「H」の起源は、古代ギリシアの文字にあります。
古代ギリシア語には「ヘータ」という文字がありました。「ヘータ」の大文字の字形は「H」と同じ形です。
これが、「エイチ」のルーツです。
この「Η」=「ヘータ」は、やがて「エータ」という名称で呼ばれるようになります。
古代ギリシア語において、[h]の音の消失が起こったからです。
そのため、「Η」という文字からも[h]の音が失われたわけです。
現代英語では、「H」という文字は「エイチ」と呼ばれます。
実は、これは奇妙なことです。
英語において、「H」という文字が担う基本的な「音素」は、[h]=「ハヒフヘホ」の音だからです。
「エイチ」という呼称に、[h]の音が含まれていないのです。
たとえば、ドイツ語では、「H」の文字は「ハー」と呼ばれます。
これは、ごく自然な「命名」だといえるでしょう。
「ハヒフヘホ」の音を担う文字の名称には、[h]の音が組み込まれているわけです。
ラテン語でも「H」は「ハー」と呼ばれました。(ラテン語には当初[h]の「音素」がありました。)
ラテン語から派生したイタリア語、スペイン語、フランス語などのロマンス諸語は、「H」を発音しないということを、前回の記事で紹介しました。
では、これらの言語は、「H」をどのように呼んでいるのでしょうか。
・イタリア語 …「アッカ」
・スペイン語 …「アチェ」
・フランス語 …「アシュ」
イタリア語は「H」の文字に「カ」→「カキクケコ」の音を代表させています。
スペイン語は「H」の文字に「チェ」→「チャ・チ・チュ・チェ・チョ」の音を代表させています。
そして、フランス語は「H」の文字に「シュ」→「シャ・シ・シュ・シェ・ショ」の音を代表させています。
これらは、実は、それぞれの言語の「ch」の発音です。
つまり、これらの言語にとって「H」は、「ch」を形成するための文字であるとみなされているわけです。
ということで、「ch」についてもう少し詳しくみていきましょう。
[h]の音を失った「Η」という文字には、新しい役割が与えられるようになります。
それは、「二重字」の一部になることです。
「二重字」というのは、「ひとつの文字」と同じような機能を持つ2文字列のことをいいます。
要するに、「セット」になった2つの文字に、「独自の発音」を付与するわけです。
「H」という文字の重要な働きのひとつは、「二重字」を構成するということです。
「ch」は、「c」という文字と「h」という文字が組み合わさった代表的な「二重字」です。
イタリア語、スペイン語、フランス語では、「H」という文字の名称に「ch」の音があてられています。
これらの言語にとって、「H」という文字の「第一義」は、「ch」を作り出すことなのです。
それにしても、それぞれの言語で、「ch」の発音がずいぶん違っていますね。
イタリア語では、「ch」は「カキクケコ」の音になります。
たとえば、イタリアの有名な童話の登場人物「ピノッキオ」の綴りは「Pinocchio」になります。
スペイン語では、「ch」は「チャ・チ・チュ・チェ・チョ」の音になります。
たとえば、キューバ革命に参画し、スペイン語圏で人気の高い歴史的人物のひとり、「チェ・ゲバラ」の綴りは「Che Guevara」になります。
フランス語では、「ch」は「シャ・シ・シュ・シェ・ショ」の音になります。
たとえば、ピアノ曲で有名な作曲家の「ショパン」の綴りは「Chopin」になります。
フランス語では「in」の発音が「アン」になるので、「Chopin」は「ショパン」です。
ちなみに、「ルパン」は「Lupin」と書きますよ。
余計な話ですが、“Chopin”は、英語でも「ショパン」ですが、「チョピン」という人もいます。“Lupin”は、「ルピン」ですね。
…チョピン。…なんか、残念。
ドイツ語においても、「ch」は独自の発音を持っています。
ドイツ語には「ハヒフヘホ」が2種類あります。
ひとつは「H」で表される[h]です。
もうひとつは、強く発音される「ハヒフヘホ」で、「カ」と「ハ」を強く同時に発音するような音です。
文字で説明するのはなかなか大変ですが、寒いときに、手に息を吹きかけるときに出すような「ハ~」という音で、のどの少し奥まった上のあたりを息でこするようにして出します。
ドイツ語には「ハヒフヘホ」が2種類あるので、これらを区別するために「ch」が用いられているわけです。
たとえば、ドイツの偉大な音楽家、「バッハ」の綴りは「Bach」となります。
また、ドイツ起源の人気のあるお菓子に「バウムクーヘン」がありますが、その綴りは「Baumkuchen」になります。
そして、英語の「H」ですが、「エイチ」と読みます。
したがって、その名称には、やはり「ch」という二重字が念頭に置かれているわけです。
英語における「ch」の発音は、「チャ・チ・チュ・チェ・チョ」です。
さて、ここでひとつの疑問に突き当たります。
イタリア語やスペイン語、フランス語などとは異なり、英語には、[h]の音が存在し、「H」という文字は、その発音の表記を担っているわけです。
そうすると、この文字の名称は、「ハー」とか「ヘー」であるべきです。
なぜ、「H」は「エイチ」なのでしょうか。
そのヒントは、フランス語にあります。
英語は、フランス語の影響を強く受けています。
「フランス人」がイギリスを支配していた時代があるためです。
「フランス人」によるイギリスの「征服」を、歴史の用語で「ノルマン・コンクエスト」といいます。
デンマークやノルウェー、スウェーデンなどの北欧には、かつて「ノルマン人」と呼ばれるゲルマン人の一派が住んでいました。「ノルマン」というのは「北方の人」という意味です。
フランス北西部に、「ノルマンディー」という場所がありますが、その地名は「ノルマン人」にちなんだものです。
「ノルマン人」というのは、つまりは「バイキング」のことです。
彼らは、巧みに船を操り、ヨーロッパ各地の沿岸に勢力を伸ばしていき、やがてその一部がフランスに土着します。その地が、「ノルマンディー」と呼ばれるようになったわけです。
フランスに根を下ろした「ノルマン人」は、次第に「フランス化」し、フランス語を話すようになります。
そうはいっても「バイキング」の末裔です。
11世紀後半、彼らは対岸のイギリスに侵攻し、イギリスを支配下におさめます。
こうして、イギリスは「ノルマン人」に征服されてしまうわけですが、それは、もはや「フランス人」によるイギリス支配だったわけです。
「ノルマン・コンクエスト」を契機として、イギリスには大量のフランス語の語彙が流入しました。
英語に、フランス語由来の語彙がたくさんあるのも、また、フランス語(風)の発音を持った語彙が存在するのも、「ノルマン・コンクエスト」の影響なのです。
「H」に話を戻しましょう。
フランス語では、「H」を「アシュ」と発音します。
その綴りは“ache”です。フランス語では「ch」は「シュ」の発音になります。
イギリスにおいても、「フランス人」に支配されていた時代には「H」は「アシュ」と発音されていました。
しかし、やがてイギリスでは「ch」は「チ」と発音されるようになります。
イギリス人が、国内からフランスの勢力を追い出し、英語が「国民の言語」として形成されていくなかで、いくつかの要因が重なって、英語の発音に変化が起こりました。
となれば、“ache”の読みは(スペイン語と同じように)「アチェ」になるはずです。
ところがまた、中世から近世にかけて、英語の発音に変化が生じました。そのため、「アチェ」のような発音は、維持されなかったのです。
英語独特のユニークな「発音体系」が、15世紀から17世紀にかけて形作られました。
そのうちのひとつは、語末が「子音+e」になるときに、「e」を発音せず、その直前の母音を二重母音で発音するというものです。
たとえば:
・「ace」→「エイス」(トランプの1)
・「age」→「エイジ」(年齢)
・「ape」→「エイプ」(猿)
・「ate」→「エイト」(eatの過去形)
したがって、“ache”は「エイチ」と発音されなければなりません。
フランス語において「H」の文字は“ache”という名称です。
フランス語では、その綴りを「アシュ」と発音しますが、英語では「エイチ」と発音されてしかるべきなのです。
…しかしながら、“ache”は「エイチ」とは読みません。
よく知られているように、現代の英語では、“ache”を「エイク」と読みます。
「ache」という綴りの、別の単語が「現れた」のです。
18世紀ごろに、「痛み/痛い」という意味を持つ「エイク」という発音の語彙が、「ake」ではなく、「ache」という綴りに整理されたのです。
そのため「ache」=「エイク」となってしまったわけですが、「H」の呼称は、依然として「エイチ」です。
そこで、「エイチ」という発音を表記する別の綴りが求められたのです。
それで「エイチ」は「aitch」となったわけです。
ちなみに、現代の英語で「アシュ」といえば、「ash」(灰)のことですね。(少し発音が違いますが。)
(ivy 松村)