新聞コラムの要約に、意味はあるのか?

高校受験のとき、ある教師に、ある新聞のコラムを要約すると効果がある、と言われました。

それで、1、2度やってみたのですが、ばかばかしくて、すぐにやめてしまいました。

 

受験にとって、ほとんど意味がない、とすぐに気づいたからです。

その教師は、私の受験のことを慮って「アドバイス」してくれた わけではなかったのだと思いました。

 

 

中学受験、高校受験、大学受験、いずれの受験にとっても、新聞のコラムの要約は、限りなく無意味に近い行為です。

 

 

新聞のコラムがよくない文章であるという意味ではありません。

入試に出る可能性が低いので、「入試のため」に読む必要はないということです。

 

わが国には多くの優れた作家、文学者、評論家、随筆家、研究者、ジャーナリストの文章が存在しています。それなのに、わざわざ新聞のコラムが入試問題に選ばれるとすれば、それはかなり「特殊」なことです。実際に、その数は、世間の印象に反して、ごく微少であるはずです。

 

 

都立中学校の入試には作文があるので、新聞のコラムを要約させるという「受検指導」をしている講師もいるのだろうと思います。過去の適性検査(作文)の問題に、新聞のコラムが使われたことがありました。まあ、そういうこともあるのですが、だからといって、「新聞のコラムが受験に有効」というのは、ちょっと微妙です。

 

 

基本的に、入試に、「政治的」な内容の文章が用いられることはありません。新聞のコラムは、多くのものが、その新聞の「編集方針」や筆者の「政治的な立場」があらわれる文章となっています。そのようなタイプの文章は、何よりもまず、入試にふさわしくありません。

 

新聞のコラムの中から「ニュートラル」なものを選別して使うこともできるとは思いますが、そうするのだったら、より入試問題との親和性の高い文章を探してきたほうが生産的だと思います。

都立中入試の出題方針やその意図、傾向を考慮すると、新聞のコラムの中から「要約」の素材を探すよりも、要約にふさわしい文章を探すほうが簡単な気がします。

 

 

また、小学生に受験勉強として新聞のコラムを要約させることには、「技術的」な問題が生じます。

 

新聞のコラムは、主題がはっきりしない内容のものが少なくありません。その内容も、皮肉や風刺、遠回しの批判などが多くあります。

また、その文章には、「コラム節」とも呼ぶべきほどの独特の言葉づかいやレトリックがみられます。

筆者の主張やメッセージが「行間」にあらわれるような文体のものが多く、それを読み取るのにも、社会通念や知識が必要な場合が多いのです。

 

「要旨」があらわれていない文章を要約するには、突き抜けた文章力が必要になります。

 

まあ、このように、新聞のコラムの「要約」は、非常に高度な作業となってしまうので、小学生が「練習」として行うものとして適切であるとは思えません。もっといえば、きちんと添削ができる人はなかなかいないと思います。

どうしてこのようなものが推奨されているのか、ちょっと「謎」です。

 

 

たとえば、池内了さん、池上彰さん、池田晶子さん・・・など、小中学生に向けて文章を書いている作家の文章を使った方が、より建設的な要約の練習になると思います。

 

 

 

私立中学受験では、時事問題を網羅しておく必要がありますが、通常、塾では、そのための対策問題集などに取り組みます。または、直接ニュースに接する習慣をつけるように指導するでしょう。

システマチックな指導法が確立している私立中入試で、場当たり的な作業をやらせる講師はあまりいないのではないかと思います。

 

 

高校受験、大学受験では、新聞のコラムは「文量」が少なすぎるので、文章題として入試に使われることはなさそうです。(小論文等の「資料」などとして用いられることはあるかもしれません。)

新聞のコラムが入試に使用される場合には、あまり一般的ではない形式の問題になるでしょう。

 

高校受験や大学受験では、そもそも、文章全体を要約させるような入試問題を出す学校はきわめて少数です。

 

まして、新聞のコラムを要約することは、99パーセント以上のほとんどの受験生にとっては、直接入試対策になり得ません。

同じ時間と労力をかけて「勉強」するなら、実際に出題された入試問題を解く方が、得点力の向上につながります。

 

自分の受ける学校の入試で、歴史上ただの一度も使われたこともないタイプの文章を使って、ただの一度も出題されたことのない形式の「受験勉強」をすることに、あまり意味があるとは思えません。

 

 

もしかすると、私が不勉強なだけで、全国のどこかの地域のどこかの学校の何かの入試に、新聞のコラムが使われ続けているのかもしれません。

しかし、たとえそうであってもそうでなくても、それは、あまり重要ではないのです。

 

この地域の生徒が受験をする学校の入試問題に、新聞のコラムが使われる可能性は、ほとんどないのですから。

 

 

万が一、新聞のコラムが出題されることがあるかもしれませんが、それがまっとうな入試問題なのであれば、正当な受験勉強をしてきた生徒は対応できるわけですから、なにも普段から、「出題されたときに困らないように」新聞のコラムを読む必要などないわけです。

 

 

 

普通の中学・高校・大学は、自校に入ってもらいたい人物を評価するのに、「学力を判定するのにふさわしい文章」を選択すると思います。

もちろん、素晴らしい新聞のコラムも存在するはずですから、新聞のコラムが入試に出題されることもあるでしょう。

しかし、それはむしろ稀なことなのですから、新聞のコラムが受験に効果がある、という風評は、実際には「あべこべ」なのではないかと思えるのです。

 

 

 

念のために重ねて述べますが、新聞コラムの文章が駄文であるということをいいたいわけではありません。私が述べているのは、新聞のコラムの多くは入試問題として適当ではないので、入試問題に採用されることが少ないうえ、それを「要約」する練習も「受験勉強」としての意味は薄いのではないか、ということです。

 

趣味や勉強の「息抜き」として新聞のコラムの「要約」をするというのであれば止めはしませんが、「受験勉強」としては、あまりおすすめしません。

作文の練習にしても、記述の練習にしても、それこそ要約の練習をするにしても、新聞のコラムではない文章の方がいいと思います。

 

 

 

ところで、話はまったく変わるのですが、今日の中3の英語の演習で扱った問題集に、こんな和訳問題が出ていました。

 

“Girls have never given me chocolate on Valentine’s Day.”

 

遊び心で作った問題なのでしょう。

冠詞を排した文であるところにもセンスが感じられます。

 

 

バレンタインデーといえば、女の子が男の子にチョコレートを贈る一種の「年中行事」として、日本に定着しています。

しかし、この日の贈り物がチョコレートに限定されたのは、比較的最近のことです。

製菓会社が、チョコレートをたくさん売るために、バレンタインデーの贈り物の定番はチョコレートである、という宣伝をしたことから広まったのだといわれています。

 

 

「資本主義」を根幹とする現代社会では、あらゆるものごとが「ものを売る」きっかけとなります。

企業や事業者は、めざとくビジネスチャンスをうかがいます。

 

 

 

「ある新聞のコラム」は、多くの入試で出題に使われた実績がある、と喧伝されています。

 

その「ある新聞」が〇〇大学の入試に出題された、という広告が目につきました。

これは、ミスリードを誘う常套手段かもしれません。「コラムが」と書いていないわけです。

具体的な情報が一切掲載されていません。

その「ある新聞」の記事と「同内容」の文章が入試に使われただけなのかもしれません。

 

新聞を売るための「ビジネス戦略」なのでしょう。

 

 

 

バレンタインデーは、確かに、商売上の目論見を契機として世間に定着したものです。

しかし、この日にチョコレートを贈るという習慣は、企業の「戦略」をもおりこんだうえで、いまや、広く世間に浸透し、認知されています。

人々の心をとらえるだけの趣や情緒があるのでしょう。

 

そこには、愛情という普遍的な価値にまつわる願いが込められています。

 

 

同じように、「受験」にも普遍的な価値が宿るものだと、私は信じています。

 

さて、はたして、新聞のコラムも、「資本主義」を超えて、人々の心をとらえるものと、なり得るのでしょうか。

 

 (ivy 松村)

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