用できないので、消去法で現政権を支持せざるをえないという層が広がっています。

たとえ「消去法」であっても、「政権・与党」が多数の「支持」を集めているという「構図」に変わりはないわけです。

 

「野党」への支持が広がらないのは、「倒閣」が、完全に「目的化」してしまっているからです。

無理を押し通してでも「倒閣」を遂行しようという思惑が透けて見えてしまって、共感をよばないわけです。「安倍政権を倒す」ということの優先順位が、「この国を良くしよう」という政治家の「本懐」よりも上にきてしまっています。

 

 

もう少し踏み込んだ指摘をするならば、一連の問題で見せた「野党」の行動パターンは、すでに古い時代のものになっています。

したがって、同じように古い感性を共有する層にはある程度の訴求力を発揮しますが、同時代的な感性には共感をよびません。

 

「テレビ栄え」を意識したパフォーマンスや演出は、むしろ逆効果となっています。

 

 

 

「野党」は、財務省の「公文書書き換え問題」で、政権を追い込もうと試みましたが、「失敗」に終わりました。

「野党」にとって思いどおりの「成果」を得ることはできませんでした。

 

 

本来であれば、「問題」の原因を突き止めて、再発防止に向けた議論を行うべきでしょう。

 

ところが、野党は、「倒閣」のために、この問題を利用しようとしました。

「誰かの指示」があったのではないか、という「ストーリー」にこだわり過ぎたのです。

 

そのおかげで、麻生財務大臣は辞任を免れたといってもいい過ぎではないと思います。

 

国家公務員が、重大な違反行為を行ったわけです。

「責任者」が「責任」を取る、というのは、(個人的には疑問に思う部分もありますが)日本社会の「しきたり」や「慣習」に従えば、十分に「筋」のとおる決着のつけかたであったといえると思います。しかし、これを「政権の進退」という「論題」にすり替えようとしてしまったために、なけなしの「成果」さえも失ってしまったわけです。

 

 

 

さらに、財務省の次官が辞任に追い込まれた件でも、「野党」は「それ」を「倒閣」に結び付けようとしました。

 

本来であれば、「この問題」は、日本社会や日本の「組織」をより良くするための「一歩」となったかもしれなかったのです。

「問題の本質」とはかけ離れた扱われ方をしてしまったために、禍根だけが残りました。

 

 

 

今また加計学園問題が再燃していますが、政権を追いつめるのは、やはりちょっと厳しそうです。まあ、この件は少し他と違う点があるので、まだちょっとわからない部分もあるのですが。

 

 

 

「野党」の「倒閣運動」は、たとえるなら「無自覚な焦土戦」です。

 

これまで築き上げられてきた政治的なインフラや社会システムを倒壊させながら、「政治不信」を膨張させています。

 

 

ある人たちは、一部の「野党」に対して、「混乱」を拡大させることに、ある種の「インセンティブ」があるのではないかと疑っています。真偽はともかく、こうした「疑念」を持たれてしまうことが、さらに安倍政権を幇助するわけです。

 

 

(ivy 松村)

 

政治の話②(「リベラルズ・パラドクス」)

前回の衆議院選挙以降、いくつかのメディアでは、若者の「保守化」が進行しているとして、ちょっとした話題になりました。

 

これは、不正確な認識だと思います。

 

正しくは、(若者の)「リベラル離れ」が進行しているのです。

 

 

若い世代ほど、「リベラル」的な価値観や言論、政策に説得力を感じない人が増えています。

そのために、近年、日本の政治的、社会的形勢から「リベラル」が加速度的に退潮しています。

 

これは西欧や北米など、資本主義と民主主義が根づいている国々、つまり「先進国」で同時的に進行している現象ですが、日本独自の文脈も存在します。

 

 

日本の「リベラル」の言論は、多くの論理的不整合を抱え、自家撞着を起こしています。

私は、これを「リベラルズ・パラドクス」と呼んでいます。

 

 

「リベラルズ・パラドクス」に対する「回答」を提示しない限り、「リベラル」は、より衰退することになるでしょう。

 

 

 

日本の「リベラル」の最大の特徴は、「多様性」というものを最重視することです。

さらに付け加えるならば、それは、他の様々な社会的、個的異相を放置し、民族的、文化的な差異のみに、強く焦点化されます。

 

 

わかりやすくいえば、「マイノリティに対する寛容さ」という主題に「オールイン」してしまうわけです。

 

 

しかも、それは「インバウンド」における「マイノリティ」に結論づけられてしまっています。

 

 

たとえば、「金星」では「火星人」は「マイノリティ」です。

しかし、「火星」では、「金星人」が「マイノリティ」です。

 

「マイノリティ」という「立場」は、相対的なものであって、固定的なものではありません。

したがって、「火星人」は、常に弱い立場の少数者というわけではありません。

 

 

「マイノリティ」を気遣い、いたわりながら接することが普遍的な義務であるといえるのであれば、それは「金星人」だけでなく、「火星人」にとっても義務であるはずです。

 

もし、「金星人」に対しては義務の履行を強く迫る一方で、「火星人」に対しては「目こぼし」を行うのであれば、それは一貫性のない単なる「ご都合主義」にしかなりません。

 

 

「『金星人』は『火星人』の気持ちをもっと考えるべきである」などと安易に口にする人がいるわけです。

「彼ら」は、「その逆」もいえるのだということを無視しているか、あるいはそれに無自覚でありつづけます。

 

 

このような「片務性」は、現代の日本の「リベラル」が抱えるもっとも顕在的な「パラドクス」です。

 

 

 

もう少し、「リベラルズ・パラドクス」について考えてみましょう。

 

 

「国民」とか「民主主義」という言葉は、「絶対的な価値と大儀」を示す「威光」のように扱われます。

 

「国民が納得しない!」

「民主主義をないがしろにするな!」

 

というように、「政敵」に対して非難を浴びせる際に用いられるわけです。

 

 

いうまでもないことですが、国民は主権者です。

 

したがって、「多数の日本国民」の意見や感情に寄りそって、政策は施行されるべきです。

日本国籍を持たない「外国人」に対して、「過度の優遇」が行われるとすると、それは「国民主権」の否定になってしまいます。

 

 

 

さて、ここでちょっと「注釈」を。

「こうした議論」には、一抹の懸念があります。「こうした議論」を実直に続けていくと、「苛烈な反応」が生じるかもしれないという憂慮がもたげます。「この時点」で、すでに、私が「マイノリティ」を悪くいっていると受け止めてしまうような、知性に乏しく読解力の貧しい人間が、世の中に存在するわけです。

 

 

いうまでもないことですが、私は、「パラドクス」について述べているのです。

 

 

 

議論を戻しましょう。

 

「民主主義」についても、相似の「パラドクス」が存在します。

 

つまり、「少数派」に対する配慮が度をこえてしまうと、「民主主義」の否定につながるわけです。

 

たしかに、「民主主義」の「説明」には、「少数の意見を尊重すること」が付随します。

しかし、「少数意見を尊重すること」は、「少数意見を取り入れること」とは違います。

 

無知なのか故意なのか、わかりませんが、政治家の中にも、間違った解釈にもとづいて「多数決」を非難する人がたまにいます。

 

「民主主義」の根幹は、「議論」です。「尊重」というのは、少数意見であっても「議論」の対象とすることが重要であるということなのです。

 

当たり前の話ですが、少数意見を認めたり少数意見に譲歩したりするような「特別扱い」を許容するとすれば、それは、むしろ健全な民主主義が機能していない状態です。

 

もし、「少数派」が「少数派であること」を理由として利得を得るようなことがあれば、「民主主義」は崩壊します。

 

「民主主義」と「少数派の優遇」は、原則として「両立」しません。

 

 

つまり、そこには、やはり「パラドクス」が潜んでいるわけです。

 

 

 

最後に、構造的な「パラドクス」について考えてみましょう。

 

 

「リベラル」は、「寛容さ」という姿勢と態度を、社会に求めます。

「他者」に対する「寛容さ」が、「多様性」を醸成させるというわけです。

 

したがって、「寛容さ」というものは、「リベラル」にとって、ある種の「教条的な意味」を持つといえるのかもしれません。

そうすると、「リベラル」は、道理として「不寛容」を放置できないわけです。

 

つまり、「リベラル」は、原理的に、「不寛容」に対して「不寛容」である、という状態に陥るわけです。

 

それが、「リベラル」にとって最大の「パラドクス」となっています。

 

 

たとえば、「『火星人』を受け入れるな」というような「不寛容」な意見は封じ込めなければならないわけです。

 

 

「リベラル」にしてみれば。

 

 

ところが、「『火星人』を受け入れるな」という意見も、「多様な意見」のうちのひとつであるといえます。

 

さらにいえば、「『火星人』を受け入れるな」という意見を認めないという態度は、「不寛容」であるといえるわけです。

 

 

 

念のために再度述べますが、これは「パラドクス」についての説明です。

私自身が、排他的な主張をしているわけではありません。

 

このような「論」を述べると、「いや、でも社会的に悪影響のある意見は抑止しなければならないのだ」というようなことを反射的に発したくなってしまう人がいます。

そういう人は、「それ自体」が、私の述べていることの一部であるということに永遠に気づきません。

 

 

あえて加言すれば、その「無残な鈍感さ」が、「リベラル離れ」の主因です。

 

 

 

私は、「パラドクス」について述べています。

 

 

 

(ivy 松村)

 

 

政治の話①(「支持率」)

当初、このブログには「政治的なこと」を書くつもりはなかったのですが、折に触れていくつかの記事を書きました。「政治」を「タブー」にするほうが、なんというか、不自然だなと、だんだんに思うようになってきたのです。

 

去年は、まとまった記事を書いてみましたが、それは、ちょっとした「実験」の意味合いもありました。

「政治的な考え」を抑制しながら、「政治的な意見」を書くことができるのかどうか、試してみようと思いました。それが、うまくいったのかどうか、まあ、まだよくわかっていないのですが。

 

 

そんなこんなで、今回も、ちょっと「政治的なこと」を書いてみようと思っているのですが、政治の話なので、自分の考えとは違う、と思う人もたくさんいると思います。ですが、まあ、いってみれば、小話の一種のようなものですので、その辺によくいる市井のおっさんの独り言だと思って、気楽に受け流してもらえれば、と思います。

 

 

それで、これは常日頃いっていることなのですが、これは正しい、とか、これは間違っているというように「価値観を表明すること」と、なぜそのようなことが起きるのか、とか、なぜそのような結論が導かれるのか、というように「論理的に説明すること」は「次元」が違うわけです。

 

 

世の中には、両者の区別がつかない人がたくさんいます。

 

「政治的なこと」について考えるときには、その2つをよくふまえて熟慮するようにしましょう。

 

 

 

さて、最近の「政治的な状況」をきちんと整理してみようと思ったのが、「きっかけ」です。

 

 

「もりかけ問題」が1年以上もくすぶり、さらに、この2か月ほどの間にも、次々と「問題」が発覚しました。

 

「野党」は、血気にはやり、内閣を追い詰めようと精力的に活動しましたが、いまや完全に「袋小路」の状態になってしまいました。

 

「野党」の「倒閣運動」がうまくいかない最大の理由は、「世論に訴える」という旧来の方法論が機能しなくなっているからです。

 

 

本来、政権にとって、「支持率」の低下は見過ごすことのできない大きな関心事のはずです。

放っておけば、「選挙」に勝てなくなるからです。

 

そのため、従来は、内閣の「支持率」が下がってくると、与党内からも「突き上げ」が起こりました。

党内外、そしてマスコミからの「首相下ろし」の圧力が強まって、政権の維持が現実的ではなくなると、次の選挙に臨む前に、その内閣は「末期」を迎えました。

 

 

過去のこのような政治のメカニズムは、もはや前時代的なものになりつつあります。

 

現政権にとって、マスコミが示す「世論」は「弱み」ではなくなっているからです。

 

 

安倍政権が、「支持率」の低下に大きく動揺しない理由はおもに2つあります。

 

 

ひとつは、「世論調査」の信憑性がゆらいでいることです。

 

 

アンケート調査は、質問文の書き方や質問の順序を調整したり、回答者を選別したりすることによって、「結果」をある程度コントロールすることができます。

 

具体的には、アンケートの対象を「固定電話」の所有者に限定する場合、回答者の「属性」に偏りが生じます。平均年齢が高くなるわけです。

 

 

近年は、新聞各紙あるいは各テレビ局がどのような「政治色」を持っているのか、一般にもよく知られるようになってきました。

そのうえで、各報道機関の「世論調査」が、その報道機関の主張にとって都合の良い数字になることも広く知られるようになってきました。

 

たとえば、現政権を支持する論調の新聞の「内閣支持率」は高めに出て、反対に現政権に批判的な論調の新聞の「内閣支持率」は低めに出るわけです。

 

結果的に、現代は、政治に関心を持っている人ほど、「内閣支持率」を「あて」にしなくなっています。

 

 

インターネットの台頭によって現出した「情報社会」は、「マスコミ」の影響力の崩落をもたらしました。

 

「マスコミ」の「主観性」が広く浸透し、その「誤謬性」を誰もが疑うようになったわけです。

 

 

そのため、「内閣支持率」の下落傾向が強くなっても、「世間」の反応は鈍いし、政権も慌てふためいたりはしないわけです。

 

 

 

もうひとつの理由はもっと単純です。

「支持率」が低下しても「選挙」に勝てるという目算があるからです。

 

端的に、一連の「倒閣運動」でより大きなダメージを負ったのは、「野党」のほうでした。

「内閣支持率」は下降しましたが、「与党支持率」とその他の政党の「支持率」は、依然大きく広がったままです。

 

「支持政党なし」の割合が大きくなっていますが、現状では、選挙になった場合「無党派層」は「与党」に傾くので、「野党」は全体の勢力をさらに縮小させることになるでしょう。

 

これまで、「支持率」という数字に大きな関心が寄せられていたのは、それが「選挙」を占うものだと考えられていたからです。

 

また、それが「選挙」に影響を与えるものだと考えられていたからです。

 

 

安倍さんは、自民党の総裁になって以降、国政選挙にすべて勝っています。

「支持率」が低くても、「選挙」で勝てるのであれば、「支持率」を気にする必要はないわけです。

 

 

海外の選挙でも似たような傾向が出始めていますが、現代は、「支持率」と「選挙」がリンクしない時代となりつつあります。

 

 

もう少し踏み込んでいえば、マスコミ報道をとおして「危機感」や「終末感」を煽るというような「手法」は、もはや効果的ではなくなっているのです。

 

 

反面、テレビや新聞のみを情報源としている人は、注意が必要かもしれません。

「報道とは違う現実」と直面して、戸惑うことになります。

たとえば、これだけの騒ぎを起こしておいて、なぜ内閣は平気でいるのだ、と不思議に思う人もいるでしょう。

 

 

(ivy 松村)