国際政治学講座③(「移民」)

イギリスのEU離脱、そしてトランプ大統領の政策は、ともに「移民」という象徴的なトピックを、重要な争点としています。

 

「良識派」の人々は、社会は、「移民」に寛容であるべきだと考えます。

ところが、その言説に賛同が得られなかったわけです。

 

その「結果」にショックを受けた人々は、世界に「悪意」が蔓延しつつあると考えてしまうかもしれません。そして、「移民」の存在を憎むような、劣悪な精神を持った「排外主義者」が増殖しつつあることを憎悪するかもしれません。

 

もちろん、世の中には愚劣な感受性を持った人間もいるのでしょうが、英米両国の半数以上の人をすべて「まともではない」とみなすのは、ちょっと現実味がないというか、常軌を逸しています。

 

私たちに必要なのは、「人間性の識別」などではなく、その「動機」を知ることです。

 

 

実際には、「彼ら」の不満の大部分は、「移民」に寛容な「社会構造」に向けられています。

 

要するに、「グローバリズム」の進展によって、自分たちの社会が不安定なものにさせられていると、「彼ら」は考えているわけです。

 

 

 

「グローバリズム」を推進しようとすれば、必然的に「移民」に寛容な「社会構造」が構築されます。

「自国民」の「労働者」よりも「移民」の「労働者」のほうが、「生産性」が高いからです。

 

「グローバリズム」は、「自由な経済活動」を阻害するあらゆる「垣根」を取り払おうとします。

そして、国内外を問わず、より「コスト・パフォーマンス」の高い人材・機材・システム等の「産業的リソース」が選択されるわけです。

 

 

 

「移民」に寛容であるということは、裏を返せば「自国民」を冷遇しているというとらえ方にもなります。

 

西欧諸国やアメリカ合衆国で「反移民」を掲げる政治勢力が伸長しているのは、「移民」に寛容な「社会構造」が固定化されることによって、自分たちの生活が逼迫させられていると考える人々が増えているからです。

 

また、「移民」は、「犯罪」や生活上の軋轢を増加させ、「社会不安」を大きくさせると考える人もいます。

 

 

「反移民」の立場を表明する人々は、「移民」は「優遇」され、自分たちは「我慢を強いられている」と考えます。

つまり、自分たちを、虐げられた「弱者」であると規定しているわけです。

 

 

一方、「移民」に寛容な人々は、「移民」は虐げられた「弱者」であると考えます。

彼らを助けることは、「正義である」と信じているわけです。

 

 

 

「移民の問題」はしばし「人権問題」と結合します。

「反移民」の立場を取る人々は、「移民」の「人権」は過剰なまでに守られているのに対し、自分たちの「人権」はないがしろにされていると考えます。

 

こういった「主張」に対して、「生産性」を重視する人たちは、「能力」の劣った者が、「公平な競争」のもとで敗れるのは仕方がないではないか、と考えます。

自らの「劣等性」を他者の責任に転嫁する卑しい戯れ言のように思われてしまうわけです。

 

しかし、この「主張」は、一見、早々に「論破」されてしまう「幼稚な感情論」のように思われて、実は、非常に核心的です。

 

 

社会科学の基礎的な素養を持つ人間は、「国家」(政府)の役割は「自国民」の生命と財産を守ることであるという「根本」を思い出すことができます。また、基本的に、憲法等に定められた「人権」を有すると認められるのは、「自国民」だけであることも知っています。

 

 

つまり、民主的な近代国家の政府は、原則的に、「自国民」を優先的に「保護」する義務を負っていると考えられるわけです。

 

 

その意味では、「反移民」の主張には、「根拠」があるのだともいえてしまうわけです。

 

 

 

さて、「移民」に寛容な人々には2とおりのタイプがいると考えられています。

 

あるグループは、「移民」の「労働力」に期待しています。「移民」が増えたほうが「得をする」という立場の人々です。ある意味で、「自国民の生活」よりも「経済(会社)の発展」に重きを置いているわけです。

 

さらに、別のグループは、単純に「人道的」な見地から、社会的に弱い立場の人々の力になりたいと考えている人たちです。

 

 

それにしても興味深いことに、その他すべての観点においては、おそらく対立するであろう2つの「立場」が、「移民」というトピックにおいては意見が「一致」するわけです。

 

 

(ivy 松村)

 

 

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