国際政治学講座⑥(「共生」と「公共性」)

冷戦後、21世紀の「先進国」では、「リベラル的理念」にもとづいた「社会観」が浸透します。

すなわち、「違った文化的背景を持った人々」との「共生」が、来るべき世界の在り方であると考えられるようになったわけです。

 

冷戦の終結によって、「思想的支柱を失った人々」には、「新しい方向性」が必要だったのかもしれません。また、「グローバリズム」を推進しようと考える人たちにとっても、異論はなく、むしろ都合の良いものだったのでしょう。

 

 

こうした「リベラル的理念」は、人間性への「踏絵」となりました。

 

「先進国」では、「違った文化的背景を持った人々」に対して「寛容」であることが、人間的度量、善良さ、誠実さ、品性、清廉性等々を示す「徳目」であるとみなされるようになったわけです。

 

 

 

「社会の包容力」が拡大し、世界は、一歩、あるべき形に近づいたといえるのかもしれません。

 

しかし、それはまた同時に、こうした国々の社会に「反動的な葛藤」を生じさせることとなったのです。

 

 

 

フランスの「公共性」についての議論は、象徴的な例です。

 

フランスには、公共の場に「宗教的な意匠」を持ち込まない、という「社会的な了解」があります。

フランスは、キリスト教宗派の対立によって、宗教戦争をはじめとする、社会的疲弊を何度も経験しました。

公共の場から「宗教」を分離させるというのは、こうした対立を克服するために必要な「対価」であるというわけです。

 

つまり、伝統的なフランス人は、社会の成員一人ひとりが「自制」をすることで、「公共性」が保たれると考えているわけです。

 

 

 

そのような「文化」を持つフランスで、近年、イスラム教徒の住民が、学校などの「公共の場」で宗教的な服装を改めないことが問題となっています。

 

「リベラル」な考えの持ち主は、彼らの「文化的価値観」を認めるべきである、と主張します。そして、マイノリティに「同化」を強いるのは「排他的」な行為であり、下劣な行いであると考えます。

 

 

一方、伝統的なフランス人は、一部の人間だけに「特権」を認めるべきではないと考えます。

 

「特定の文化」の「特別扱い」が許されるのであれば、それは「不平等である」ということになるわけです。

 

 

 

「答えのない問い」なのでしょうが、こういう場合、おおかた、フランスという国では、「フランスの文化」が優先されそうに思えます。

 

ところが、フランスに限らず、「先進国」のこうした「文化的摩擦」は、多くの場合、「リベラル的言論」が優勢を保ちました。

 

「リベラル的言論」は、マスコミや学校といった、「社会的影響力」の強い「情報発信」と密接に結びついていたからです。

また、「グローバリズム」を推進しようと考える経済・政治リーダーも、「リベラル的言論」に同調します。

 

そして、「リベラル的言論」を否定することは、「良識的に困難だった」のです。

 

 

 

「リベラル」は「弱者」を支援し、融和的な社会の実現を目指したわけですが、皮肉なことに、その過程で「不平等」を生み出すことになったのです。

 

 

こうして、「先進国」では、社会の「表層」を「リベラル的言論」が覆い、その皮下で、不満と反発が醸成されていくことになったわけです。

 

 

(ivy 松村)

 

 

 

 

 

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