連絡「連休中の勉強会」

連休期間の「勉強会」教室開放時間のお知らせ:

 

4月30日(木) 16時30分~

5月1日(金) 16時30分~

5月6日(水) 16時30分~

 

 

年間予定では、ゴールデンウィークは休校ということにしていたのですが、5/1と5/6日に、中間テスト対策などのための勉強に使えるように、校舎を開けることにしました。

さらに、4/30日も開放しますので、できる限り「勉強会」に参加してください。

 

 

中間テスト日程:

 

平山中・・・5月12日

小山中・・・5月14日、5月15日

ひよどり山中・・・5月14日、5月15日

七生中・・・5月15日

日野二中・・・5月22日

 

 

必ず、テストの日から逆算して、学習計画をたてること。

はじめて定期テストを受ける1年生は、必ず相談に来ること。

中間テストのない学校の人も、期末のテスト範囲のことを考えて、今のうちから取り組みを始めましょう。

 

 (ivy 松村)

「くだけた」言葉は「かっけー」のか?

「違う」という動詞は、一部の人たちに形容詞であると誤解されているようです。

そのために、文法に違反する使用法が生み出され、さらに、それに追随する人たちによって、誤った使われ方が広まりつつあります。

 

もうひとつの例証をみてみましょう。

 

形容詞は、話し言葉として使われるときに、強調を示す意図で、語尾が変化することがあります。

 

例:

暑い(あつい)→「あちー」

寒い(さむい)→「さみー」

長い(ながい)→「なげー」

旨い(うまい)→「うめー」

かっこいい→「かっけー」

 

語幹の最後が「ウ段」だと、「イ段」に変化して長音(伸ばす音)化します。

あ「つ」い(「つ」は「ウ段」)→あ「ちー」(「ち」は「イ段」)

 

語幹の最後が「ア段」(「オ段」)のときには、「エ段」に変化して長音化します。

な「が」い(「が」は「ア段」)→な「げー」(「げ」は「エ段」)

 

ちなみに、「おかしい」などの「イ段」の場合には、「おかしー」とのばされるだけですね。

「危うい」のような「ウ段」の場合は、なぜかそのままですね。

 

 

さて、「違う」についてです。

耳にされたことのある人も多いと思いますが、現在、「ちげーよ!」(違うよ)という言い方が広まりつつあります。

 

当然、このような言葉の運用方法は、形容詞の発話システムに準拠しているといえます。

 

ただ、やはり本来動詞である言葉を強引に形容詞と同じように使おうとしているので、「ちげー」だけでは形や音にともなう「意味」が不安定になってしまいます。そこで、「よ」という終助詞を「重し」に使い、力技で、形容詞の枠にはめようとしているのです。

 

こうした表現を生み出してしまう人は、「違う」が形容詞であるという感覚にとらわれているため、その音や形を、形容詞に合わせて「変化」させてしまうのです。

 

 

 

 

前回は、「違くね?」、「違かった」という表現を取り上げ、今回は「ちげーよ!」という表現を取り上げました。

 

 

 

これらの言葉づかいは、当然、日本語の正しい規則に整合したものではありません。

 

正しくないために、こうした「くだけた」言葉づかいが、年長である親や教師、上司、先輩などから注意されたり、たしなめられたりするのだと考える人もいるかもしれません。

 

しかし、それは、ちげーよ!

言葉づかいが正しくないためであるというよりも、「くだけた」言葉づかいをしてしまう人間が、ちょっと「みっともない」ためです。

 

 

若い世代が新しい言葉を生み出すという営為は、大昔から延々と続けられてきたことであって、ある意味でそれは普遍的な現象です。

日本語も、歴史的に大きく変化してきました。

 

逆にいえば、目新しいものにすぐにとびついて、その他大勢と一緒に流行を追っかけてしまうような人が、いつの時代にもたくさんいるのだ、ということでもあります。

 

若い時期に、社会や大人が定めたルールからはみ出ることを「かっこいい」と思ってしまうような人は、どの時代にも割と多くいるものです。

 

私にも十代の頃はありましたが、そうでなかったといえば嘘になります。

 

まあ、要するに、わざと「くだけた」言葉づかいをするような人たちは、どこにでもいるということですね。

 

 

はっきりいって、そういった心理も感性も、すべて予想どおりで平凡です。

何ひとつ特別なことはありません。

「くだけた」言葉は、ただの、ありふれた、単純で月並みな、個性のない俗物の一人であるというアピールにしかなりません。

 

 

もし、必死になって「くだけた」言葉づかいをしている人がいたら、やめたほうがいいと思いますよ。

 

 

(ivy 松村)

「違くね?」と思ったら、やっぱり「違かった」

今回は「違う」という言葉について考えてみたいと思います。

おそらく日本語の中で今、最も使われ方に乱れが生じている言葉が「違う」です。

 

前回は、「間違う」を取り上げました。

「間違う」は「違う」という動詞に接頭語の「間」がついたものでした。

 

似ていますが、意味は大きく違います。

「間違う」は、正しくない認識を持ったり、ふさわしくない応答をしてしまったり、適切ではない行動をとってしまったりすることです。

「違う」は、同じではないということで、「通常は」ネガティブな意味を持ちません。

 

 

さて、「違う」もやはり動詞です。

品詞としては動詞なのですが、この言葉は、どうにも動詞らしくないのです。

 

動詞を意味の上から説明するならば、「行為、動作、作用、存在」を表す品詞であるということができると思います。一方、形容詞は、「様子、状態、性質、心情」を表す品詞であるということができます。

 

「違う」は、意味からとらえると、「様子、状態、性質」を表しているといえますから、形容詞に近いと感じられます。事実、英語では「違う」に相応する訳語は「different」という形容詞です。

 

もちろん、英語にも「differ」という動詞がありますが、一般的に使われるのは「different」です。それは、「違う」という意味内容を告げるのには、形容詞である「different」を用いたほうが、より自然であると考えられているからでしょう。

 

 

 

「違う」はワ行五段活用動詞なので、以下のような活用をします。

(太字が活用語尾、「 」は接続する語の例)

 

ちが「う」   (未然形)

ちが「ない」  ( 〃 )

ちが「ます」  (連用形) 〈※ちが「た」(連用形):促音便〉

ちが「。」   (終止形)

ちが「とき」  (連体形)

ちが「ば」     (仮定形)

ちが「!」     (命令形)

 

 

未然形の「違おう」(意志)や命令形「違え」という形に少し違和感がありませんか。

「違う」の意味内容が形容詞に近い性質を持っているために、「行為者」の存在を想定することが不自然であると感じられるからでしょう。

 

 

 

さて、現在、上に示したような正式な活用を用いない「違う」の使われ方が広まりつつあります。

 

「違くね?」

「違かった」

 

というような言葉づかいです。

 

 

「違くね?」という表現を使う人は、この「ね」を、終助詞の「ね」と混同しているかもしれません。この「ね」は「ない」という助動詞が短縮されたものです。さらに、疑問・質問を表す終助詞の「か」が省略されています。

 

原形を再現すると「違わないか」となるでしょう。

 

「違かった」は、本来ならば、「違った」となるはずです。

 

 

 

言語の感性が鋭い方は、すでにお気づきになっているかもしれません。

 

これらの表現は、「違う」という動詞に、形容詞の活用をさせているのです。

 

形容詞の活用は一種類しかありません。「美しい」という形容詞で活用を確認してみましょう。

(太字が活用語尾、「 」は接続する語の例)

 

うつくしかろ「う」           (未然形)

うつくしかっ「た」           (連用形)

うつくしく   「なる」        ( 〃    )

うつくし 「。」           (終止形)

うつくし 「もの」        (連体形)

うつくしけれ「ば」           (命令形)

 

 

「違ね?」は、形容詞の連用形の活用である「く」を使っていることがわかります。

「違かった」も形容詞のもうひとつの連用形の活用である「かっ」を使っています。

 

 

 

文法事項の確認をしましょう。

 

動詞に、打消しの助動詞の「ない」を接続するときは動詞を未然形に活用させます。

ところが、とても紛らわしいのですが、形容詞を打ち消す「ない」を接続するときには、形容詞を連用形に活用させます。

形容詞を打ち消す働きをする「ない」は、「補助形容詞」とか「形式形容詞」と呼ばれる形容詞の一種です。つまり、「用言」なので、連用形になるのです。

 

「違わない」・・・「違わ」(動詞の未然形)+「ない」(打消しの助動詞)

「美しくない」・・・「美しく」(形容詞の連用形)+「ない」(補助形容詞)

 

 

動詞に、過去や完了の意味を持つ助動詞の「た(だ)」を接続するときには、動詞を連用形に活用させます。「違う」は、「音便」という特殊な活用をする動詞のひとつで、「っ」という活用語尾が現れます。(他に、「走った」「蹴った」「買った」などがあります。)

本来なら、「違った」としなければならないのですが、わざわざ、一音多くしてまで、形容詞の連用形の活用語尾を使い、「違かった」としています。

 

 

 

「違う」が、正しい活用で用いられないのは、この語が形容詞と勘違いされているからです。

 

その原因のひとつは、冒頭で述べたように、「違う」という語の概念が、形容詞の性質に近いからです。

 

さらに、大きな原因がありそうです。

 

「違う」の連用形と転成名詞はともに「違い」という言葉ですが、この語の形式が混同に拍車をかけていると考えられます。

つまり、「い」で終わるという語形が、形容詞の終止形と同一であるために、「違い」という形容詞が存在するのだと勘違いしやすくなっているのです。

 

 

 

今は定型に違反していることになっている言葉づかいであっても、使用者が多数派を形成すれば、許容されることになります。

ときに、ある言葉が辞書に載ることが大きな話題として取りあげられることがありますが、それは、新しい言葉が社会的に認知されるということを示しているからです。

 

たぶん、私を含め、今は、多くの人が上記のような言葉づかいを認めがたく感じていると思いますが、未来には、一般的な表現になっているかもしれません。

 

 

 

しかし、「違くね?」は現時点では間違った言葉づかいです。

「違くね?」と何度も言っていると、「その言い方、違くね?」と言われてしまうかもしれません。でも、その言い方もおかしいので「それも違くね?」と突っ込まれてしまうかもしれません。すると、「だから、その『違くね?』っていう言い方が違くね?」と指摘されるかもしれません。

 

無限ループに気を付けましょう。

 

 (ivy 松村)

「間違え」という「間違い」

・まちが「え」がある。

・まちが「い」がある。

 

どちらが間違っているでしょうか。

 

「まちがえ」が間違いです。

 

×「間違えがある。」

○「間違いがある。」

 

×「お間違えのないように。」

○「お間違いのないように。」

 

 

最近は、「間違え」を使う人が増えてきました。

言葉は、時代によって変化するもの、うつろいゆくものですから、いずれ、「間違え」が優勢になり、スタンダードになるのかもしれません。

 

しかし、現時点では、「間違え」という「間違い」を認めるべきではないと、私は考えています。

正しい国語の知識を持った教師は、そのような表記を認めないはずです。

もし作文の際に生徒が「間違え」を使っていたら、減点の対象とするでしょう。

 

つまり、「間違え」という表記は、少なくとも、現代の教育の現場において、正しい文章表現を学ぼうとする際には、訂正されなければならないものなのです。

 

 

 

「間違い」は自動詞の「間違う」の転成名詞です。

転成名詞とは、名詞ではない別の品詞から作られた名詞です。

 

例:

・釣る(動詞)→釣り(名詞)

・遠い(形容詞)→遠く(名詞)

・にぎやかだ(形容動詞)→にぎやかさ(名詞)

 

 

名詞は、以下のように、格助詞に接続して文節をつくることができます。

 

・間違い「が」ない。   (?間違え「が」ない。)

・間違い「を」指摘する。 (?間違え「を」指摘する。)

・間違い「に」困惑する。 (?間違え「に」困惑する。)

・間違い「の」多い文章。 (?間違え「の」多い文章。)

 

ごく普通の言語感覚でとらえてみても、「間違え」という語を使った表現に不自然さを感じるのではないかと思います。

「間違え」という表現が、日本語の言語運用の規範からずれているためです。

その表現が正しくないことを、脳が感じ取っているのです。

 

 

 

なぜ、「間違え」という表現が広く使われているかというと、「間違える」という別の動詞が存在するからです。

 

「間違う」・・・自動詞→ 「生徒が間違う。」

「間違える」・・・他動詞→ 「生徒を間違える。」

 

 

「~を」という対象(英語でいう「目的語」)の言葉を必要とするのが他動詞です。

「間違える」は他動詞ですので、「~を間違える」のように、「~を」という修飾の要素を必要とします。

 

 

 

「間違える」の連用形は「間違え」となりますので、「間違えそうだ」「間違えました」「間違えてしまう」といったように使われます。

また、「連用中止法」を用いれば、「私は問三を間違え、彼は問五を間違えた。」というような使い方も可能です。

 

 

そうすると、「間違える」の連用形を名詞化した「間違え」という転成名詞が存在してもおかしくなさそうです。

 

 

しかし、一般的に、一部の例外を除いて、転成名詞は自動詞から作られるので、「間違える」から派生した「間違え」ではなく、「間違う」から派生した「間違い」が正統な転成名詞であるとみなされます。

 

他動詞は、基本的に「~を」という修飾要素をともなって使われるため、文脈がなければ、一語で成立しないのです。

 

例として、自動詞の「残る」、他動詞の「残す」で考えてみましょう。

「残り」という転成名詞は、自動詞である「残る」の連用形から作られています。

一方、「残し」という転成名詞が、他動詞である「残す」の連用形から作れそうです。

 

「残し」という語は、その由来が他動詞であるがゆえに、「何を?」「何の?」という要素がなければ、意味が不安定になります。単独では使いづらいのです。

 

それでも、「食べ残し」というように、接頭語を用いて「~を」にあたる対象を示唆すれば、転成名詞として成立します。

 

同様に、「~を」という要素が含まれることになる「見間違え」のような表現は、かろうじて許容されますが、単独で「間違え」という表現を用いることは、意味論から考えても、文法論から考えても、逸脱になります。

 

 

 

どういうわけか、「間違い」=「間違え」であるという認識が広まってしまったために、「どちらを使ってもよい」と思っている人が多いのではないかと思います。

実際には、「間違え」は間違いです。

 

 

 

どうしてこのような混同が起こったのか考えてみました。

 

口語において、ともに近い音である「い」と「え」は、しばしば曖昧に発音されます。

そのため、両者ともに「ゆらぎ」の範疇であると勘違いされているのかもしれません。

 

例えば:

「いいじゃないか」=「ええじゃないか」

「行く」→(いく)=(ゆく)

「寂しい」→(さみしい)=(さびしい)

 

 

 

また、文章を書き慣れていない人が、案内文や手紙文などを書こうとして、ていねいな表現を心がけようとした際に、「間違え」が使われることが多いように感じます。

冒頭の例にあげた「お間違えのないように」というような表現です。

 

「間違う」は自動詞ですので、「~が」という主語(行為者)が意識されます。

そこから派生した「間違い」も主語が意識されることになります。

 

そのため、「間違い」という言葉を使うことで、「間違いをしてしまう相手」を、あげつらっているように受け取られないか、心配になってしまい、過度の言葉づかいになっているのかもしれません。

 

 

先生が間違う。・・・(先生の)「間違い」→「(先生の)間違いを直しましょう。」

問題を間違える。・・・(問題の)「間違え」→「(問題の)間違えを直しましょう。」(誤文)

 

 

もちろん、後者は正しくない文ですが、前者と比べると、「間違いをおかした人」の存在を消去する効果があるため、穏便な表現になると考える人もいるのかもしれません。

 

 

しかし、いずれにしても、「間違え」は間違いです。

 

間違えないようにしましょう。

 

(ivy 松村)

暗記について

暗記には、工夫によって効果や能率をあげていく局面と、努力によって語彙や知識などを血肉にしていく局面があります。

 

 

塾の教師は、後者の重要性をなかなか口に出しづらいものです。

「楽」に成績を上げてくれる塾が「いい塾」である、という浅い考えの人もたくさんいるからです。

がんばって覚えなさい、と言われると、露骨に「うげぇ~」という顔をする人もたくさんいることでしょう。

生徒に「余計なストレス」を与えないために、小テストなどを課さない塾もあります。

 

 

勉強には、地道な取り組みが必要です。

そのことを、正しく伝えたいと思っています。

 

 

私は、よく「暗記をしなさい」と生徒にいいます。

しかし、闇雲に、修業のように、ただ一心不乱に言葉や数字の羅列を記憶するように指示しているわけではありません。

 

以前、暗記について、何度かブログに書きました。

まだ、読んだことのない人は、目を通しておいてください。

 

暗記とは

暗記をするときの工夫

暗記の具体例

生徒の皆さんへ

 

(ivy 松村)

なぜ、勉強するのか

「学校の勉強が人生の役に立つのか」、という疑問に答えます。

かなり、真面目に答えます。

 

 

まず、「役に立つ」ということが、生きるうえで利益につながる、とか、有利になるという意味ならば、学校の勉強を通して習う知識が「役に立つ」ことはほとんどありません。

 

そもそも、「全員」の人生にとって同じように「役に立つ」ものなど、世の中にはほとんどないのです。

全ての人にとって共通して有意なことを、中学校で教えることはできません。

 

例えば、会社員になる人、教師になる人、医師になる人・・・それぞれの仕事に必要な技術や知識は同一ではありません。

ですから、職業上で「役に立つ」ものは、もっと後々になって、企業研修や職業訓練によって身につけるのが一般的です。

 

 

 

では、「役に立つ」ことのないものを、なぜ、学ばなければならないのでしょう。

 

 

 

勉強は、生活のための「情報」ではありません。

 

自分という人間を形作る「資源」です。

 

世界と、社会と、人間と、自分を深く理解し、自分の価値や生き方を定めるための土台となるものなのです。

 

 

「 いい仕事につくために勉強するのだ」という考えもやはりずれています。

 

私たちは、恵まれた人生を歩むために学ぶのではありません。

 

より深みのある人生を送るために学ぶのです。

 

 

勉強を将来への「投資」であると考える人もいます。

大枠では間違っていません。

しかし、短絡的に、勉強を「人よりもましな人生を送るための手段」であると割り切ってしまうと、勉強はただの「苦行」になってしまいます。

 

具体的な「夢」に向けて、必要なものとして取り組むのではなく、将来の「就職」のためだけに勉強をしている人をみると、つらそうですよね。

そのような考えにとらわれてしまうと、「関係のないこと」をひたすら覚えさせられているとしか思えなくなるのです。

 

 

 

「どんなきれいごとを言おうと、結局は、勉強は就職のためにするものだ」

 

という考えかたしかできない人も、世の中にはいます。

 

思想は自由ですから、そう思っていればいいと思いますが、多くの人が直感するように、その感性は貧しく、知性に乏しいため、簡単にそのような言葉を口にする人は、人間的に低レベルであると思われてしまいます。

 

具体的な内容でしかものごとに意味づけができず、抽象的な思考によってものごとの価値や本質に迫ることができない、「深み」のない人間であることをさらけ出してしまっているからです。

 

たぶん、その程度の頭脳しか持てない人は、企業も評価しないと思いますが。

望みどおりの就職ができるのでしょうか。

就職できたとしても、会社内で評価されるような仕事ができるのでしょうか。

 

 

 

勉強は、「得」をするための行いではありません。

 

損得で考えてしまうと、「得」になるのがずいぶん先のことなので、よほど苦痛になってしまいます。

 

 

勉強は、自分という人間を形作るために行うものです。

 

 

単語の一語一語、漢字の一字一字、公式のひとつひとつ・・・たとえ、未来にさっぱり忘れ去ったとしても、それぞれが、見えないところで「自分」を構成する要素となっていくのです。

 

それは、画家の描く絵の一筆のようなものだといえるのかもしれません。

 

丹念に、時間をかけて、一筆一筆、根気をもって色を重ねていきます。

下書きや最初の構図は、何十にも重ねられた絵具の下にうずめられて、見えなくなっていきます。

でも、その一筆は、絵にとって必要な要素なのです。

画家は、長い長い時間をかけて、キャンバスに絵具を塗りつけていきます。

 

やがて、ひとつの作品が完成するのです。

 

 

 (ivy 松村)

Let’s get together for studying !

毎週火曜日と土曜日は「勉強会」を開催しています。

本日は、学校の授業に対応した「勉強会」を行いました。

 

5月の連休明けに、すぐ中間テストが行われる学校もあります。

今のうちから計画的に学習するように伝えています。

 

今日は、なぜか、中間テストのない学校の生徒が多く来ました。

 

 

 

中2の生徒は、中学校の英語のテキストの精読と解説を行いました。

塾ですでに学習した過去形の内容ですので、文法的な説明を省くことができました。

「NEW CROWN」にそって、語彙や意味の取り方を中心に勉強しました。

「How can I get to ~?」などの質問や答え方や、「get on /get off」「take」などの使い方を説明しました。

 

「get」はいろいろな使われ方をしますね。

わかったり、できるようになったりすることも「get」で表せます。

 

その他、学校の授業の進め方などを確認して、今後どう勉強を進めていくのかを確認しました。

より高い評定を得るために、どういった取り組みが必要で、「効果的」なのかという話をしました。

 

今日英語を勉強しにきたのは中間テストのない学校の生徒でした。

定期テストまで2カ月の期間があります。

今日から「期末テスト」に向けての対策をスタートさせたわけですが、気を抜かずにしっかりと取り組んでいきましょう。

 

 

 

苦手な数学の克服に取り組んでいた生徒もいました。

「数学が苦手」といいますが、数学との「相性」が悪いわけではありません。

何らかのきっかけによって、数学を受け入れる余裕が失せてしまっているのです。

 

けんかをしてしまった友達と、仲直りをしなければならない状況に似ているかもしれません。

 

「勇気」が必要だと思います。

 

関係を取り戻すためには、相手に突き放されてしまうことを覚悟して、それでも相手を受け入れようと決意し、行動しなければなりません。

間違っても、わからなくても、苦痛でも、数学という教科の存在を認めてあげてください。

誠実な態度によって、かたくなな人の心が開かれていくように、地道な努力によって、数学に親しめるようになるのです。

 

まず、「時間がかかる」という認識を持つことが大切かもしれません。すぐに、「やっぱり嫌だ」という結論を出さないこと。

継続して、数学に取り組んでいきましょう。

 

 

 

中1の生徒たちは、歴史について学びました。

まだ、ほとんど学校では授業が行われていません。

今日は、先取りで4大文明と縄文時代までの内容を講義しました。

 

覚えることがたくさんあって、うんざりしますよね。

どうして、川の名前なんかを覚えなければいけないのか、と思ってしまいます。

 

「ナイル川」という言葉を覚えても、生活するうえで得することなどありません。

 

しかし、「ナイル川」は、「知的世界」へのひとつの入口なのです。

 

「ナイル川」は人類最古の文明の一つであるエジプト文明を生み出しました。

大河が、文明の条件となるのは、農耕を可能にするからです。

川は、植物の生育を促す栄養分を下流に運びます。

雨季によって、水量が増え、洪水が起こり、栄養分が土地にいきわたり、農作物を育てるのです。

洪水の時期を正確に知るために暦(太陽暦)が発達します。

計画的な農業がおこなわれるようになり、みんなで協力して、大規模な農耕を行うために、リーダーが現れます。

貯蔵可能な穀物は、所有の対象になり、「富」になります。

「富」が蓄えられるようになって、「貧富の差」が生まれます。

「富」をたくさん持つことができた人と、そうでない人が出てくるからです。

「富」をめぐって争いが起こり、戦争に発展します。

戦争のために、さらに、強い権力を持ったリーダーが求められます。

こうして、人類の歴史に「王」が登場するのです。

「王」は、権力を使って、自分の墓であるピラミッドを作ったのです。

 

 

知識を広げて、いろいろなことがらと結びつけて、関心を深めながら勉強していくと、「社会科」は、どんどん「面白く」なっていきます。

 

 

 

今後、火曜日、土曜日はできる限り「勉強会」に参加することを勧めます。

参加は自由ですが、前もって相談してもらえると、学習計画が立てやすくなります。

 

それ以外にも、土日に勉強時間が取れない中3生は水曜日に、中2生は金曜日にできる限り自習に来るようにしてください。

 

 

テスト範囲がわからないからまだ勉強を始めなくていい、と考えないように。

テストの1週間前からテスト勉強を始めることがゆるされるのは、一握りの優秀な生徒だけです。

私たち凡人は、「計画性」と「継続性」で彼らに対抗するしかないのです。

彼らのマネをしないように。

 

 

一学期が終わった後で、「勉強する時間がなかった」という言い訳を絶対にしないでください。

それを言われたら、本気で怒ります。

思わず、「Get out !」と言ってしまうかもしれません。 (また「get」を使ってしまう。)

 

 

(ivy 松村)

たかが「消しかす」のことではない

勉強には書き間違いが付きものです。

書き間違ったときは、消しゴムで消します。

 

鉛筆やシャーペンの芯の品質や消しゴムの品質が良くないものだと、うまく消えなかったりします。

 

また、特に小学生の男の子に多いのですが、筆圧が強すぎると、跡が残りやすくなります。

間違ったときに消しゴムで消すのに苦労することもあるようです。

 

 

手先をうまく使えない子は、消しゴムを使うのが苦手です。

間違った箇所をきちんと最後まで消し切らないで、その上に字を書こうとする子が、時々います。

 

私は、しっかりと消えていない鉛筆の線を「ユーレイ」と呼んでいます。

特に、漢字テストのときなどは「ユーレイ」が出ないように、見張っています。

「ユーレイ」が漂っているノートは、気分がすっきりしません。しっかり成仏させましょう。

 

 

 

消しゴムを使うと、消しかすが出ます。

 

机のすみに集めておいて、休憩時間や授業後にゴミ箱に捨てるように、生徒のみなさんにお願いしています。

 

消しかすは、手で払って床に落とさないように注意しましょう。

 

生徒のみなさんがきちんと協力してくれいているので、気持ちよく勉強できる環境になっていると思います。

 

 

ivy以外の塾でも、同じような教室の美化をすすめているところもあるようです。

でも、塾によっては、消しかすの処理のルールがあっても、講師の目を盗んで床に払い落として知らん顔をしている生徒もいるのだろうと思います。

 

 

実は、私は、以前は消しかすの処理に無頓着でした。

いっしょに仕事をさせていただいたある塾の校長先生が、「消しかす」に厳しい方でした。

私は、最初は、消しかすのことで叱ったりすることに慣れませんでした。

しかし、しだいに、「消しかす」への意識は、勉強にとって意味のあるものだと理解するようになったのです。

塾の教師として、非常に重要なことを学ばせてもらいました。

 

 

 

世の中の小学生や中学生の心理についてはよくわかっています。

別の塾の生徒の中には、「掃除をするのは塾側の仕事なのに、なんで自分たちが面倒くさいことをやらされなければいけないのか」と考える人もいるはずです。

 

そのような考えが脳裏に浮かぶ人は、幼稚な精神の持ち主です。

成長しましょう。

 

 

 

単純な答えです。

「ここ」は「消しかすを床に落とさない」というルールが定められている場所だから、それを守らなければならないのです。

 

 

レストランを例に取って考えてみましょう。

 

ごく普通のレストランでは、ウェイターやウェイトレスがお膳やお皿を持って来たり、下げたりしてくれます。

一方で、ハンバーガーショップや軽食のお店、学校の食堂などは、自分で自分の席に食事を運び、食後に自分で食器を下げるシステムになっています。

 

もし、ハンバーガーショップで、店員に、どうして席まで運んでくれないのか、ときいているような人がいたら、どうかしていると思いますよね。

もし、そのようなお店で、食事の後で、食器などを下げずに立ち去る人を見かけたとしたら、マナー違反だと思いますよね。

 

セルフサービスのお店に入ったら、そのルールに従って食事をするはずです。

 

それと同じことです。

「消しかすを床に落とさない」というルールがある場所では、そのルールを守ってください。

 

 

 

 

学校では消しかすを床に払っても、何も言われません。

だから?

 

どこでも同じようにしてよいわけではありません。

 

時と場所と状況によって、人間の取るべき態度は変わるのだ、ということを理解できない「痛い人」は、心の中でぶつぶつと文句をいいます。

たったひとつの行動指針だけをたよりに人生を生きていこうとする人は、きっと周りから程度の低い人間に見られてしまいます。

 

「ここ」には「ここのルール」があります。

 

 

 

 

「学習」の基本は、「教えられたことを実行する」ということです。

「こうしなさい」と指示されたことを素直にこなせないということは、最も初歩的な学習の姿勢を持っていないということです。

 

学力の向上、という観点から考えても、見過ごすことはできません。

 

はっきりいって、「消しかすの処理」程度のことをまともにできない人は、能力に見合った学力を得ることはできません。

 

 

 

 

さて、ここまで述べてきたのは、学校と塾のやり方は違うので、塾では塾のやり方で過ごしてください、ということです。

 

しかし、本質的な問題は、「ルールの違い」ではありません。

 

少し考えればわかりますが、「学校の方がおかしい」のです。

 

消しかすは、100パーセント完全な「ごみ」です。

常識的な人は、街中や、電車の中や、家の中で、ごみを床にポイと捨てたりしません。

 

どうして、教室の中だけは、「ごみのポイ捨て」が許されると思うのですか?

 

学校は、あきらめているだけです。

数多くの問題が生じる中で、もはや「消しかす」など、小さすぎる話で、学校の先生もいちいち注意していられないのです。

 

 

塾は違います。

当たり前の常識を、当たり前にこなせる人になってほしいと思います。

 

 

 

ものごとを損得や苦楽といった面からしか考えられない人は、「掃除が面倒だからそんなことをいうのだろう」と思うようです。

そこまでの考えをもたれると、もはや真意などどうでもいいと思えます。

強く断言できるのは、そういう生徒は伸びないということですね。

 

 

「楽」を「得」だと感じるような、しょぼい価値観は捨ててください。

ちまちまと消しかすを集めたりするのがカッコ悪い、というような幼稚でしょっぱい自意識も捨てましょう。

 

 

 

 

すごく単純な話をしています。

 

「教室をきれいに使おう」

「ルールを守ろう」

「ていねいで、美しい所作で勉強しよう」

 

 

結局は、そういうことです。

 

 (ivy 松村)

学習塾業界を健全化するためには

さて、これまでに、塾の合格実績の問題について、このブログで述べてきました。

 

その一部は、少し前に書いた「学習塾」についての論文の内容と重なるものです。

それを書くために、学習塾や受験に関する資料や文献、記事などを収集し、読みあさりました。

たぶん、100本近くの関連の論文や報告書、記事に目を通しています。

 

私が取り組んだ研究テーマは、 学習塾の営利企業としての性格はいかにして助長されてきたのか、というものです。

 

その中で、学習塾の産業としての発展と、学習塾にまつわる社会問題は、ともに行政や学校が、学習塾を「教育システム」の一部として認めなかったことに起因する、という分析をしています。

 

 

そして、「提言」として、行政や学校が、わずかな手間をかけて塾産業に介入することで、塾業界が今よりも「健全」になる可能性について触れています。

 

 

いろいろと事情があって、納得のいく形にすることができませんでした。

いずれ、時間ができたときに書き直そうと思っています。

 

 

論文の元になった文章の一部を掲載したいと思います。(少し加工しました。)

 

 

 

学習塾企業がより多くの利益を得ようとするならば、人件費の削減が最も効率的で効果的な方策となる。競争が激しくなっている近年は、さらなる人件費の圧縮とともに、従業員に対する業務量の増大が起こっている。特に、広域展開を行って校舎数を増やしている学習塾では、深刻な講師不足が生じている。そのために、教務技術の未熟な学生アルバイトを雇ったり、準備時間を確保できないまま正規従業員に授業を担当させたりするような状況が常態化し、学習指導の質が低下しているのである。

 

サービス産業にとって、サービスの質の悪化は、本来ならば衰亡にかかわる懸念材料となる。しかし、学習塾というビジネス構造には、サービスを受容する顧客である生徒と、対価を支払う需要者である親が、それぞれ別個であるという特殊性が備えられている。したがって、親に対してサービスの質の高さを提示することができれば、顧客を獲得することができるのである。

 

 

一般的に、子を持つ親は、自分の子をなるべく偏差値の高い上級学校に入れたいという希望を持っている。そして、各塾の合格実績は、それぞれの学習塾がどれくらいの進学指導力を持つのかを客観的に示す数字であると信じられている。そのため、学習塾は合格実績を何らかの主観的な判断を通してなるべく高く見積もるのである。

 

これまでにも、新聞や雑誌等で、合格者実績の水増し表示が何度も大きく取り上げられてきた。学習塾業界は多くの粗悪な問題を抱えているが、それらのほぼすべてがこの「ごまかし」に象徴されているといってもよい。

 

 

学習塾業界に蔓延しているさまざまな問題が解決されるためには、まず、「健全な淘汰」が必要である。単純に、劣悪な事業者を失くすことは消費者にメリットをもたらす。また、過当な競争が緩和されることで、従業員に余裕が生まれるだろう。

 

そのためには、消費者である親や子供が、良質な事業者とそうでない事業者を見分け、選択することができる仕組みを構築しなければならない。

 

良質な事業者であることを証明する最も説得力のある情報は、やはり合格実績である。したがって、各学習塾の受験者数・合格者数を透明化することが、健全な産業構造を導く第一歩となる。ごまかしのきかない統計的な合格者数と受験者数がわかれば、各塾の指導力を客観的に図る最有力の指標となるだろう。

 

正確な合格者の情報を集めるために、学習塾業界ではなく、学校が生徒の通塾歴を調査する必要がある。学校側が聞き取りを行ったり、受験票に通塾歴を記入する項を設けたりすることで、受験者数・合格者数を明確に把握することができる。さらに、学校側に行政への報告を義務づけ、行政がそれを公表することで、数字の信頼性を担保するのである。

 

そのデータは、ブランドや屋号によって合算されるのではなく、それぞれの校舎・教室ごとにまとめられる。消費者が通塾を検討する上で、その対象となる地域にある学習塾の、それぞれの校舎・教室の指導力を判断する材料の提供を目的とするものだからである。

 

以上のような措置によって、各学習塾の合格者数と合格率を、消費者が認知することができる。

 

やがて、学習塾の企業努力は、講師の受験指導力の養成、指導体制の構築と整備に向けられることになるだろう。生徒を獲得するためには、権謀的な戦略ではなく、生徒の学力を伸ばすことが必要になるからである。

 

 

上記のように、学校・行政が介入し、合格実績を厳密化することで、学習塾の健全な競争が促されるはずである。それは、消費者だけでなく、学校・行政にとっても好ましいものでありうる。さらに、学習塾業界全体にも結局はよい影響をもたらすものとなるのである。

 

(ivy 松村)

Short Message

高校に入学した人たちに、ひとつだけアドバイス。

高校に入ったら、自分の学校の評価を細かく気にしないこと。

 

その高校で過ごし、思い出を作り、その経験を携え、これからの人生が続いていくのです。

自分にとって、かけがえのない、素晴らしい高校生活をおくるために、何ができるのかを考えましょう。

そして、その先の道へとつながるものを、高校時代に育みましょう。

 

いつか、高校の話を聞かせてください。

 

(ivy 松村)