国際政治学講座①(「ポスト・トゥルース」)

学習塾のブログに「政治的な内容」を書くのは「不相応」かもしれません。

しかし、あえて書いてみることにしました。

 

最近、「政治的なこと」について、つらつら考えていて、ちょっと、考えたことを整理しつつ書き留めてみようと思い立ったのです。

 

勉強や受験のこととは関係のない内容なので、興味のない人にはあまりおすすめしませんが、せっかく書いたものなので、お読みいただけると嬉しく思います。

 

 

一点、注意いただきたいのは、この記事は、私の政治的な立場を表明したり、政治的な意見を公開したりするものではないということです。その点は、気を配って書いたつもりです。

もし、そのように読み取れるとしても、それは私の意図するところではありません。

 

 

もう一点。生徒たちに、政治的な意見を人前で述べるのは、できれば慎んだ方がよい、というようなことを述べたことがあります。

それは、「政治」を対象とした「議論」には、「十分な知識」と「議論のマナー」の装備が不可欠だからです。

自分と相手が、ともに、「政治の議論」をするうえで「十分な資格」を持っている場合には、建設的な意見の交換が可能です。

10代、20代に、もし、そういった友人関係を持つことができたとしたら、それは「一生の財産」となるでしょう。

また、生徒のみなさんには、すこしずつ経験を積み、公共の場で、堂々と自分の意見を表明できる人になってもらいたいとも思っています。

 

 

ここで試みようとしているのは、どちらかというと「学問的な取り組み」に近いものです。ですから、「政治的な意見」の表明とは次元の違う話なのだとご理解ください。

 

 

 

さて、きっかけは、「ポスト・トゥルース」という言葉でした。

 

最近、社会評論や国際情勢をあつかった記事の中で「ポスト・トゥルース」という言葉が取り上げられるようになってきました。

日本では、「ポスト真実」と表記されることもあります。

 

「ポスト・トゥルース」というのは、簡単にいえば、「真実」が「軽視」されることをいいます。

 

客観的な「根拠」に基づいた「情報」ではなく、思い込みや感情を優先させるような「政治的な判断」のことを指すものだとされています。

 

 

「でっち上げられた情報」によって人々が「動員」されている現代の社会・政治状況に対する危機感を表す言葉として注目されているわけです。

 

 

一部の識者は、「ポスト・トゥルース」という言葉を、イギリスのEU離脱やトランプ・アメリカ大統領誕生という、大きな国際政治の「うねり」が起こった2016年を象徴する言葉であると考えています。

 

つまり、「ポスト・トゥルース」は、なぜ、イギリス国民やアメリカ国民が「誤った判断」をしたのか、を端的に説明するワードであると考えられているわけです。

イギリスのEU離脱に同意する投票をした人々やトランプ大統領に投票した人々は、「真実」と向き合っていないためにそのような「誤った判断」をしたのだと考えられているわけです。

 

このワードに依拠して社会評論を試みようとする論者は、インターネットなどに蔓延する「虚偽のニュース」などに扇動されて「世論」が形成されるというような、現代社会の「危うい状況」を想定し、危惧しているわけです。

 

 

 

しかし、私は、「ポスト・トゥルース」という言葉をことさらに喧伝するジャーナリストや専門家たちは、いくつかのことを見落としていると思います。

 

 

まず、「真実」(truth)というものは、厳密には「主観的なもの」です。

「真実」という言葉が示すのは、誰もが同じように判断できるというような「内容物」ではありません。

ゆえに、「何が真実か」を言い争うことは、しばし不毛な「水掛け論」に終始します。

 

 

誰もが合理的に同様の判断ができる、科学的、客観的な記述については、これを「事実」(fact)といいます。

 

たとえば、「私の体重は80㎏である」と言えば、それは「事実」です。

 

しかし、もし、「私は太っている」と言えば、それは「主観的なもの」です。

個人、あるいはある特定のグループの認識として、それを「真実」であると主張することは可能ですが、「自分は、そう思はない」と考える者が現れるかもしれません。

 

そもそも「真実」という概念は、「法律」や「理論」のような、「相手」を納得させることができる共通の判定尺度や基準を用いなければ、正当な評価が与えられるものではないのです。

 

 

 

さらに、「真実」よりも個人の都合や感情が優先されるということは、何も現代に特有の事象ではないということが挙げられます。

太古の昔から、私たち人間は、不都合な「真実」よりも、個人や己の帰属集団の都合や感情を優先させてきました。

その意味では、何も現代が、取り立てて「特異な状況」にあるというわけではありません。

 

そもそも「政治的な判断」は、「真実」の探求などではなく、「価値」に基づく「決定」です。

 

 

 

そして、最も注意深く考察しなければならないのは、「ポスト・トゥルース」論に通底する、強固な「バイアス」です。

 

インターネット上に「虚偽のニュース」が蔓延することによって、「真実」が「軽視」されるという「理屈」は、ある意味で一面的な視角であるという指摘が可能です。

 

単純に、新聞やテレビ等の「メジャーなメディア」も嘘をつくではないか、という「反論」がありえるわけです。

 

その意味で私たちは、「ずいぶん昔」から、「ポスト・トゥルース」の時代を生きていることになります。

 

 

 

このように、「ポスト・トゥルース」論は、少しばかり性急というか、強引なロジックです。

 

 

しかし、こうした「問題提起」によって、現代社会を特徴づける、ある「対立の構図」を浮き彫りにすることができます。その考察は、とても有意義であると思います。

 

 

それは、すなわち、

 

・「メジャーなメディア」対「インターネット」

 

です。

 

 

さらに、これに、

 

・「グローバリズム」対「自国民優先主義」

 

が重なります。

 

 

 

(ivy 松村)

 

 

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