英語の「not」の働きを、英文法の用語で「否定」といいます。
同じような働きを、日本語の文法では「打消」といいます。
口語(現代文)では、一般的には「ない」を用いて「打消」を表します。
文語(古文)では、助動詞の「ず」を用いて「打消」を表します。
例:
犬、走らず。 (犬が走らない。)
「ず」は、現代でもたまにみられる言い回しですね。「ず」を使うと古風な印象を受けます。
ことわざや故事成語には、「ず」を使ったものが多くみられます。
それは、古くからの言い回しが受け継がれているためです。
また、フレーズとしてのリズムを損なわないように古い表現が固定されていることもあります。
ところで、「ず」の連体形は「ぬ」です。ですから、名詞に接続するときには、「ず」は「ぬ」に「変化」します。
例:
走らぬ犬。 (走らない犬。)
文語(古文)の文法に従えば、「打消」は、終止形に用いるときは「ず」、連体形に用いるときには「ぬ」と表さなければなりません。
しかし、時代が下るにつれて、話し言葉の中で、この「ぬ」の使われ方の「拡張」が起こりました。
つまり、終止形で「ぬ」を用いるような使われ方が受け入れられるようになってきたのです。
例:
→犬、走らぬ。 (犬が走らない。)
本来の文語(古文)の文法にもとづけば、このような言葉づかいは間違いだとされるものですが、次第に許容されるようになっていきました。
「ぬ」を「打消」の助動詞の終止形として用いるような表現が、話し言葉の中で一般的に使われるになったのは江戸時代からではないかと考えられています。
先日、中3の演習で取り上げた井原西鶴の『世間胸算用』にも以下のような記述がみられました。
「こなたのやうなる、大晦日に碁をうつてゐるところではうらぬ」
(あなたのような、大晦日に碁を打っているようなところでは(タコを)売らない)
大晦日に、タコの足を2本切って売り歩いていた魚屋が、そのいんちきを見破られて「逆切れ」する場面です。「売らぬ」というセリフが確認できます。
もともとは、「ぬ」と「ず」は同一の単語だとみなすべきものでした。しかし、現在では「ぬ」は「ず」とは分立した独自の助動詞であるとする考え方が一般的になっています。
現在の国語文法(口語文法)では、両者とも「打消」の助動詞であるとみなします。
しかし、文語(古文)では、「完了」の働きをする「ぬ」があるので要注意です。
例:
①犬、走らぬ。 (犬が走らない)「打消」
②犬、走りぬ。 (犬が走った)「完了」
「打消」の①の「ぬ」は未然形が接続されるので、「走る」が「走ら」になっています。
「完了」の②の「ぬ」は連用形が接続されるので、「走る」が「走り」となっています。
さて、ことわざや慣用句、有名な言い回しの中には、「ぬ」が「打消」の助動詞の終止形として使われているものがいくつかあります。
その例をみてみましょう。
歯に衣着せぬ
ない袖は振れぬ
背に腹は代えられぬ
瓜のつるになすびはならぬ
泣く子と地頭には勝たれぬ
火のないところに煙は立たぬ
柳の下にいつもどじょうはおらぬ
あちらを立てればこちらが立たぬ
為せば成る、為さねば成らぬ、何事も
「ぬ」の本来の形である連体形で使われていることわざの例も見てみましょう。
言わぬが花
知らぬが仏
転ばぬ先の杖
捕らぬ狸の皮算用
鬼の居ぬ間に洗濯
まかぬ種は生えぬ
さわらぬ神に祟りなし
桜伐る馬鹿、梅伐らぬ馬鹿
門前の小僧習わぬ経を読む
さらに、「ず」が使われていることわざや故事成語も紹介しましょう。
笛吹けど踊らず
親の心子知らず
歳月人を待たず
覆水盆に返らず
後悔先に立たず
悪銭身につかず
頭隠して尻隠さず
立つ鳥跡を濁さず
木を見て森を見ず
仏作って魂入れず
天は二物を与えず
弘法は筆を選ばず
百聞は一見にしかず
雀百まで踊り忘れず
転がる石に苔つかず
頭かくして尻かくさず
虻蜂(あぶはち)とらず
君子危うきに近よらず
鹿を追う者は山を見ず
情けは人のためならず
論語読みの論語知らず
井の中の蛙大海を知らず
ローマは一日にして成らず
二兎を追う者は一兎をも得ず
虎穴に入らずんば虎子を得ず
ちょっと、「打消」の助動詞「ず」の活用形を見てみましょう。
未然形 | 連用形 | 終止形 | 連体形 | 已然形 | 命令形 | |
ず |
ず
ざら |
ず
ざり |
ず
|
ぬ
ざる |
ね
ざれ |
ざれ |
「ず」の終止形以外の活用形が用いられていることわざや故事成語もあります。
武士は食わねど高楊枝
雉(きじ)も鳴かずば打たれまい
過ぎたるはなお及ばざるがごとし
なお、「疑心暗鬼を生ず」のような表現には注意してください。
「生ず」は「生じる」という意味の動詞ですから、ここには「打消」の助動詞は使われていません。
(ivy 松村)