「日比谷つぶし」と都立高校入試①

今年、日比谷高校は53名の東大の合格者を出しました。

 

日比谷高校の東大合格者数が50名を超えるのは、44年ぶりになるということです。

「東大合格者ランキング」でも、トップ10をうかがう位置にまで来ました。

 

日比谷高校の「躍進」が、ネットサイトや週刊誌等で大きく取り上げられています。

 

その裏で、「第二次日比谷つぶし」が着々と進められています。

 

 

 

日比谷高校は、都立高校の「復権」の象徴であり、都立高校の「牽引役」を担っています。

重厚な「伝統」、そして英雄的な「復活」を果たすという波乱の「歴史」が、この高校に、その宿命を帯びた役割を与えているのでしょう。

そして、その意味で、日比谷の「趨勢」は都立高校全体に非常に大きな影響をおよぼすのです。

 

 

都立高校を「凋落」させるのは、造作もないことです。もし仮に、だれかが都立高校の「活躍」を快く思わず、なんとかして都立高校を押さえこみたいという背徳的な考えを抱いているとするならば、ただ、日比谷高校を「狙い撃ち」すればいいわけです。

 

 

 

現在では、「日比谷つぶし」という言葉を知らない受験関係者も多くいると思います。

「日比谷つぶし」というのは、今から50年前に行われた都立高校の入試制度改革の、「本当の目的」を称して広まった言葉です。

 

1967年に都立高校入試に「学校群制度」が導入されました。

これは、全国トップの進学校であった日比谷高校の「力」をそぎ落とすために行われたのだということが、誰の目にも明らかだったわけです。

 

つまり、「日比谷高校をつぶすため」に、「学校群制度」が設けられたわけです。

 

 

1960年代までは、東大の合格者数の1位は、日比谷高校の「指定席」でした。

日比谷は、都内に限らず、日本の高校のトップに君臨する進学校だったのです。

 

日比谷をはじめとする都立高校が「隆盛を極めた」のは、1964年です。この年、日比谷高校の東京大学合格者数は192人にのぼり、やはり全国トップでした。続く2位は西高(156人)、3位は戸山(110人)でした。また、新宿高校も全国4位(96人)に入り、小石川高校が全国6位(79人)、両国高校が全国8位(63人)でした。東大合格実績のトップ3を都立高校が独占し、ベスト10内に6校が名を連ねていたのです。

 

 

1960年代をとおして、日比谷高校は東大合格者数の1位を他校に譲ったことはありません。

ところが、70年代に入ると、日比谷の大学合格実績は急落の一途をたどり、80年代には2けたの合格者数を維持することも困難になっていきます。

 

「日比谷つぶし」によって、日比谷の「覇権」はあっけなく崩れました。それに引きずられるかのように、都立の「低迷時代」が訪れました。

 

 

 

「学校群制度」の導入を境として、日比谷の「衰退」は加速度的に進行していきますが、それは「予想外の結果」だったわけではありません。

なぜなら、この制度が導入されれば、日比谷が低落していくことは誰の目にも自明のことであって、その「衰退」は、想定された結果にすぎないものだったからです。

 

あえて断言すれば、それが「目的」だったわけです。

 

 

「学校群制度」の主眼は、「教育の平準化」でした。

優秀な生徒が集中する「突出した高校」とその他の高校の「格差」をできるだけ「なだらか」にしようという考えのもとに計画された制度なのです。

 

つまり、これは、明白に、日比谷高校を「引きずり下ろす」ことを「目的」として実施されたわけです。

 

東京都立高校の入試に「学校群制度」が導入されたのは、1967年です。都立高校が「隆盛を極めた」3年後のことです。

 

 

 

この制度の「要所」は、「合格」しても志望する都立高校に進学できない受験生を生み出すことです。

そのために、都立高校は避けられ、高校受験の重心が国私立へと移っていきました。

 

 

「学校群制度」のもとでは、都立高校は2校ないし3校のグループにまとめられて「学校群」を形成し、受験生は「学校群」を受験します。

 

単独の「高校」を受験するわけではないので、「合格」したとしても、その受験生は「学校群」に「合格」したということになります。したがって、合格者は、その「学校群」のいずれかの高校に通うことになるわけです。

 

たとえば、A校、B校、C校がそれぞれ「学校群α」を形成している場合、A校を志望する生徒は、その「学校群α」を受験することになります。しかし、「合格」しても、A校ではなく、B校やC校に進学することになる可能性があるわけです。

 

 

つまり、「学校群制度」のもとでは、受験生は、入学先を自分で決めることができないのです。

都立高校の入試は、どの高校に進学することになるのかわからないまま、受験しなければならなくなったわけです。

 

 

日比谷高校は、九段高校、三田高校とともに「第11群」を形成しました。日比谷高校を志望する生徒は「第11群」を受験するわけですが、「合格」しても日比谷以外の高校に進学しなければならない場合があるわけです。

 

なぜ、志望校に進学ができなくなるのかというと、「学校群」を形成するそれぞれの高校の「学力」が、同じくらいになるように調整されたからです。

 

一部の高校の学力が突出しないように、学力の高い生徒を、第一志望ではない「ほかの高校」に入学させることができるわけです。

 

日比谷高校に、特別、学力が高い生徒が集まっていることが「問題」だったのです。

信じがたい話ですが、抜群の大学合格実績をあげることが「良くない」と考えられたわけです。

 

 

日比谷高校の属した「第11群」は、他校と「学力差」が大きい日比谷高校に「不利」なものでした。

たとえば、西高校は青山とペアを組み、戸山高校は富士とペアを組みました。そして、多摩地区では立川と国立がペアを組みました。これらの「学校群」は、比較的学力が拮抗している高校同士が2校のみで「学校群」を形成しました。

そのため、第一志望に進学できない場合の「ダメージ」が相対的に少なかったのです。

 

 

 

「学校群制度」は、「学校間の格差」を「是正」するために設計されたものであるということになっています。

そのために、学力の高い生徒は「平等」に、「学校群」のそれぞれの高校に「配分される」わけです。

 

受験生からみれば、志望する高校に進学できるかどうかは「運しだい」というわけです。

ある意味で、入試が、「ギャンブル」そのものになってしまったのです。

 

 

たぶん、はじめて「学校群制度」について知った人は、「意味が分からない」と思うに違いありません。私も、「正気の沙汰ではない」と感じました。

 

当時の東京都教育委員会は、現実に、この悪夢のような制度を導入したわけです。

 

 

「学校群制度」導入の問題点は、その制度自体が愚劣であることはもちろんですが、実は、本質的には、「信頼」の問題なのだろうと思います。

 

受験生や保護者の目には、東京都教育委員会は都立高校をスポイルし、ダメにしようとしていると映ったはずです。

 

自分の船の計器を自分で壊す船長のようなイメージが思い浮かびます。自ら船を遭難させようとする人間が指針をとる船に、一体誰が乗りたいと考えるでしょうか。

 

 

優秀な生徒の学力を伸ばそうとするのではなく、学力を押さえつけようという発想がその根幹に横たわっています。受験生・保護者は、都立高校の教育を「信頼できなくなった」と感じたことでしょう。

 

その結果、学力上位層の「都立高校離れ」が急速に進み、漸次、都立高校の大学進学実績は下降していきました。

 

 

 

この馬鹿げた制度を実現させたのは、偏狭な「平等主義」です。

 

競争はよくない、差をつけるのはよくないという考えのもとに、教育を一律、均質なものにし、平準化させようという思想です。

 

 

運動会の徒競走で、「だれかが最下位になるのはかわいそうだから、みんなで手をつないで同時ゴールしましょう」というような驚愕の発想は、同質の思想のもとに想起されます。

 

これは、「弱者」を基準に制度を決めようという考えです。

もちろん、「平等主義」のすべてが間違っているわけではありません。

 

しかし、個人の能力や資質をもとに進路を決定する「入試選抜」という制度と、「平等主義」のような考え方は、ある意味で対極に位置するものです。

 

 

「平等主義」は、一部の教育関係者に、今も根強く浸透しています。

 

「入試選抜」を台無しにしようとする不実な計画は、こうした教条的な考えが、教育の制度設計を総括する教育委員会や文部科学省のような組織の中で「支配的」になったときに、始動するわけです。

 

 

(ivy 松村)