令和随想 ―春を忘るな―

新しい時代の節目に、今一度文章を書こうと思います。

令和と名付けられた新時代に、まだ、このブログに書こうとは思いもよりませんでしたが、ちょっと書かせてもらおうと思い立ちました。

どのくらいの方の目に留まるのかわかりませんが。

 

 

「五月病」になっている人はいないか、ちょっと心配です。

今は運動会の季節ですね。それから、中間テストのある学校もあります。

ぜひとも頑張ってください。

 

 

それにしても、令和という新しい時代の訪れは、実に印象的でした。

寒さが去って陽気に包まれ、まるで春が二度訪れたかのような風情でした。

一度雨が上がって日差しに恵まれたことも、何となく象徴的に思えます。

 

 

「令和」という元号に、多くの人が、すでに親しみと好感を抱いています。

 

「令」という文字が元号に使われるのは初めてのことですが、「れい」という音は、日本人にとって愛着のある響きです。

 

礼、例、霊…など、数多くの言葉に「れい」という音があらわれます。

 

日本人にとって、麗しく心地よく感じられる響きです。それで、「れい」という音を名前に持つ人も多くいらっしゃいますね。

 

 

ところが、興味深く不思議なことに、「やまとことば」には元来「れい」という音が存在しません。

もうすこし正確にいえば、「やまとことば」には、語頭に「らりるれろ」の音をもつ語彙が存在しないのです。

 

「れい」という音をもつ語彙は全て「漢語」か「外来語」に由来するものです。

 

中国由来である「元号」は、「音読み」の漢字で構成されます。当然「れいわ」も「音読み」です。

 

「令和」は、史上初めて漢籍ではなく、日本の古典である「万葉集」を出典とする「元号」ですが、やはり、中国の文化と「縁」のあるものだと感じられます。

 

 

 

その「令和」ですが、「万葉集」に収められている「梅花の宴」の「序文」が典拠となっています。

 

天平二年(730年)の正月に、九州の太宰府、大伴旅人(おおとものたびと)の邸宅で歌会の宴が開かれました。

そのときの様子が、「梅花の宴」の「序文」に漢文で記されています。

 

 

初春 月氣淑風 梅披鏡前之粉蘭薫珮後之香

 

 

「初春のよい月が出て、空気はこころよく風はやわらかに、梅は鏡の前で白粉の(入れ物を開ける)ように花開き、蘭は腰帯にさげた香のように薫っている」

 

 

この一節から「令和」という新しい御代の名称が誕生しました。

 

清々しく穏やかな「春」の訪れをともに分かち合う喜びが、二つの字に込められているのでしょう。

 

 

 

大伴旅人は大宰府の長官を務めた人物です。

 

旅人は、政争に敗れます。そして九州に赴任させられたのです。

 

 

当時の貴族たちは、「都」から遠ざけられるということを非常に恐れました。

「都」は唯一の文明世界でした。鄙地での生活は、強烈な疎外感、劣等感を与えられるものでした。

そのため、政敵に対する報復や、気に入らない者への仕打ちとして、地方への「左遷」が効果的に使われたのです。

 

大宰府の長官に任命されるということは、不幸であり悲劇であったわけです。

 

 

 

しかし、旅人は、九州での生活を謳歌しようとしたのでしょう。

山上憶良など、当地の文化人たちと交流を持ち、風雅な歌会を催しました。

 

「梅花の宴」の「序文」に、旅人の満ち足りた「心持ち」があらわれているように感じます。

 

 

 

ところで、「梅花の宴」の「序文」ですが、「元ネタ」の存在が指摘されています。

それは、古代中国の詩の一種、後漢の時代に活躍した張衡(ちょうこう)の『帰田賦』(歸田賦)「きでんのふ」です。

 

 

「梅花の宴」の「序文」と、その原典とされている『帰田賦』の当該箇所を比べてみましょう。

 

 

初春 月氣淑風 梅披鏡前之粉蘭薫珮後之香

 

仲春 月時 氣淸原隰鬱茂百草滋栄

 

 

 

非常に良く似ていますね。

 

こうした「比較」は往々にして「形式」に焦点があたるわけですが、私としては、『帰田賦』の「内容」に興味を持ちます。

 

 

『帰田賦』を記した張衡は、優れた芸術家、文筆家、学者であり、そして皇帝に仕える高級官僚でした。しかし、腐敗した政治の世界を嫌い、官職を辞して穏やかに暮らすことを望みました。

 

『帰田賦』は、その心情を綴った韻文(詩)なのです。

 

『帰田賦』=「田園に帰る詩」という意味になります。

 

張衡は、退廃的な政治の舞台を離れ、豊かな自然の中で人間性を回復していくことに人生の意義を見出したのです。

 

 

 

その「背景」を知れば、なぜ「梅花の宴」の「序文」に『帰田賦』の一節が借用されたのか、よくわかります。

 

「梅花の宴」の「序文」を書いた人物は、実は、確かになっていないのですが、おそらく旅人でしょう。

 

 

平城京を追われた旅人は、失意と悲観にくれる余生を送るのではなく、大宰府の地で、気品を失わず典雅に、風流に振る舞う気概を持ち続けようとしたのだろうと思います。

 

旅人は、『帰田賦』に自身を仮託し、遠地での生活に積極的な「意味」を見出そうとしていたのではないかと感じます。

 

 

 

そして、「梅花の宴」は、どうしても、ある人物を想起させます。

 

 

菅原道真です。

 

 

「大宰府」、そして「梅」というワードが、旅人と道真を結び付けます。

 

道真もまた、旅人と同じく、朝廷の権力闘争に身を投じ、敗れ、大宰府に送られる運命をたどります。

 

その際に道真が詠んだとされる歌は、よく知られています。

 

 

 

東風(こち)吹かば 匂ひおこせよ 梅の花 主(あるじ)なしとて 春を忘るな

 

 

 

「東風が吹いたら匂いを香らせておくれ、梅の花よ。主人(私)がいなくとも、春を忘れてくれるな。」

 

 

東風(こち)というのは春に吹く風のことです。

 

道真は、自分の庭の梅の木に向かって、自分がいなくなっても春がきたら忘れずに花を咲かせなさいと、語りかけたとされています。

 

しかし、実際に道真が「どのように」この歌を詠んだのかは、わかっていません。

この歌は、道真の死後見出されて、広く知られるようになりました。

 

 

結句(第五句)には二つのバージョンがあって、「春を忘るな」ではなく「春な忘れそ」となっているものもあります。

 

 

この道真の歌は、おもに以下のように「解釈」されます。

 

ひとつは、梅の木に「自分の無念を忘れずに思い起こせ」と言い聞かせているという説です。

これは、道真の痛烈な「遺恨」が表現されているという「解釈」です。

 

さらに、道真は梅の木に「東から吹く風」に「匂い」を乗せて、大宰府にいる自分のところまで届けてくれ、と懇願しているのだというも説もあります。

これは、大宰府に遠ざけられても「都」との結び付きを保っていたいという未練、つまり、道真の、中央政界への「執着」が表れているのだという「解釈」です。

 

 

道真は、九州の地で不遇のまま眠りにつきます。

道真の悲運の人生は多くの同情を誘い、人々は、道真の魂が、いくらかでも慰められることを望みました。

そうした人々の憐憫の思いが、道真の邸宅の梅の精が大宰府に飛んでいったという、有名な「飛梅伝説」を生んだのだと思います。

 

 

 

私は長い間、道真は敗北感と無念を抱え、打ちひしがれて「都」を後にしたのだろうと思ってきました。しかし、「最近」になって、別の「見立て」を持つようになりました。

 

 

道真は、梅の木に対して「己の本性を忘れるな」と伝えようとしているのではないか。

他者のために咲くのではなく、「梅としての本質をまっとうするために」咲きなさい、と語りかけているのではないか。

 

 

道真は、優れた学者でもありました。

万葉集に収録された「梅花の宴」のエピソードについて、造詣を持っていたはずです。

 

道真は、旅人に自らを重ね合わせていたかもしれません。

 

これから九州の大宰府に向かう。その地で毅然と生き抜くために、旅人のように、「大宰府の梅花」をいつくしむ。そのような志で旅立とうとしていたのだとしたら。

 

もちろん、それは京にある自分の邸宅の梅の花に対する「情」が薄まったということではありません。運命によって惜別を余儀なくされたわけです。

 

その梅の花に向かって、道真は、「お前は、自分のために自分の花を咲かせなさい」と諭しているように思えるのです。

 

 

道真は、弱音を吐露したり自己を憐れんだりするためにこの歌を詠んだのではない。

「残していくもの」を鼓舞するためにこの歌を詠んだのだ。

 

 

私は、新しい道真像を思い描きました。

 

 

 

そして、菅原道真は、私に、さらにまた、もうひとりの人物を思い起こさせます。

 

 

陶潜(とうせん)〔陶淵明〕です。

 

陶潜は、史上最も有名な中国の詩文のひとつ、『帰去来辞』(歸去來兮辭)「ききょらいのじ」を記しました。

 

その『帰去来辞』に「訓読」をつけたのが、道真なのです。

 

 

 

歸去來兮 田園將蕪胡不歸

 

帰りなんいざ。田園将(まさ)に蕪(あ)れんとす。胡(なん)ぞ帰らざる。

 

 

「さあ、帰ろう。故郷の田園が今まさに荒れようとしている。どうして帰らずにいられようか。」

 

 

 

「歸去來兮」という箇所ですが、これは、漢文の本来の訓読のルールに従えば、「帰りなんいざ」とは読めません。

 

しかし、道真は、これをあえて「帰りなんいざ」と読みました。以後、私たちは「歸去來兮」を「帰りなんいざ」と読み習わすことになったのです。

 

 

 

陶潜は、中国の六朝時代の人です。

官吏=役人としての生活を捨て、故郷の田園で暮らそうという決意を『帰去来辞』に記しました。

 

陶潜は、後世に大きな影響を与えます。

中国の知識人たちは、陶潜に倣って、俗世間を脱し「晴耕雨読」の隠遁生活を送ることをある種の理想としました。

 

その「模範」になったのが『帰去来辞』でした。

 

のちに、自然の中でのびのびと自由に生きることを主題とする詩が作られるようになります。また、まったく別の潮流によるものですが、近代のヨーロッパでも同様の主題の詩が数多く創作されました。これらを「田園詩」と呼びます。

 

陶潜は、こうした「田園詩人」の嚆矢であり、巨頭であると評されています。

 

ちなみに、日本でも、たとえば兼好法師などがその「文学性」を受け継いでいます。

 

 

それから、ちょっと細かい説明をすると、『帰去来辞』は、韻文(詩)なのか散文なのか、意見が分かれています。

どちらにせよ、漢文学史上、もっとも重要な作品のひとつであることはまちがいありませんが。

 

 

 

さて、ここで、『帰田賦』の張衡を思い起こさずにはいられません。故郷の田園に帰る希望と喜びを表現した『帰田賦』は、『帰去来辞』より300年近く前の時代に作られた詩です。

 

実は、張衡こそが「田園詩人」の先駆者だったわけです。

 

 

『帰田賦』は「梅花の宴」の「元ネタ」なのではないかということで、日本と中国でにわかに注目を浴びました。しかし、私は、その作者張衡と『帰去来辞』の作者陶潜、二人の詩人の「類似性」に強くひきつけられます。

 

両者は、官職を辞し、田園での生活を求めました。

 

二人の偉大な表現者は、ともに、心を圧殺するような「しがらみ」を離れ、思いのままに生きることのすばらしさを描いています。

 

 

きっと、世の中の多くの人が、「帰りなんいざ」という句を懐の中で握りしめながら、日々の生活を送っているのだろうと思います。

私の懐中にもこの言葉が、ずっとあり続けてあったのです。

 

 

 

令和の随想の中で、四人の詩人の人生が重なり、交錯し、連環します。

 

 

 

令和という新しい元号は、春という季節にスタートするということで、選定にあたって、春のイメージが投影されました。

 

春といえば、私たちはやはり「桜」を思い浮かべますが、道真は「梅」を詠みました。

 

もちろん、道真にも「桜」の歌はありますが、「東風吹かば」の歌は「梅」でなければなりません。

 

なぜなら、匂う花は、「梅」だからです。

 

「桜」は、華やかで情緒豊かで、私たちの目をとらえて離しません。私たちは「桜」によって視覚を占拠されることを望みます。私たちが「桜」に心酔するのは宿命的であるかのようにさえ思えます。

 

一方、「梅」は、古来より、香で人々を魅了してきました。

 

 

「匂い」の感覚、すなわち嗅覚は、私たち人間の五感の中でもっとも未発達な機能です。

 

しかし、おそらくそれゆえにこそ、「匂い」は、私たちの記憶や心象と深く結びつくのでしょう。「匂い」は、「懐かしさ」や「心地よさ」、「愛着」、「親しみ」などの情感を呼び起こします。

 

現代人はとにかく「匂い」を嫌いますが、「匂い」は本来、好ましい感情に寄り添う感覚なのです。

 

 

また、「匂い」は、直接対象を、目視することなく認識させます。

 

「匂い」によって見えなくても対象が存在していることを感じたり、残っている「匂い」で対象が「存在していた」ことに気づいたりすることがあります。

 

 

花が咲いたことを知るためには、通常その花の眼前に赴く必要があります。

 

逆にいえば、離れた場所、あるいは、さえぎるものがある場所では花が咲いたことを確認することはできません。

 

しかし、「梅」であれば、その場にいない人に、花が咲いたことを知らせることができるわけです。

 

だから、「東風吹かば」の歌は「梅」でなければならないのです。

 

 

そして、「匂い」は、生命力、熱意、魅力、運気、活気などの発露であるとみなすことができます。

 

道真は、「梅」がたくましく生長し、精一杯生き続けることを願っていたにちがいありません。

 

 

 

東京では、「梅」は二月の終わりごろに咲き始めます。旧暦では、もう、「春」を迎えています。

 

私にとって、都立高校の入試日の「入試応援」は毎年の「区切り」のようなものとなっていて、受験生を見送って、その年の「任務」が終わったような心持ちになります。

もちろん、まだ「やること」は残っていますが、「やれること」はなくなるわけです。

 

いつのころからか、ぶらぶらと散策し、咲いている「梅」を見つけながら帰るのが恒例の行事のようになっていました。

 

 

「梅」を見て、菅原道真に思いを馳せ、そして「帰りなんいざ」とつぶやく。

何処に帰るのか、とぼんやりとつっこみながら。

 

 

二人の人物の幻影が、私の脳裏をよぎる。

 

解放感と希望に満たされて在地を離れ去ろうとする陶潜。

屈辱と怨嗟にとらわれて在地を離れ去ろうとする道真。

 

 

長い間、道真の歌は、私の心の「重し」のようでした。

 

 

しかし、この令和の時代に、私は、新しく菅原道真の実像に巡りあったのです。

 

 

 

 

 

菅原道真公は、広く「学問の神様」として信仰されています。「受験」に携わる人間にとって、やはり特別な存在であるといえます。

 

 

道真公が、「匂ひおこせよ」という言葉で、間接的に、「春」に「花」を咲かせなさい、と梅の木に思いを伝えます。私にとって、やはり、それは、象徴的な意味を帯びているように感じられます。

 

 

 

最後に、ここに私が書く言葉は、繰り返し、道真公の歌です。

 

この言葉を、令和の「受験生」たちに。

 

 

 

東風吹かば 匂ひおこせよ 梅の花 ―