「ぬ」の話②

英語の「not」の働きを、英文法の用語で「否定」といいます。

同じような働きを、日本語の文法では「打消」といいます。

口語(現代文)では、一般的には「ない」を用いて「打消」を表します。

 

文語(古文)では、助動詞の「ず」を用いて「打消」を表します。

 

例:

犬、走ら。  (犬が走らない。)

 

 

「ず」は、現代でもたまにみられる言い回しですね。「ず」を使うと古風な印象を受けます。

 

ことわざや故事成語には、「ず」を使ったものが多くみられます。

それは、古くからの言い回しが受け継がれているためです。

また、フレーズとしてのリズムを損なわないように古い表現が固定されていることもあります。

 

 

ところで、「ず」の連体形は「ぬ」です。ですから、名詞に接続するときには、「ず」は「ぬ」に「変化」します。

 

例:

走ら犬。  (走らない犬。)

 

 

文語(古文)の文法に従えば、「打消」は、終止形に用いるときは「ず」、連体形に用いるときには「ぬ」と表さなければなりません。

 

しかし、時代が下るにつれて、話し言葉の中で、この「ぬ」の使われ方の「拡張」が起こりました。

つまり、終止形で「ぬ」を用いるような使われ方が受け入れられるようになってきたのです。

 

例:

→犬、走ら。  (犬が走らない。)

 

 

本来の文語(古文)の文法にもとづけば、このような言葉づかいは間違いだとされるものですが、次第に許容されるようになっていきました。

 

 

「ぬ」を「打消」の助動詞の終止形として用いるような表現が、話し言葉の中で一般的に使われるになったのは江戸時代からではないかと考えられています。

 

 

先日、中3の演習で取り上げた井原西鶴の『世間胸算用』にも以下のような記述がみられました。

 

 

「こなたのやうなる、大晦日に碁をうつてゐるところではうら

(あなたのような、大晦日に碁を打っているようなところでは(タコを)売らない)

 

 

大晦日に、タコの足を2本切って売り歩いていた魚屋が、そのいんちきを見破られて「逆切れ」する場面です。「売ら」というセリフが確認できます。

 

 

もともとは、「ぬ」と「ず」は同一の単語だとみなすべきものでした。しかし、現在では「ぬ」は「ず」とは分立した独自の助動詞であるとする考え方が一般的になっています。

 

現在の国語文法(口語文法)では、両者とも「打消」の助動詞であるとみなします。

しかし、文語(古文)では、「完了」の働きをする「ぬ」があるので要注意です。

 

例:

①犬、走ら。  (犬が走らない)「打消」

②犬、走り。  (犬が走った)「完了」

 

 

 

「打消」の①の「ぬ」は未然形が接続されるので、「走る」が「走ら」になっています。

「完了」の②の「ぬ」は連用形が接続されるので、「走る」が「走り」となっています。

 

 

 

さて、ことわざや慣用句、有名な言い回しの中には、「ぬ」が「打消」の助動詞の終止形として使われているものがいくつかあります。

その例をみてみましょう。

 

 

歯に衣着せ

ない袖は振れ

背に腹は代えられ

瓜のつるになすびはなら

泣く子と地頭には勝たれ

火のないところに煙は立た

柳の下にいつもどじょうはおら

あちらを立てればこちらが立た

為せば成る、為さねば成ら、何事も

 

 

「ぬ」の本来の形である連体形で使われていることわざの例も見てみましょう。

 

 

言わが花

知らが仏

転ば先の杖

捕ら狸の皮算用

鬼の居間に洗濯

まか種は生え

さわら神に祟りなし

桜伐る馬鹿、梅伐ら馬鹿

門前の小僧習わ経を読む

 

 

 

 

 

さらに、「ず」が使われていることわざや故事成語も紹介しましょう。

 

 

笛吹けど踊ら

親の心子知ら

歳月人を待た

覆水盆に返ら

後悔先に立た

悪銭身につか

頭隠して尻隠さ

立つ鳥跡を濁さ

木を見て森を見

仏作って魂入れ

天は二物を与え

弘法は筆を選ば

百聞は一見にしか

雀百まで踊り忘れ

転がる石に苔つか

頭かくして尻かくさ

虻蜂(あぶはち)とら

君子危うきに近よら

鹿を追う者は山を見

情けは人のためなら

論語読みの論語知ら

井の中の蛙大海を知ら

ローマは一日にして成ら

二兎を追う者は一兎をも得

虎穴に入らんば虎子を得

 

 

 

ちょっと、「打消」の助動詞「ず」の活用形を見てみましょう。

 

未然形 連用形 終止形 連体形 已然形 命令形

ざら

ざり

 

ざる

ざれ

 

ざれ

 

 

「ず」の終止形以外の活用形が用いられていることわざや故事成語もあります。

 

 

武士は食わど高楊枝

雉(きじ)も鳴かば打たれまい

過ぎたるはなお及ばざるがごとし

 

 

なお、「疑心暗鬼を生ず」のような表現には注意してください。

「生ず」は「生じる」という意味の動詞ですから、ここには「打消」の助動詞は使われていません。

 

(ivy 松村)

 

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