『みかづき』を読んで①

お正月の休みを利用して、森絵都さんの『みかづき』を読みました。

数か月前に購入して、読む機会をうかがっていたのですが、読了することができました。

(生徒たちに、正月はどのように過ごすのか聞かれて、その度に「本を読む」と答えていたのですが、実は、この小説を読んでいたのです。)

 

 

これは、おそらく、学習塾を舞台とした、初めての「本格的な小説」になると思います。

 

 

読後しばらく、「もやもやした感じ」が続いていたのですが、その原因は、私が「塾の人間」としてこの作品を受け止めようとしていたからだと気付きました。

そこで、「塾目線」をしまい込んで、改めてこの小説をとらえ直してみると、いろいろなことがよくわかってきました。

 

 

 

『みかづき』には、複雑な「親子関係」が描かれます。

 

 

数代の親子の系譜とその人生、時代を描くストーリーは、割と古典的な文学の題材です。

代表的な作品として、ユン・チアンさんの『ワイルド・スワン』があります。この作品は、もしかすると、『みかづき』の構想に影響を与えているかもしれません。

 

 

 

タイトルの「みかづき」は学習塾のメタファーです。学校は「太陽」です。

学習塾は、学校という「太陽」の光を与えられなければ、自身に光をともすことができない「二次的」な存在であるというわけです。そして、学習塾がいまだ十分に成長していない存在であることを示しています。

 

 

また、「みかづき」というモチーフは、登場人物それぞれが抱える「欠落」を象徴しているととらえることができると思います。

 

『みかづき』の登場人物は、みな、それぞれ何らかの「欠落」を抱えて生きています。

 

彼らは、物語の中で、それぞれ、家族の誰かを傷つけたり、疎外したりする「大きな決断」をします。その決断は、それぞれが抱える「欠落」に起因しています。

 

この小説は、途中で「視点人物」が入れかわる独特な構成になっていますが、それは、「大きな決断」の際の葛藤を、「あえて描かない」ためなのだろうと思います。家族のきずなを打ち砕くような蹉跌と喪失が何度も訪れつつも時代は刻々と流れていく、そういった「演出」の意図を感じます。

 

 

この小説を読んで、私が持った「違和感」のうち最も大きなものは、吾郎が「大きな決断」をした際の葛藤が描かれていなかったことでした。

これは、私自身に、「自分の経験」を重ね合わせて読もうとする心理が働いたためなのだろうと思います。

 

 

 

また、私は、序盤の主人公である吾郎の「視点」を保ちつつ読み進めようと試みたのですが、そうすると、ちょっと見えてこない「部分」がありました。

 

 

実は、この小説世界の「軸」は、「赤坂の血脈」の方にあって、吾郎の存在は、いわば「媒介」であるといえます。

 

頼子→千明→蕗子→一郎という系譜に、吾郎の血筋はかかわっていません。

 

「赤坂の血脈」を「軸」にして物語の「構造」をとらえ直してみると、ある家族のもとに「まれびと」が訪れ、福をもたらす(そして去っていく)、という実にプリミティヴな物語の展開を見出すことになります。

 

 

そして、父親不在という「欠落」をかかえた「赤坂の血脈」、それもまた、「みかづき」であるといえるわけです。

 

吾郎は、学校という公的な場所から、赤坂家が営む学習塾、「私的な」空間へと転じます。

 

つまり、「役割論」的な読み方をすれば、吾郎は、「太陽」から「月」に向けて放射された「光」であるということになります。

 

 

この小説は、吾郎という「太陽の光」を蓄積し、「欠落」を満たしていく「赤坂の血脈」の物語でもあるわけです。

 

 

 

(ivy 松村)

 

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