暗記をしても社会で役に立たないという意見

歴史の年号を覚えることが社会に出て役に立つのか?と問う人がいます。この問いは幼稚で陳腐です。何よりも、知的ではありません。

 

この問いは、論理的に受け止めれば、学校や塾では、社会に出て役に立つことを教えるべきであるということを主張しています。

 

まず、第一に、初等教育、中等教育で学ぶべきなのは、経済活動における直接的な行動の指針ではありません。ここでいう「社会に出る」とは仕事を持つということと同義です。どうして学校で、仕事場における処世術を学ぶ必要があるのでしょう。

 

また、「役に立つ」とは、この場合、仕事をするうえで有益であるという意味にとれますが、即物的、世俗的な利益につながるものにこそ価値があるという安っぽい考えがにじみ出ています。

 

勉強は無駄であると思い込みたいのでしょう。それは自分の心の中に保持しておくべきことで、同調者を募ろうと、世間に向けて発するべきものではありません。児童・生徒の耳に届けるべき言葉ではないのです。

 

当然、仕事をもち、社会というつながりの中で生きていくことは意義あることです。子供たちもいずれ社会に出ていくでしょう。社会に出て必要なことは、生活をし、仕事をするなかで、怒られたり励まされたり褒められたりしながら身につけていくものではないでしょうか。もちろん、人間関係を築くうえで基本となるマナーやコミュニケーションは子供のうちに身につけておくことが望ましいものですが、教科学習で学ぶことではないと思います。

 

そもそも、この世の中にはたくさんの仕事があり、そこで求められる技術や素養は同一ではありません。あらゆる仕事に共通して「役に立つ」事柄だけを教えることは不可能です。

 

 

極論すれば、この世の中に絶対的に必要な知識はありません。時代や場所、社会や立場などによって、どのような知識が大切で価値があるかは変わります。つまり、何を覚えなければならないかは、究極的には、決定的なものではないということです。

 

それでも、年号を覚えることには意味があります。大事なのは、数字の羅列を記憶することではなく、「歴史」という観点から人類の営みやありかたに迫ろうとすることです。暗記は、そのための実に初歩的な手段です。概念や知識をより明確に、鮮明に収集することで、やっと学習の準備が整うのです。

 

さらに重要なのは、暗記が訓練であるという側面です。暗記に向き合い、知識を吸収しようと格闘し、努力することを通して、身につけられるものがあります。

 (ivy 松村)