先述したように、一般的には、秀吉の人生の「色彩」は、前半と後半で大きく異なっていると考えられています。
その「人物像」が、劇的に変転するとみなされているわけです。
そのため、大河ドラマなどで秀吉を演じるのは、軽妙な演技と重厚な芝居の両方ができる役者でなければなりません。
数多くの実力派俳優が、歴代の大河ドラマで秀吉を演じてきました。
中でも、竹中直人さんの『秀吉』は高く評価されています。
後半の脚本は意見が分かれるところだと思いますが、多くの人が、「秀吉といえば、竹中直人」と思い浮かべるまでに「完璧な秀吉」を演じられました。
(竹中直人さんは、ちょっと「いたずら好き」なところがあるような気がしていて、石田三成を演じる真田広之さんの顔面を容赦なく泥水に押し付けて罵倒したり、秀吉の弟秀長を演じる高嶋政伸さんが死ぬ場面で、執拗に高嶋さんの体を揺らして叫び続けたりする演技をしていて、それは、おそらく「アドリブ」なのだろうと思いますが、「鬼気迫る演技」と「ギャグ」は紙一重なのだなあ、と改めて思い知らされたのです。そのときの真田さんや高嶋さんの「表情」がいまだに忘れられません。)
私が特に好きなのは、『独眼竜正宗』で秀吉を演じた勝新太郎さんです。
勝新太郎さん扮する秀吉に、若き日の渡辺謙さん扮する伊達政宗が「謁見」する場面は、歴代大河ドラマ屈指の名場面であるとされています。
その場面で、勝新太郎さんは、周りの演者、スタッフを完全に「支配」していました。
圧倒的な存在感、威圧感で、役者として、そして絶対的な権力者である秀吉として、勝新太郎さんは、そのシーン全体を制圧し、飲み込んでしまっています。
「勝新太郎」という役者にとっては、自らの器量でその場を飲み込んでしまうことさえ、「計算」だったのでしょう。稀代の名優にとってみれば、「秀吉の貫禄を演じた」だけのことなのでしょう。
そんな勝新太郎さん扮する秀吉の「登場の場面」に脚光が集まりますが、その「去り際」、つまり秀吉が死ぬ場面は、それにまさるとも劣らない名演です。
その弱々しく憫然たる「死様」は、「衝撃的」でさえあります。
権力の絶頂にあった「天下人」が、憐れみを乞いながら息を引き取るまでの、瀕死の所作と表情から、目を離すことができません。
勝新太郎さんは、おそらく、この「死様」と「登場の場面」を同調させて演じています。
つまり、「登場の場面」が引き立つように「死様」を演じ、また、「死様」をより印象付けるために「登場の場面」を演じているわけです。
それだけでなく、数々の場面で見せる傲慢、豪壮、奢侈な振る舞いは、すべて「死に際の演技」のための「伏線」であったはずです。
徹底的で綿密な構成力と、それを可能たらしめる卓越した演技力。何もかもが「けた外れ」の俳優だと思います。
私がイメージする「秀吉像」に、もっとも近いのが勝新太郎さんの「秀吉」です。
秀吉は、きっと若いころから、才覚と風格をみなぎらせた武将だったのだろうと想像します。
(ivy 松村)