高校受験の保守的傾向(高校受験考察②)

高校受験は、大学受験や中学受験とは、異質なものであると感じています。

 

実際には、受験産業全体では高校受験のニーズが最も多く、全国にある学習塾も7割が中学生を対象としています。

単純に、公立中学に通う中学生のほとんどが高校へ進学することを希望し、そのための受験指導を必要としています。高校受験は、「受験生」の絶対数が多いのです。

 

一方、中学受験や大学受験は、受験期を迎える世代の一部だけが、その対象となるものです。

 

「多数派」である高校受験が「異質」であるというのは、奇妙な言い回しですが、「高校受験」は、その他の受験と比べて大きく違う要素があるように思います。

 

そのひとつは、「経済性」です。

中学受験や大学受験は、ある意味で、家計における経済的な余裕に支えられています。

 

もうひとつは、「必然性」です。

現代の日本のような、高校進学率が100%近くになる社会では、その進路は、踏み外すことのできない設定のようなものとして捉えられることになります。

つまり、「高校に行かない」という選択や状態は「考えられない」のです。

 

 

 

最近読んだ論文に興味深いことが書かれてありました。

 

日本の高校進学率は、1950年代では40%程度でしたが、1970年代前半には90%を超えます。

 

このような急激な高校進学率上昇について、主流となっている分析は以下のようなものです。

 

・高度経済成長によって所得が増加し、教育への「投資」が活発になった

・社会の分業が進み、社会階層の流動性が高まったことで、学歴への期待値が高まった

・「民主主義」的な教育観が浸透し、高校への進学が、エリートの選別であるという観念が薄められ、一般化した

・上記のような背景をもとに、ベビーブームの世代の進学希望者を収容するために高等学校を増設した

 

 

私が気になったのは、これらとは別の視点からの分析です。

戦後のGHQの教育改革で、「単線系」の学制が敷かれたことが、高校進学率上昇の要因の一つであるとするものです。

(新井 郁男 1982「なぜ塾が増えるか」、小林 弘典 2012「学習塾変遷の歴史と概観」)

 

第二次世界大戦前の教育制度では、小学校を出た後に進む進路が複数ありました。また、(旧制)中学を出た後に進む学校の種類も複数ありました。つまり、旧制度では、次の教育課程に進むルートが一つではない、「複線系」の学制が敷かれていたのです。

 

受験競争が過熱し、そのために塾が乱立するのは戦後になってからですが、これは、小学校→中学校→高校→大学という「単線系」の学制になったことによって、同一の方向に、進路の指針が集中したためだとみることができます。

 

大学までのルートが、簡明に、直接的に、「リアル」に示されたことで、進学に対する意思と期待が大きくなり、それが高校進学率を押し上げる要因となったと考えられるのです。

 

高校に進むことが、大学進学を含めた「将来への投資」と考えられるようになったのです。

 

つまり、将来に向けた準備と、高校進学は同義になっていったのです。

現代の私たちの感覚からすると、それは当たり前のように感じてしまいますが、昔は、「将来のために高校に行かない(行けない)」という選択が普通にありえたのです。

 

今日では、高校進学は、疑いようのないほどに当然のライフコースとなっています。

 

「単線系」の、現代の日本の社会では、知識や技術を習得するにしても、将来に向けて資格を得るにしても、「次の教育課程」に進まなければなりません。

「中卒では…」ということです。

 

 

「将来への投資」という圧力は、高校進学率だけではなく、大学進学率をも押し上げました。

 

やがて、相対的に、高校に進学することは特別視されるものではなくなっていったのです。逆にいえば、高校進学が一般化し、大衆化したともいえます。それは、「高校に行くのが当たり前」という状況を生み出しました。

 

つまり、何の話をしているのかといいますと、現実的に、現代日本のほとんどの中学3年生は、高校進学以外の進路は考えられない、ということです。

 

 

当然、そこには功罪がありますが、考えたいのは、そのことによって、高校受験がどのように規定されることになるのか、ということです。

 

 

高校受験には、「おさえ」が絶対に必要です。これが中学受験や大学受験とは違う性質を作り出していると思います。

 

中学受験には、もし、志望する中学に合格できなければ、公立中学に進学して高校受験で「リベンジする」という道があり得ます。

また。大学受験には、浪人という選択があり得えます。

もちろんそれは不本意なことにちがいありませんが、再チャレンジの道がないわけではありません。

 

ですから、中受や大受では、行きたいと思える学校だけを受けるという選択が、一般的にみられます。積極策を取る受験生も多くいます。

 

しかし、高校受験では、必ずどこかの高校に進学しなければならないという「底」が設定されています。

 

「併願優遇」というような制度が生み出される下地も、そこにあります。

 

 

中受や大受は「学校に入る」ということをまず先に考えます。

それに対して、高校受験は「学校に入れない」ということがないように、組み立てなければなりません。

学力上位層であっても、「おさえ」の確保が最優先となることには変わりありません。

 

その意味で高校受験は保守的な傾向をもっています。そして、悲観論的な見方が強く出ることが多くあります。

 

中受や大受の場合、「ここに入りたい!」と決めて、そのための勉強をしていくという受験生が多いですが、高校受験の場合には、学力に合わせて志望校を決める受験生・ご家庭が多くなります。

 

それはしかたのないことです。というよりも、そうでなければならないのです。

 

「高校受験の保守的傾向」は、個人が持つ価値観によるものであるというよりも、制度や文脈によって高校受験がそう規定されているからなのです。

 

(ivy 松村)

 

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