国際政治学講座⑦(「インターネット」)

「インターネット」は、よく知られているように、米軍の通信技術が冷戦後に民間に開放され、発展したものです。ある意味で、冷戦後の世界を端的に象徴するテクノロジーであるといえるのかもしれません。

 

 

発展途上段階の「インターネット」は、「カウンターカルチャー」としての側面を強く持っていました。

そのため、しばしある種の「抑圧された声」がダイレクトに投影されました。また、その「立ち位置」から、「メジャーなメディア」への「対抗手段」としての役割を果たすことになりました。

 

おのずと、「メジャーなメディア」は「リベラル的言論」のフィールドとなり、「インターネット」はそれに抵抗する言論のフィールドとなったわけです。

 

 

このような「構図」から、一般的には、新聞やテレビは、社会的に「正統な」メディアであり、「インターネット」は未熟で、脆弱なメディアであるとみなされることが多くあります。

 

 

 

しかし、この数年で急激に「状況」が変化しています。

 

 

「インターネット」は、的確に「民意」を反映する「鏡」としての「価値」を帯び始めています。

 

その最大の要因は、スマートフォンの普及です。

それにより、「インターネット」への参入の「ハードル」が下がり、より多くの人が「インターネット」を活用するようになりました。

 

 

2016年~2017年は、「インターネット」の「機能」と「影響力」が、「メジャーなメディア」を「オーバーテイク」した「転換期」として、のちの歴史に刻印されることになるのかもしれません。

 

「インターネット」は、双方向のコミュニケーションが可能で、速報性があり、容易に情報へのアクセス、閲覧が可能です。また、文字、画像、音声、動画そしてプログラミングなど、あらゆる情報をあつかうことができます。さらに近年、端末の進化によって、携帯性・操作性・情報の保存性においても既存のメディアを凌駕しました。

 

 

今日、「インターネット」は、極めて日常的な「情報インフラ」として稼働しています。

「一般的な人々」が、容易に「インターネット」にアクセスし、情報を送受信する時代が到来したのです。

 

「インターネット」は、かつてのように、ごく一部の「偏執的な人々」が集う「空間」ではなくなっています。

 

しかし、そのことに、まだ気づいていない人々も、数多くいるのかもしれません。

 

 

 

さて、もう一度「ポスト・トゥルース」の議論を呼び起こしてみましょう。

 

「ポスト・トゥルース」は、なぜ、イギリスのEU離脱とアメリカ合衆国のトランプ大統領の選出という「誤った判断」が下されたのかを説明する「理屈」として注目されました。

それは、「インターネット」に蔓延する「虚偽のニュース」などに「扇動」された人々が「誤った判断」をしてしまった、というようなことを論じるものでした。

 

 

これまでの考察をふまえると、「ポスト・トゥルース」という言葉を用いて「非難」されているのは、「反グローバリズム」=「自国民優先主義」の「動き」であることが理解できます。

 

 

2016年の2つの「投票結果」は、「自国民優先主義」の「流れ」が両国で「大勢」を占める状況を、可視的に示しました。

 

 

「グローバリズム」と「リベラル」を糾合した「良識派」ともいうべき勢力は、イギリスはEUを離脱するべきではなく、トランプ氏はアメリカ合衆国大統領に選ばれるべきではないと考えていました。

 

新聞やテレビ等の「メジャーなメディア」は概ねそれに同調していました。

 

「良識派」の人たちは、「結果」が明らかになるまで、自分たちが「リードしている」という「盲信的な確信」をもっていました。

つまり、「彼ら」が要求する「賢明な判断」が、多数を占めることになると信じ切っていたわけです。

 

ところが、結果は「真逆」のものでした。

 

「良識派」の人たちはその結果を受け止め切れず、混乱し、狼狽しました。

そこで、「どうして人々は『誤った判断』をしてしまったのか」を説明する「理屈」が求められたわけです。

 

 

かくして、「ポスト・トゥルース」論が持ち出されたということなのでしょう。

 

「人々」が「誤った判断」をしてしまったのは、「人々」が「でっちあげられた情報」に欺かれたためであるという「理屈」が提唱されました。

そして、それに「インターネット」が一役買った、という「筋書」になるわけです。

 

 

 

「良識派」の人たちは、「自分たちは正しい」という前提を絶対視し、「人々が誤った判断をした」という認識から、抜けきることができずにいるように見えます。

 

本来ならば、「人々」が、どのような動機で、どのような葛藤を抱きながら、どのような思いで「判断」を下したのか、を考えようとするでしょう。

 

ところが、「ポスト・トゥルース」論は、「思慮のない人たちが、低質な仕掛けに騙されて、愚かな判断をした」という「結論」に終始します。

 

 

結局のところ、「ポスト・トゥルース」は、合理的な分析アプローチなどではなく、党派的な「ラベリング」の戦略のように思えます。

 

「相手」に「ラベル」(レッテル)を貼り付けることで、「相手」が社会的規範から逸脱した存在であるという「認識」を強化したいわけです。

 

 

 

最後に、「インターネット」に蔓延しているとされる「嘘の情報」について、もうすこし考えてみましょう。

 

前世紀、まだ「インターネット」が民間で稼働していなかった時代にも、新聞やテレビ、雑誌等に、デマや憶測にもとづいた記事が載せられることはあったわけです。

もちろん、「マスメディア」が登場する前にも、時として人々は「嘘」の情報に惑わされたり扇動されたりしました。

 

つまり、「インターネット」だけに「嘘の情報」が集まるでわけはないのです。

あらゆるメディア、あらゆるコミュニケーションに、「嘘」が紛れ込む可能性があるのです。

 

 

「メジャーなメディア」もまた、都合の悪い情報を隠したりごまかしたり加工したりすることがあります。さらに、「嘘」の情報を発信するということも、これまでに何度もありました。

 

 

トランプ大統領は、「ツイッター」を使って「情報」を発信することで知られています。

それは、「メジャーなメディア」は自分の発言を「捻じ曲げる」と考えているからなのでしょう。

 

おそらく、トランプ大統領と彼を支持する人々は、「メジャーなメディア」こそが「真実」を「軽視」していると考えているに違いありません。

 

 

 

さらに、また、「インターネット」をとおして、「より信頼できる情報」を得られる場合もあるでしょう。

 

「インターネット」には、「メジャーなメディア」による報道を「検証」するサイトが数多く存在し、実際、そのいくつかは高い諒解性を持っています。

 

 

 

「インターネット」の「嘘」が頻繁に焦点化されるのは、その「嘘」が「深刻なもの」だからではありません。

 

 

単純に、「インターネット」に「嘘」があふれるのは、「インターネット」が、たやすく「嘘」を暴いてしまうからです。

 

「嘘」であると見破られた「情報」が、「嘘」として認定されるわけです。

 

 

「インターネット」には、たくさんの「情報」が集まります。

そして、それが「嘘」なのかどうか、多くの人間に検証されることになります。

 

「嘘」であると見破られた「情報」は、「そのこと」をすぐさま拡散されます。

 

 

ですから、「インターネット」には、「嘘があふれる」ことになるのです。

 

 

 

(ivy 松村)

 

 

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