サンタクロースが存在するのかどうか、という「サンタクロース論争」というのが昔からあって、小さな子供たちの間で、言い合いになったりすることもあります。
実際には、子供は、サンタクロースを信じているというよりも、信じるように誘導されているのですね。大人は、子供にサンタクロースの存在を信じていてもらいたいわけです。
私には、サンタクロースにまつわる、ある思い出があります。
まだ、小学校にあがる前、クリスマスの前の晩、寝る前に、母に、今夜サンタクロースが来てプレゼントをくれるはずだと聞かされました。
私はすっかり舞い上がって、興奮して喜んでいたのですが、ふと、心配がよぎりました。私の家には煙突がありません。いったい、サンタさんはどこから家に入ってくるというのでしょうか。
その心配を母に伝えると、じゃあ、玄関を少し開けておきましょう、と言って、家の入口の扉を3センチほど開けておくようにしました。
その真っ暗の隙間から冬の夜の冷気が入り込んできて、少し震えたことを覚えています。サンタさんは、こんなにも寒い暗闇の中をやってくるのだ、と思い緊張しました。
サンタさんに会いたかったけれど、寝ないとプレゼントをもらえないと言われて床につきました。目を閉じても、きっと意識を保とうと試みたのですが、幼い私はすぐに寝ついてしまいました。
あくる朝、目を覚ますと、確かに、枕もとにプレゼントがありました。ひとしきり小躍りした後で、私は玄関に向かいました。サンタクロースが我が家に来たという痕跡を、どこかに確かめたかったのです。
玄関には鍵がかけられていました。
事態を飲み込めない私が玄関の前で佇んでいると、父がやってきました。どうしたのか、と私に尋ねるので、玄関に鍵がかかっている、とつぶやきました。すると、父は、悪びれることなく、
「ああ、昨日、寒いと思ったら、開けっ放しになっとったから、閉めたわ」
と言いました。
・・・父は、基本的に、昔から、タイミングの悪い人でした。
ちなみに、母は東京の人で、父は広島の人です。
そのとき、私は、自分が想定している人物としての「サンタクロース」はこの世にはいないのだと悟りました。
ただ、後々になって、クリスマスってなんだろう、と考えたときに、誰かを思いやる気持ちをあらわす日なのだと思い当たりました。
ディケンズの「クリスマスキャロル」やオー・ヘンリーの「賢者の贈り物」といった物語は、そのことを主題としています。芥川龍之介の小説「少年」にもクリスマスのエピソードが出てきますね。
この幼い日の経験がなかったら、そのことには気づかないままだったかもしれません。
クリスマスは、誰かを喜ばせたいと思っている人が、それを実行する「口実」になるのです。そして、サンタクロースというのは、恥ずかしがり屋の日本人にとって、都合のいい「隠れ蓑」になるのです。
「サンタクロース」は、誰かの心を温かくしてあげたいという気持ちの象徴なのです。
どうして母は自分をだましたのだろう?と、当時の私はしばらく考えていたのですが、それは私を喜ばせるためだったのですね。
クリスマスはあたかも日本の年中行事のように定着していますが、一人ひとりの人が、この日をどのように捉えているのかというのはとても興味深く思います。
基本的に、私は、塾に「遊び」を持ち込むのは間違っていると思っています。ですから、塾にクリスマスの要素は必要なのだろうか、と考えてしまうのですが、この時期は、受験生にとって、多分、精神的に最も重くなる時期なので、ちょっと、なごむ時間をあげたいなあと思ったりもするのです。
(ivy 松村)