学校の勉強と将来の仕事

今日は、高校生が勉強に来ました。関係代名詞と関係副詞を勉強して帰りました。

中1の生徒たちは数学の補習に来ました。

それから、秋以降に英検を目指している中2の生徒が勉強に来ました。先取りで、動名詞や不定詞の説明をしました。

 

来週の土曜日は、月例テストです。テスト前に来て勉強することもできます。

しっかり準備して挑みましょう。

 

 

 

さて、期末テストが終わり、あと2週間ほどで1学期の成績が出ます。

 

年々、評定に占める定期テスト分の評価の割合が小さくなっているようです。

成績評価に、中学校の先生の「主観」的な判断が著しく反映されるようになってきたと思います。

 

いつも、定期テストが成績評価に影響するのは4割合ぐらいのつもりでいるように言っています。授業態度や提出物に対する評価が相当大きくなってきているので、気を抜かないでしっかりと取り組むように言っているのです。

 

授業プリントやノートに落書きを書いていたり、授業中にボーとしながらシャーペンをクルクル回していたりするような人に対して、中学校の先生は遠慮なく低評価をつけるでしょう。

雑な字で提出物を仕上げ、いかにも面倒なので手を抜いてやりました、という低レベルのものを平気で出している人の成績は、上がることはないでしょう。

 

 

多くの中学生はよく理解しないままに日々の生活を送っていますが、学校の成績には二面性があります。

ひとつは、当然「学力」に対する評価です。

そして、もう一つは「人間性」に対する評価です。

 

人に対する敬意を持っているか、責任感を持っているか、実直に取り組んでいるか、社会性・公共性・協調性を持っているか・・・といったことが成績評価に含まれているのです。

 

(学校の先生はそんなこと言ってないよ、と「反論」しようとする人は、アホです。

どうして、「全部」を伝えてくれると思いこんでいるのでしょう。言われなくてもやるかどうか、を見ようとしているのに。)

 

 

 

学ぶことの面白さ、とは別の次元での「勉強の意味」というものがあります。

 

 

 

中学校には、「勉強」を「労働」だと勘違いしている人がたくさんいます。

 

「来週までにワークを提出しなさい」と先生に指示されたとき、「答えを書き込んだワーク」を出せば「任務完了」だと思って安心するのです。

「言われたこと」を「言葉のまま」行えば、もうOKだと思ってしまうのです。

 

実際には、提出物の「仕上がり」によってA,B,C,D・・・とランクを付けられているのに、そんなことは想像もつかないわけです。

 

 

 

ちょっと深い話をします。

(これから書く内容は、「勉強の意義」とは異質な価値を持っているものについて述べているということに留意してください。)

 

 

高度な分業体制を構築している現代社会では、「仕事」に必要な能力や技能に応じて、職域が細分化されています。

 

「最低限の指示どおりにしか動かない人」には、「最低限の指示だけをこなしていればよい仕事」しか用意されないでしょう。どうして、いいかげんで鈍感な人間に、創造的な仕事、システムを動かす仕事、人を動かす仕事などを任せることができるでしょうか。

 

 

「学歴主義」を否定するのは簡単ですが、多くの人がその本質を見誤っています。また一方で、「学歴主義」に過度に同調する単純な思考も、やはりその本質を見失っています。

 

「学歴主義」の主眼は、人材の社会的な選抜、配置であって、その資質を涵養する場として「公教育システム」が存在しているのです。

 

 

十分に仕事を任せられるだけの素質と意思を持った人物が、不当な排除を受けたとするならば、それは大きな問題です。社会にとっても損失です。しかし、「そうではない」といえる「一般的な根拠」が存在するのであれば、それは合理的な判断というしかありません。

 

「学歴」(=学力)は「仕事」の資質であるとみなされるのです。

(だから、「学歴フィルター」というようなものが「発見」されても、多くの人が「納得」してしまうのです。)

 

 

私個人は、「学歴主義」というものは弊害も多いと思っていますが、それでも、生徒たちが積極的に「そこ」に飛び込んでいくことを肯定するだけの根拠はあると思います。

(念のために書き添えておきますが、私は、「就職」のために「学歴」を身につけろ、と主張しているのではありません。抽象的な思考が苦手な人は、しばし因果を逆に捉えます。あるいは単純過ぎる結論を渇望します。)

 

いいかげんな人間に低い評価が与えられるのは、まったく自然なことです。

提出物を出さなかったから成績が2だったと、へらへらしながら言っているような人がいます。その人は、その人にふさわしいライフコースしか歩めないのです。その人でも大丈夫な仕事しか任せてもらえないのです。

 

 

学校の勉強と「仕事」は関係ない、という人がいるかもしれません。その人は、根本的な勘違いをしています。「勉強の中身」の話ではなく、真面目に、ていねいにものごとに取り組むかどうか、の話をしているのです。計算が得意かどうかとか英文法が理解できるかどうかの話ではありません。

 

「仕事をするうえで最も重要な資質」についての話をしているのです。

 

 

勉強が苦手な人はたくさんいるでしょう。

しかし、勉強が苦手なことと、いいかげんなことは別なのです。

 

あるいは、勉強はできるけれど、いいかげんな人もいるでしょう。

「言われたから」しょうがなく勉強をしている、というような、動機の希薄な人は、誠実に勉強に向き合えません。未来のために、あるいは誰かのために、または自分のために勉強している人に、いつか負けてしまうでしょう。いや、その前に、「自分」に負けてしまうにちがいありません。

 

 

 

(今日ここに書いた内容が、全く心に響かない人もいるでしょう。何を書いているのか、さっぱりわからない人もいるでしょう。でも、ほんの一握り、私の説明を理解し、人生を変えていこうという意思を持つことができる人もいるはずだと信じています。その人のために書きました。難しい言葉を使って書きましたが、理解したいと思える人は、努力して読もうとするでしょう。)

 

 

(ivy 松村)

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