『みかづき』を読んで③

『みかづき』には、「塾の人間」が、違和感を持つ部分が少なからずあるように思います。

 

フィクションの作品に対して「リアルではない」と指摘するようなことは、まずもって無粋な行為だと承知しているつもりではありますが、それでも、一応、気になったことを(枚挙すれば切りがないので、二、三)述べておきたいと思います。

 

 

 

まず、広範囲に教室を展開する大手の塾チェーンは、「個人塾の塾組織」に加盟することはほとんどありません。

そのデメリットが大きすぎるからです。

 

たとえば、「塾組織」に定められた合格実績の表示等の「規定」が足かせになってしまいます。まあ、どのみち虚偽の数字を広告に使うとしても、余計な「精神的負荷」を引き受ける理由はないわけです。

また、講師の引き抜きや、教室の新規「出店」の際にも、軋轢が生じます。「塾組織」のメンバーと同一地域に「出店」しようとすれば、多少の非難を受けることになるでしょう。

 

利害を調整したり利権にまつわる情報を共有したりする機能を持たない「組織」に、より「組織力」の高い塾企業が加盟する合理的理由は、ほぼ皆無です。

 

ですから、やはり、塾チェーンの経営者が「個人塾の塾組織」の会合に臨席するというような状況は、ちょっと不自然だと思います。

 

 

 

また、本書の中で、「文部省(現在の文部科学省)の役人」が、「夜7時以降に小学生の学習指導」をしないように求める場面がありますが、条例や法律による「規制」ならばともかく、強制力のない取り決めなど、相手が「文部省」であっても、学習塾にとっては、一顧だにする必要もありません。

 

そのことをよくわかっている「塾の人間」は、話を持ち出す意味も分からないし、とりあう意味も分からない、と感じるかもしれません。

 

「許認可事業」ではない学習塾は、たとえ行政機関の「要請」であっても、基本的に、それを守る義務はないのです。

 

かなり誤解されやすいことですが、学習塾の「指導官庁」は「文部科学省」ではありません。あえていうならば、それは「経済産業省」になるのかもしれません。

実は、学習塾を監督したり指導したりする行政上のシステムや、学習塾を「規制」する制度や法律は、存在しないのです。

 

 

 

さて、では、「夜7時以降の小学生の学習指導を禁止する」というような法律や条例ができる可能性はあるのでしょうか。

 

率直にいって、不可能だと思います。

 

なぜなら、政治家や官僚をはじめとする、この国の舵を取る人たちの子息は、より上位の「学歴」を求めて、夜7時以降も勉強するはずだからです。

 

誰が、その案を提出するのでしょう?

 

 

さらにいえば、「もっと勉強したい」という希望を強権的に抑止しようという「発想」が、理解を得られるとは思えません。(その「発想」は、勉強を「労働」であるととらえることに端を発します。)

 

 

もう一言付け加えるならば、「塾の人間」が「夜7時以降に小学生の授業をしている塾はほとんどない」という発言をするのは、ちょっと現実味がないように思います。逆に、夜7時以降に指導をしていない進学塾を見つけることは困難だと思います。

 

 

(ivy 松村)

 

 

 

『みかづき』を読んで②

『みかづき』のなかで、とくに印象的だったのが、「塾にはまる」という表現でした。

 

これは、おそらく、森さんが取材をされた塾の方がおっしゃった言葉なのだろうと思います。

「はまる」という表現は、あまりにもぴったりだ、と感じました。

 

 

 

「はまる」というスラングは、「夢中になる」とか「没頭する」という意味で使われることがあります。

学習塾で教えるという仕事に、魅力や面白さを見出し、やりがいを感じている塾の教師たちが、この日本に、数多くいらっしゃることでしょう。

 

 

 

さらに「はまる」という言葉は、「良くない状態のまま、身動きが取れない」といった意味を持ちます。

この業界には、さまざまな「しがらみ」や「義理」に絡めとられてしまって、「脱出」できなくなってしまっている人もいらっしゃるのかもしれません。

 

 

 

また、「はまる」は、「ちょうどよく適合する」という意味で使われることもあります。

 

塾の教師は、一般的には、まだまだ人気のある仕事であるとは言い難いのが実情です。

(この小説が、塾の教師の社会的評価を向上させてくれることをひそかに期待しています。)

 

「将来なりたい職業」に塾の教師を挙げる子供は、いるとすれば、相当風変わりというか、希少な存在です。

 

反面、「学校の先生」は、根強い人気を保っています。その差の由来は、ひとつには、「学校の先生」が「安定した仕事」であるということが挙げられるでしょう。そして、また、塾の教師が、受験指導に特化した存在であることも一因として挙げられそうです。つまり、塾の教師は、どれほど生徒たちと信頼関係を築こうとも、本質的には、子供たちを「駆り立てる存在」であるわけです。

 

 

つまり、まあ、子供の頃から塾の教師になりたいと思っていた人間は、稀なわけです。

世の中のほとんどの塾の教師は、青年期に、ある種の成りゆきや勧誘を経て、塾と関わり、この業界に身を投じます。あるいは、就職活動の際に、塾で働くという選択肢を意識したのだろうと思います。

 

別に、自分を含めた塾で働く人間を卑下しようとしているわけではなく、人生のある時点に、思いもよらない「道」が立ち現れることがあるのだ、ということについて述べています。

 

 

それもまた、十分に幸福な、ひとつの人生の帰結なのです。

 

 

「塾にはまる」というのは、「自分の人生が、はからずも、塾という世界に合致する」という意味でとらえることもできそうです。

 

 

 

森絵都さんの小説『みかづき』は、2014年に連載がはじまっています。

執筆にあたって、学習塾業界についてかなり入念に取材されています。

 

実は、私も、同時期に、学習塾の歴史について調べていて、何やらちょっと、勝手な親近感を持っています。

 

いずれそのうち「塾の歴史」について、このブログに書こうと思っていたのですが、そんなものに興味のある人がどれだけいるのだろうか、と考えてしまい、いくつかの記事の中で少し触れたこともありましたが、特にまとめたものを書くこともないままにしてしまいました。

 

触発されてしまったので、そのうち、書くかもしれません。

 

 

(ivy 松村)

『みかづき』を読んで①

お正月の休みを利用して、森絵都さんの『みかづき』を読みました。

数か月前に購入して、読む機会をうかがっていたのですが、読了することができました。

(生徒たちに、正月はどのように過ごすのか聞かれて、その度に「本を読む」と答えていたのですが、実は、この小説を読んでいたのです。)

 

 

これは、おそらく、学習塾を舞台とした、初めての「本格的な小説」になると思います。

 

 

読後しばらく、「もやもやした感じ」が続いていたのですが、その原因は、私が「塾の人間」としてこの作品を受け止めようとしていたからだと気付きました。

そこで、「塾目線」をしまい込んで、改めてこの小説をとらえ直してみると、いろいろなことがよくわかってきました。

 

 

 

『みかづき』には、複雑な「親子関係」が描かれます。

 

 

数代の親子の系譜とその人生、時代を描くストーリーは、割と古典的な文学の題材です。

代表的な作品として、ユン・チアンさんの『ワイルド・スワン』があります。この作品は、もしかすると、『みかづき』の構想に影響を与えているかもしれません。

 

 

 

タイトルの「みかづき」は学習塾のメタファーです。学校は「太陽」です。

学習塾は、学校という「太陽」の光を与えられなければ、自身に光をともすことができない「二次的」な存在であるというわけです。そして、学習塾がいまだ十分に成長していない存在であることを示しています。

 

 

また、「みかづき」というモチーフは、登場人物それぞれが抱える「欠落」を象徴しているととらえることができると思います。

 

『みかづき』の登場人物は、みな、それぞれ何らかの「欠落」を抱えて生きています。

 

彼らは、物語の中で、それぞれ、家族の誰かを傷つけたり、疎外したりする「大きな決断」をします。その決断は、それぞれが抱える「欠落」に起因しています。

 

この小説は、途中で「視点人物」が入れかわる独特な構成になっていますが、それは、「大きな決断」の際の葛藤を、「あえて描かない」ためなのだろうと思います。家族のきずなを打ち砕くような蹉跌と喪失が何度も訪れつつも時代は刻々と流れていく、そういった「演出」の意図を感じます。

 

 

この小説を読んで、私が持った「違和感」のうち最も大きなものは、吾郎が「大きな決断」をした際の葛藤が描かれていなかったことでした。

これは、私自身に、「自分の経験」を重ね合わせて読もうとする心理が働いたためなのだろうと思います。

 

 

 

また、私は、序盤の主人公である吾郎の「視点」を保ちつつ読み進めようと試みたのですが、そうすると、ちょっと見えてこない「部分」がありました。

 

 

実は、この小説世界の「軸」は、「赤坂の血脈」の方にあって、吾郎の存在は、いわば「媒介」であるといえます。

 

頼子→千明→蕗子→一郎という系譜に、吾郎の血筋はかかわっていません。

 

「赤坂の血脈」を「軸」にして物語の「構造」をとらえ直してみると、ある家族のもとに「まれびと」が訪れ、福をもたらす(そして去っていく)、という実にプリミティヴな物語の展開を見出すことになります。

 

 

そして、父親不在という「欠落」をかかえた「赤坂の血脈」、それもまた、「みかづき」であるといえるわけです。

 

吾郎は、学校という公的な場所から、赤坂家が営む学習塾、「私的な」空間へと転じます。

 

つまり、「役割論」的な読み方をすれば、吾郎は、「太陽」から「月」に向けて放射された「光」であるということになります。

 

 

この小説は、吾郎という「太陽の光」を蓄積し、「欠落」を満たしていく「赤坂の血脈」の物語でもあるわけです。

 

 

 

(ivy 松村)