毎年、入試の時期になると、生徒が受験する高校まで「入試応援」に行くのですが、高校の先生方から「ご苦労様です。」と声をかけていただくことがあります。
ねぎらいの言葉をもらうと、やはりうれしい気持ちになるのですが、最近、この「ご苦労様」はずいぶん「誤解」されているようです。
少し前に、大阪の選挙で、選挙管理委員の方が、投票に来た住民の方に「ご苦労様です。」と声をかけたら、激怒されて、ちょっとした「事件」になってしまったというニュースがありました。
腹を立てた人の「言い分」は、「ご苦労様」は「目下の者」に対して使う言葉であるというものでした。つまり、自分は見下されたと思ってしまったということなのでしょう。
こういうニュースはとても怖いと感じます。そう感じる人がいるのなら、「ご苦労様」は使わないようにしよう、と思ってしまう人も多いと思います。
・「目上の人」に対しては「お疲れ様」
・「目下の人」に対しては「ご苦労様」
このように思い込んでいる人は少なくありません。
これは、明らかな「間違い」です。
しかし、そのような認識が広まりつつあります。
古い小説やドラマあるいはマンガなどを見ていると、「ご苦労様」という表現がよく出てきます。
たとえば、サザエさんの家に配達に来た酒屋のサブちゃんに向かって、サザエさんが「ご苦労様。」と声をかけます。
これは、サブちゃんが「目下」だからではありません。
仕事から帰ってきて、疲れた様子のマスオさんに、サザエさんが「ご苦労様でしたね。」と声をかけます。
もちろん、マスオさんが「目下」だからではありません(よね)。
パトロールをするお巡りさんに対して、「ご苦労様です。」と地域の人が声をかけるのは、昔はありふれた光景でした。
若いサラリーマンが、株主総会に出向く社長に向かって「ご苦労様です。」といって頭を下げる場面もあります。
「ご苦労様」は「目下の人」に対してのみ使うものではありません。
「つとめ」を行っている人に対して使われる「ねぎらい」の言葉なのです。
サブちゃんは酒屋の「仕事」としてサザエさんのうちに来ています。
マスオさんは、「家長」としての「つとめ」を日々果たしているわけです。
言うまでもなく、お巡りさんは、その「つとめ」に対して「ご苦労様」と声をかけられたわけです。
同様に、組織の長であっても、その「つとめ」として行動しているときには、「ご苦労様」と声をかけるのが正しいわけです。
また、冒頭の「入試応援」の例では、私は塾の教師の「つとめ」として高校に出向いているわけですから、「ご苦労様」と声をかけていただくのが正しいわけです。
そして、ニュースになった「ご苦労様」ですが、選挙管理委員の方は、住民(市民)の「つとめ」として投票に来られたという認識で、そう声をかけたわけです。
「ご苦労様」は、本来、責任や義理にともなう労務を行っている人に対して、いたわりの気持ちをあらわす美しい言葉なのです。
「ご苦労様」の「誤解」が広まっていくのを、しのびなく思います。
逆に、例えば、趣味で山登りや魚釣りなどに行って、疲れて帰ってきた人に対して「ご苦労様」は、おかしくなります。好きでやっていることに対しては使わないわけです。
このようなまちがいが広まった背景を考えてみました。
まず、「目上の人」は「ご苦労様」を使うことが多いということが挙げられます。
会社のような組織の中で、日常的に「上司」は「部下」に指示を出します。
その任務を果たしたときに、「上司」は「部下」に「ご苦労様」と声をかけることになります。
なぜならば、「部下」は、組織のなかでの「つとめ」として行動しているからです。
「ご苦労様」は、その「状況」によって選択される言葉なのですが、「目上の人」が「目下の人」に対して頻繁に使うので、固定的な「立場」によって使用される言葉であると勘違いしてしまう人が増えたわけです。
そして、そのために、「上下関係」を明らかにする目的で使われる例がみられるようになってきました。
まあ、つまり、くだらない行為だと感じますが、「自分はお前より『目上』だ」ということを相手に突きつけるために、「ご苦労様」を使うような人がいるわけですね。
(こういう人はちょっと滑稽ですよね。)
いずれにしても、その結果、「ご苦労様」は「目下の者」に使う言葉であるという認識が強化されたのです。
さらに、大きな影響を及ばしているのが「ビジネスマナー屋」の存在です。会社の研修などでビジネスマナーを教える仕事をしている人たちがいるのですが、要するに、この人たちが「ご苦労様」の「間違った解釈」を広めてしまったわけです。
私は、「ご苦労様」はとても美しい言葉だと思っているのですが、最近は使うのがはばかられるようになってきました。
「目下の人」に対して使う言葉だと信じる人が増えてきたからです。
相手のことを慮ればこそ、「ご苦労様」が使えなくなっていくわけです。
「コンビニ敬語」に対しても同じようなことがいえると思います。
相手が「過剰な敬語」を求め、それを使わないことをとがめるのであれば、相手のために、わかっていてもまちがった言葉づかいをすることがあります。
結局、言葉は、正しいかどうかよりも、相手への配慮が優先されるという性質を持っているということなのでしょう。
「言葉」はコミュニケーションを媒介するものです。
「言う側」と「言われる側」という主客を反復的に結び付けます。
ですから、両者の心理的な作用によって変質していくわけです。
「言われる側」の心理というものも、実は非常に大きな要素になっていると思います。
そんな浮世で、正しく「ご苦労様」と声をかけていただくと、本当に元気が出てきます。
(ivy 松村)