今日、二中の中間テストが終わり、塾内生の通うすべての中学の中間テストが終わりました。
生徒や中学校にとってはテストの実施日は1、2日ですが、塾にとっては、実は、今年の2学期の中間テストは約1か月の長丁場だったのです。
小山中学の中間テストは去る1か月前、9月17、18日に行われました。小山中学を皮切りに、毎週どこかの中学の中間テストが入れ替わり立ち代わりに行われるという目まぐるしいひと月でした。
しかも、その間に数検と英検を実施しました。
少し授業を変則的に運営したりしましたが、それは、生徒のみなさんに良い結果を残して欲しいという思いからのことだと理解していただけるとありがたいです。
早い日程で中間テストを終えたところでは、答案も返却されています。平均点の公表も終えたところもあります。
現在把握できている限りでは、テスト勉強への取り組みの「質」が、歴然と得点に反映されています。指示通りに勉強を積み重ねた生徒とそうでない生徒で、くっきりと明暗を分ける結果となっています。
質の高い取り組みを続けた生徒は、1学期の期末と比べて、5科の合計点が30~50点上昇しました。
なかでも、中3のがんばりは目を見張るものがありました。
全員が1学期の期末の5科の合計点を大幅に上回りました。平均で、37.75点の上昇です。
もっとも顕著に成績を伸ばした生徒は、5科で46点上昇し、特に国語はおそらく学年1位であろうというところまで点数を伸ばしました。
さすがに受験生だけあって、「言われたことを、言われた通りに」きちんと取り組んでくれました。「点数を上げるためにするべきこと」を伝えているのですから、それを行えば、当然点数は上がります。
本当に、「ただそれだけのこと」です。
(1、2年生の生徒たちに見習ってほしくて、このような書き方をしています。私は、中3のみなさんの誠実な努力の継続を、ずっと見続けています。)
中学生は、「定期テストレポート」を書いてもらっています。
テストを振り返って、反省や発見を次回に活かしていかなければいけません。
そのための最初のステップです。
すでに、期末テストのための取り組みを始めている生徒もいます。
「必要な量」「じゅうぶんな量」の勉強をするためには、1週間や2週間では足りないということがわかったと思います。
また、学校の先生の指示や説明に対して、「直接」に対処していかなければならないということも理解できたと思います。
テストの「範囲」となるのは、「授業の内容」です。
加えていうなら、さらに教科書やプリントなど、授業で使われる「教材」です。
まずは「授業をしっかり聞いて、しっかりノートをとる」ということが、一番のテスト対策です。
そして、「教材」の内容をしっかりと覚え、理解できるまで何度も確認しておきます。
さらに、そのうえで、覚えるべき「事項」を網羅的に暗記していくのです。そのために、「ワーク」を有効に活用します。
学校の先生の中で、自分の教務力に自身のある先生や惰性で仕事をしている先生が「一般的ではない」授業をすることがあります。
特に社会科で、教科書を無視して授業をする先生が多くいます。
その授業内容が優れているかどうかはともかく、5科で、そのような先生が担当となってしまった場合には、あらためて「正統な学習」をしておかなければなりません。
「本来なら習うはず」の学習内容は入試に直結するものです。また、高校での勉強の基礎となるものです。さらにいえば、日本社会で生きていく上での「常識」となるものです。
ですから、定期テストに出題されないからといって、「教科書の内容」をなおざりにしていいというわけにはいかないのです。
「独自の問題」が出題される定期テストの対策であっても、整理された単元の「ポイント」を、まず、地道に覚える作業から始めなければならないのです。
社会のテスト対策は、非常に細かく指示を出しました。
言われた通りにやり切った生徒は、当たり前のように成績を伸ばしました。
中3の生徒は、社会の点数が平均で14.75点上がっています。
得点も、80点台後半から90点台の生徒がほとんどです。
この「上げはば」はほぼ「MAX」に近いものだといえます。
単純な真理です。点数を取るための勉強をすれば、点数が上がるのです。
中3の生徒たちも、かなりの自信を持ってテストに挑むことができたようです。
「なんとか75点ぐらいとれてたらいいな~」というような低い意識ではなく、「最低でも95点を取る」というように、明確な目標と意志を持ってテストに挑みたいとは思いませんか。
今週の土曜日(金曜日)は月例テストが行われます。
18時10分には校舎に集まるようにしてください。
月例テストが終わったら、さっそく期末テストに向けてスタートを切りましょう。
勉強の取り掛かりに、「早すぎる」ということは皆無です。
(早く始めた「せい」で、途中でだれてしまう、というようなことを心配する人がいるかもしれませんが、その人は、そのアホな発想をよく省みてください。「だれてしまう」のは「早く始めたこと」が原因ではありません。)
ところで、話は全く変わるのですが、以前このブログで「勉強の王道を歩んでください」と書き記しました。
鋭い人は気づいたと思いますが、これは「学問に王道なし」ということわざを意識したものです。
2週間ほど前から、教室の間の通路に「英語のことわざ」を掲示しています。
ぜひ、探してみてください。その中に「There is no royal road to learning.」が載っています。
「学問に王道なし」というのは、これを日本語にしたものです。
このことわざの意味は、「学問には『楽な道』はない」というものです。つまり、何かを学ぶためには苦労が必要なのだ、という教えです。
ちょっと奇妙な感じがするでしょうか。
ここで使われている「王道」という言葉は「royal road」の訳です。
古代帝国の王は、王だけが使用できる専用の道を通って、誰よりも速く快適に旅行したり移動したりすることができたのです。
「王」は、その権力を使って楽な方法で物事を解決してしまう存在である、と考えられているわけです。
このことわざは、どんなに偉い「王」であっても、学問を学ぶときには「楽な道」や「近道」を行くことができないということを述べているのですね。
すぐに「楽な方法」を求めたり探したりするような人をたしなめる言葉なのです。
私のいう「勉強の王道」は「royal road」という意味でありません。
日本語に定着している「王道」という言葉は、もともとは中国の儒教思想に由来するものです。
「人の上に立つ君主」が行うべき理想の政治のあり方を「王道」といったのです。
そこから、「王道」は「正統なやり方」とか「正攻法」、「基本の形」といった意味で使われるようになりました。
辞書を引いてみると、これが1番目の意味で出てきますね。
ということで、私のいう「勉強の王道」の「王道」(正統なやり方)は、「royal road」の「王道」(近道)とはまったく正反対の意味だったのです。
そして、「勉強の王道を歩む」ということと「学問に王道なし」は、実は、同じ内容を述べているということになるのです。
面白いですね。
言葉には、しばしこのような奇妙な「転倒した意味の両立」が起こります。
他の例としては、「感覚」が挙げられます。「感覚」は本来「視覚・聴覚・嗅覚・触覚・味覚」=「五感」で感じるものを示す言葉でした。しかし、今では「五感」以外で、何となく意識される事柄のことをも表します。
また、「いい」という言葉は「良い」という意味と「欲しくない、望まない」という意味を持っています。
あとは、「犬も歩けば棒に当たる」ということわざを挙げることができます。これは、「ひどい目に合う」という意味で使われたり、「思いがけない幸運にあう」という意味で使われたりします。
さて、あらためて「王道」の話題を持ち出したのは、一部の人たちに「楽な道」の誘惑を捨て去ってもらうためです。
期末テストまであと1か月です。
どのような道を歩むつもりでいますか。
(ivy 松村)