国際政治学講座⑦(「インターネット」)

「インターネット」は、よく知られているように、米軍の通信技術が冷戦後に民間に開放され、発展したものです。ある意味で、冷戦後の世界を端的に象徴するテクノロジーであるといえるのかもしれません。

 

 

発展途上段階の「インターネット」は、「カウンターカルチャー」としての側面を強く持っていました。

そのため、しばしある種の「抑圧された声」がダイレクトに投影されました。また、その「立ち位置」から、「メジャーなメディア」への「対抗手段」としての役割を果たすことになりました。

 

おのずと、「メジャーなメディア」は「リベラル的言論」のフィールドとなり、「インターネット」はそれに抵抗する言論のフィールドとなったわけです。

 

 

このような「構図」から、一般的には、新聞やテレビは、社会的に「正統な」メディアであり、「インターネット」は未熟で、脆弱なメディアであるとみなされることが多くあります。

 

 

 

しかし、この数年で急激に「状況」が変化しています。

 

 

「インターネット」は、的確に「民意」を反映する「鏡」としての「価値」を帯び始めています。

 

その最大の要因は、スマートフォンの普及です。

それにより、「インターネット」への参入の「ハードル」が下がり、より多くの人が「インターネット」を活用するようになりました。

 

 

2016年~2017年は、「インターネット」の「機能」と「影響力」が、「メジャーなメディア」を「オーバーテイク」した「転換期」として、のちの歴史に刻印されることになるのかもしれません。

 

「インターネット」は、双方向のコミュニケーションが可能で、速報性があり、容易に情報へのアクセス、閲覧が可能です。また、文字、画像、音声、動画そしてプログラミングなど、あらゆる情報をあつかうことができます。さらに近年、端末の進化によって、携帯性・操作性・情報の保存性においても既存のメディアを凌駕しました。

 

 

今日、「インターネット」は、極めて日常的な「情報インフラ」として稼働しています。

「一般的な人々」が、容易に「インターネット」にアクセスし、情報を送受信する時代が到来したのです。

 

「インターネット」は、かつてのように、ごく一部の「偏執的な人々」が集う「空間」ではなくなっています。

 

しかし、そのことに、まだ気づいていない人々も、数多くいるのかもしれません。

 

 

 

さて、もう一度「ポスト・トゥルース」の議論を呼び起こしてみましょう。

 

「ポスト・トゥルース」は、なぜ、イギリスのEU離脱とアメリカ合衆国のトランプ大統領の選出という「誤った判断」が下されたのかを説明する「理屈」として注目されました。

それは、「インターネット」に蔓延する「虚偽のニュース」などに「扇動」された人々が「誤った判断」をしてしまった、というようなことを論じるものでした。

 

 

これまでの考察をふまえると、「ポスト・トゥルース」という言葉を用いて「非難」されているのは、「反グローバリズム」=「自国民優先主義」の「動き」であることが理解できます。

 

 

2016年の2つの「投票結果」は、「自国民優先主義」の「流れ」が両国で「大勢」を占める状況を、可視的に示しました。

 

 

「グローバリズム」と「リベラル」を糾合した「良識派」ともいうべき勢力は、イギリスはEUを離脱するべきではなく、トランプ氏はアメリカ合衆国大統領に選ばれるべきではないと考えていました。

 

新聞やテレビ等の「メジャーなメディア」は概ねそれに同調していました。

 

「良識派」の人たちは、「結果」が明らかになるまで、自分たちが「リードしている」という「盲信的な確信」をもっていました。

つまり、「彼ら」が要求する「賢明な判断」が、多数を占めることになると信じ切っていたわけです。

 

ところが、結果は「真逆」のものでした。

 

「良識派」の人たちはその結果を受け止め切れず、混乱し、狼狽しました。

そこで、「どうして人々は『誤った判断』をしてしまったのか」を説明する「理屈」が求められたわけです。

 

 

かくして、「ポスト・トゥルース」論が持ち出されたということなのでしょう。

 

「人々」が「誤った判断」をしてしまったのは、「人々」が「でっちあげられた情報」に欺かれたためであるという「理屈」が提唱されました。

そして、それに「インターネット」が一役買った、という「筋書」になるわけです。

 

 

 

「良識派」の人たちは、「自分たちは正しい」という前提を絶対視し、「人々が誤った判断をした」という認識から、抜けきることができずにいるように見えます。

 

本来ならば、「人々」が、どのような動機で、どのような葛藤を抱きながら、どのような思いで「判断」を下したのか、を考えようとするでしょう。

 

ところが、「ポスト・トゥルース」論は、「思慮のない人たちが、低質な仕掛けに騙されて、愚かな判断をした」という「結論」に終始します。

 

 

結局のところ、「ポスト・トゥルース」は、合理的な分析アプローチなどではなく、党派的な「ラベリング」の戦略のように思えます。

 

「相手」に「ラベル」(レッテル)を貼り付けることで、「相手」が社会的規範から逸脱した存在であるという「認識」を強化したいわけです。

 

 

 

最後に、「インターネット」に蔓延しているとされる「嘘の情報」について、もうすこし考えてみましょう。

 

前世紀、まだ「インターネット」が民間で稼働していなかった時代にも、新聞やテレビ、雑誌等に、デマや憶測にもとづいた記事が載せられることはあったわけです。

もちろん、「マスメディア」が登場する前にも、時として人々は「嘘」の情報に惑わされたり扇動されたりしました。

 

つまり、「インターネット」だけに「嘘の情報」が集まるでわけはないのです。

あらゆるメディア、あらゆるコミュニケーションに、「嘘」が紛れ込む可能性があるのです。

 

 

「メジャーなメディア」もまた、都合の悪い情報を隠したりごまかしたり加工したりすることがあります。さらに、「嘘」の情報を発信するということも、これまでに何度もありました。

 

 

トランプ大統領は、「ツイッター」を使って「情報」を発信することで知られています。

それは、「メジャーなメディア」は自分の発言を「捻じ曲げる」と考えているからなのでしょう。

 

おそらく、トランプ大統領と彼を支持する人々は、「メジャーなメディア」こそが「真実」を「軽視」していると考えているに違いありません。

 

 

 

さらに、また、「インターネット」をとおして、「より信頼できる情報」を得られる場合もあるでしょう。

 

「インターネット」には、「メジャーなメディア」による報道を「検証」するサイトが数多く存在し、実際、そのいくつかは高い諒解性を持っています。

 

 

 

「インターネット」の「嘘」が頻繁に焦点化されるのは、その「嘘」が「深刻なもの」だからではありません。

 

 

単純に、「インターネット」に「嘘」があふれるのは、「インターネット」が、たやすく「嘘」を暴いてしまうからです。

 

「嘘」であると見破られた「情報」が、「嘘」として認定されるわけです。

 

 

「インターネット」には、たくさんの「情報」が集まります。

そして、それが「嘘」なのかどうか、多くの人間に検証されることになります。

 

「嘘」であると見破られた「情報」は、「そのこと」をすぐさま拡散されます。

 

 

ですから、「インターネット」には、「嘘があふれる」ことになるのです。

 

 

 

(ivy 松村)

 

 

国際政治学講座⑥(「共生」と「公共性」)

冷戦後、21世紀の「先進国」では、「リベラル的理念」にもとづいた「社会観」が浸透します。

すなわち、「違った文化的背景を持った人々」との「共生」が、来るべき世界の在り方であると考えられるようになったわけです。

 

冷戦の終結によって、「思想的支柱を失った人々」には、「新しい方向性」が必要だったのかもしれません。また、「グローバリズム」を推進しようと考える人たちにとっても、異論はなく、むしろ都合の良いものだったのでしょう。

 

 

こうした「リベラル的理念」は、人間性への「踏絵」となりました。

 

「先進国」では、「違った文化的背景を持った人々」に対して「寛容」であることが、人間的度量、善良さ、誠実さ、品性、清廉性等々を示す「徳目」であるとみなされるようになったわけです。

 

 

 

「社会の包容力」が拡大し、世界は、一歩、あるべき形に近づいたといえるのかもしれません。

 

しかし、それはまた同時に、こうした国々の社会に「反動的な葛藤」を生じさせることとなったのです。

 

 

 

フランスの「公共性」についての議論は、象徴的な例です。

 

フランスには、公共の場に「宗教的な意匠」を持ち込まない、という「社会的な了解」があります。

フランスは、キリスト教宗派の対立によって、宗教戦争をはじめとする、社会的疲弊を何度も経験しました。

公共の場から「宗教」を分離させるというのは、こうした対立を克服するために必要な「対価」であるというわけです。

 

つまり、伝統的なフランス人は、社会の成員一人ひとりが「自制」をすることで、「公共性」が保たれると考えているわけです。

 

 

 

そのような「文化」を持つフランスで、近年、イスラム教徒の住民が、学校などの「公共の場」で宗教的な服装を改めないことが問題となっています。

 

「リベラル」な考えの持ち主は、彼らの「文化的価値観」を認めるべきである、と主張します。そして、マイノリティに「同化」を強いるのは「排他的」な行為であり、下劣な行いであると考えます。

 

 

一方、伝統的なフランス人は、一部の人間だけに「特権」を認めるべきではないと考えます。

 

「特定の文化」の「特別扱い」が許されるのであれば、それは「不平等である」ということになるわけです。

 

 

 

「答えのない問い」なのでしょうが、こういう場合、おおかた、フランスという国では、「フランスの文化」が優先されそうに思えます。

 

ところが、フランスに限らず、「先進国」のこうした「文化的摩擦」は、多くの場合、「リベラル的言論」が優勢を保ちました。

 

「リベラル的言論」は、マスコミや学校といった、「社会的影響力」の強い「情報発信」と密接に結びついていたからです。

また、「グローバリズム」を推進しようと考える経済・政治リーダーも、「リベラル的言論」に同調します。

 

そして、「リベラル的言論」を否定することは、「良識的に困難だった」のです。

 

 

 

「リベラル」は「弱者」を支援し、融和的な社会の実現を目指したわけですが、皮肉なことに、その過程で「不平等」を生み出すことになったのです。

 

 

こうして、「先進国」では、社会の「表層」を「リベラル的言論」が覆い、その皮下で、不満と反発が醸成されていくことになったわけです。

 

 

(ivy 松村)

 

 

 

 

 

国際政治学講座⑤(「ナショナリズム」)

21世紀の世界を覆う「覇権的ナショナリズム」、「反理性的ナショナリズム」そして「原理主義」といった「黒い影」は、ある意味で「グローバリズム」の「副作用」であるといえます。

 

特に、この20年間安定的に経済成長を謳歌してきた極東地域が、急速に「物騒」になっていますが、情勢を「撹拌」しているのは、「グローバリズム」によって、容認され、増長した「当事国」の「反理性的ナショナリズム」であるということができるかもしれません。

 

 

 

「グローバリズム」は、21世紀初頭の「先進国」の「ありかた」を強く規定しました。

 

新興国の経済成長は、「自国」の「経済」にも利益をもたらします。

したがって、新興国の成長を促すために、「先進国」は新興国に積極的に投資し、かつ新興国が引き起こす国際的葛藤を「宥和的」に受け入れました。

 

 

その結果、いくぶん「風刺的な状況」が生まれたのです。

 

 

簡単にいえば、「先進国」の「ナショナリズム」は抑圧され、新興国の「ナショナリズム」は激化したわけです。

 

 

 

21世紀初頭は、さかんに「多様性」のすばらしさが唱えられた時代でもあります。

「先進国」では、「違った文化的背景を持った人々」との「共生」が、社会的に重要なテーマとして受け入れられました。

 

そのような「リベラル的理念」は、実は、「グローバリズムの要請」であったわけですが、その「当事者」も、その「受容者」も、「そのこと」に気づいていません。

 

 

 

さて、他方、新興国は、先行する「先進国」を「キャッチアップ」するために、「ナショナリズム」を「原動力」として活用しました。

 

結果、新興国の「ナショナリズム」は抑制されずに膨張の一途をたどり、今日、「制御の難しいもの」となってしまいました。

 

 

 

「先進国」の「言論」は、自国の「ナショナリズム」を抑え込みながら、一方で、新興国の「ナショナリズム」を「容認」しました。

 

そのため、前者は「不当なもの」で、後者は「正当なもの」であるという「不均衡な観念」が拡大していったわけです。

 

 

かくして、「先進国」の「対抗的ナショナリズム」が興隆しつつあります。

 

 

無分別な「二重規範」が、「ナショナリズムのきょうだい」の「揺籃」となったのです。

 

 

 

(ivy 松村)

 

 

 

国際政治学講座④(「リベラル」)

20世紀は、ある意味でとても「わかりやすい」政治の状況がありました。

 

「資本主義」と「社会主義」が鋭く対立しました。

 

 

単純な「図式」に当てはめて説明すれば、「資本主義」は、経済活動の「自由」を重視する考えです。一方、「社会主義」は、富の分配を「平等」に行おうという考えです。

 

簡潔に述べると、前者は「自由」に価値を置き、後者は「平等」に価値を置く考えであるといえます。

 

 

 

20世紀の終盤に、冷戦 が終結し、「資本主義」の「勝利」が確定します。

「資本主義」が優勢となった要因のひとつは、「資本主義」が、部分的に「社会主義」を取り入れて「進化」したことです。

 

 

20世紀は、ある意味で、どのように「資本主義」をマネージメントしていくのか、ということが「世界経済」の重要な「テーマ」となっていたのです。

 

 

 

「資本主義」のもとで、際限のない「自由な競争」を認めてしまうと、社会の「格差」が広がってしまいます。

 

 

「自由な競争」のもとでは、「資本」をより多く持っている者ほど、より多く儲けることができます。「商品」を生産し、販売することで利益が生まれるわけですが、「資本」を生産設備や宣伝等により多く「投資」すれば、より多く売り上げを伸ばし、より多く利益が得られるわけです。

 

要するに、「資本家」は、自分が有する「富」を使って、さらに大きな「富」を生み出していくことができるわけです。

 

一方、「労働者」は、「資本家」が所有する「会社」に雇われて、働きます。

自分の「労働力」を提供することで賃金を得るわけです。

つまり、働いて稼ぐということは、「労働力の販売」であるといえるわけです。

 

しかし、「労働力」をより高く売ることはなかなか大変です。もっと安くもっと長く働く、という別の「労働者」がいれば、「自分」は、雇われることが難しくなります。

 

 

このような「資本家」と「労働者」の「関係性」のもとで「自由な競争」を導入すれば、「労働者」はより安い賃金で長時間労働させられるような「契約」を受け入れるしかなくなります。

「資本家」のほうが、圧倒的に「立場」が強いわけです。

 

そのため、成熟した「資本主義」の社会では、「労働者」の権利を守るための法律や制度が整備されるわけです。

 

「労働者」の雇用や賃金・労働時間を保証したり、社会保障制度を整えたり、税率を調整したりするわけです。

 

 

 

で、「資本家の利益」と「労働者の権利」を調整するのが「政治」の役割になるのです。

また、どのように「線引き」するのがよいのか、という考え方が「政治思想」になるわけです。

 

 

ものすごくざっくりといえば、「資本主義」の色が濃い「政治思想」は、「資本家」の「自由」を大きくしようと考えます。

一方、「社会主義」の色が濃い「政治思想」は、「労働者」の「立場」を保護しようとします。

 

 

 

結局、「資本主義」の「優勢」がゆるぎないものとなり、冷戦が終結しました。

それによって、「自由」の価値が高まることになったのです。

相対的に「平等」の価値が軽んじられ、「格差」が拡大することになりました。

 

 

そして21世紀には、「資本主義」を加速させる「グローバリズム」が、世界を席巻するようになったのです。

 

 

 

ところで、20世紀には、「保守」と「革新」というもうひとつの対立の「構図」が存在しました。

 

前者は、伝統や国民意識を重視するような立場です。

後者は、制度や体制を新しいものに変えていこうとする立場です。

 

冷戦下では、一般的には、「資本主義」は「保守」と結びつき、「社会主義」は「革新」と結びつきました。

 

 

 

さて、21世紀に入って、「保守」に対抗する「政治勢力」は一様に「リベラル」と呼称されるようになります。

「社会主義」はほとんど「絶滅」状態になり、「革新」は「死語」になりました。

 

それは、「冷戦」が終結したことと関係しているのでしょう。

 

 

「自由」を英語で「リバティー」(liberty)というように、本来「リベラル」(liberal)というのは「自由な」という意味です。

 

 

しかし、「自由」という「価値」をその名に刻む「リベラル」は、もともと「社会主義」を始源とする「政治思想」なのです。

 

 

実は、「リベラリズム」という「政治思想」も存在します。ところが、ややこしいことに、「リベラリズム」と「リベラル」は別物です。

報道や評論などをとおして、慣用的に「リベラル」という呼び方が定着してしまったのです。

また、「リベラル」はもともと形容詞なのですが、なし崩し的に「名詞」として使用されることも多くあります。

 

 

 

「リベラル」の特徴のうち、特筆すべき点は、「善良さ」や「人道的振る舞い」を重視すること、であるといえます。

 

ひとつの顕著な例として、「移民政策」を挙げることができます。

とくにヨーロッパで、「リベラル」の政治家たちは「移民」を寛容に受け入れることを主張しました。

 

 

 

「リベラル」の源流にあるのは、「労働者」の権利を守ろうとする「政治思想」だったわけですが、皮肉なことに、現代、その流れは対岸に行き着いてしまったわけです。

 

 

「グローバリズム」と「リベラル」は「呉越同舟」で、「移民」に寛容な社会を目指します。

 

 

 

21世紀は、「グローバリズム」と「リベラル」の狭間で、「労働者」が身を寄せるべき「政治思想」が霧散してしまったわけです。

 

そのため、「労働者」の多くは「保守」の分流ともいうべき「自国民優先主義」に引き寄せられることになったわけです。

 

 

 

 

 

(ivy 松村)

 

 

国際政治学講座③(「移民」)

イギリスのEU離脱、そしてトランプ大統領の政策は、ともに「移民」という象徴的なトピックを、重要な争点としています。

 

「良識派」の人々は、社会は、「移民」に寛容であるべきだと考えます。

ところが、その言説に賛同が得られなかったわけです。

 

その「結果」にショックを受けた人々は、世界に「悪意」が蔓延しつつあると考えてしまうかもしれません。そして、「移民」の存在を憎むような、劣悪な精神を持った「排外主義者」が増殖しつつあることを憎悪するかもしれません。

 

もちろん、世の中には愚劣な感受性を持った人間もいるのでしょうが、英米両国の半数以上の人をすべて「まともではない」とみなすのは、ちょっと現実味がないというか、常軌を逸しています。

 

私たちに必要なのは、「人間性の識別」などではなく、その「動機」を知ることです。

 

 

実際には、「彼ら」の不満の大部分は、「移民」に寛容な「社会構造」に向けられています。

 

要するに、「グローバリズム」の進展によって、自分たちの社会が不安定なものにさせられていると、「彼ら」は考えているわけです。

 

 

 

「グローバリズム」を推進しようとすれば、必然的に「移民」に寛容な「社会構造」が構築されます。

「自国民」の「労働者」よりも「移民」の「労働者」のほうが、「生産性」が高いからです。

 

「グローバリズム」は、「自由な経済活動」を阻害するあらゆる「垣根」を取り払おうとします。

そして、国内外を問わず、より「コスト・パフォーマンス」の高い人材・機材・システム等の「産業的リソース」が選択されるわけです。

 

 

 

「移民」に寛容であるということは、裏を返せば「自国民」を冷遇しているというとらえ方にもなります。

 

西欧諸国やアメリカ合衆国で「反移民」を掲げる政治勢力が伸長しているのは、「移民」に寛容な「社会構造」が固定化されることによって、自分たちの生活が逼迫させられていると考える人々が増えているからです。

 

また、「移民」は、「犯罪」や生活上の軋轢を増加させ、「社会不安」を大きくさせると考える人もいます。

 

 

「反移民」の立場を表明する人々は、「移民」は「優遇」され、自分たちは「我慢を強いられている」と考えます。

つまり、自分たちを、虐げられた「弱者」であると規定しているわけです。

 

 

一方、「移民」に寛容な人々は、「移民」は虐げられた「弱者」であると考えます。

彼らを助けることは、「正義である」と信じているわけです。

 

 

 

「移民の問題」はしばし「人権問題」と結合します。

「反移民」の立場を取る人々は、「移民」の「人権」は過剰なまでに守られているのに対し、自分たちの「人権」はないがしろにされていると考えます。

 

こういった「主張」に対して、「生産性」を重視する人たちは、「能力」の劣った者が、「公平な競争」のもとで敗れるのは仕方がないではないか、と考えます。

自らの「劣等性」を他者の責任に転嫁する卑しい戯れ言のように思われてしまうわけです。

 

しかし、この「主張」は、一見、早々に「論破」されてしまう「幼稚な感情論」のように思われて、実は、非常に核心的です。

 

 

社会科学の基礎的な素養を持つ人間は、「国家」(政府)の役割は「自国民」の生命と財産を守ることであるという「根本」を思い出すことができます。また、基本的に、憲法等に定められた「人権」を有すると認められるのは、「自国民」だけであることも知っています。

 

 

つまり、民主的な近代国家の政府は、原則的に、「自国民」を優先的に「保護」する義務を負っていると考えられるわけです。

 

 

その意味では、「反移民」の主張には、「根拠」があるのだともいえてしまうわけです。

 

 

 

さて、「移民」に寛容な人々には2とおりのタイプがいると考えられています。

 

あるグループは、「移民」の「労働力」に期待しています。「移民」が増えたほうが「得をする」という立場の人々です。ある意味で、「自国民の生活」よりも「経済(会社)の発展」に重きを置いているわけです。

 

さらに、別のグループは、単純に「人道的」な見地から、社会的に弱い立場の人々の力になりたいと考えている人たちです。

 

 

それにしても興味深いことに、その他すべての観点においては、おそらく対立するであろう2つの「立場」が、「移民」というトピックにおいては意見が「一致」するわけです。

 

 

(ivy 松村)

 

 

国際政治学講座②(「グローバリズム」)

21世紀の最初の15年は、「グローバリズム」が世界を席巻しました。

 

「グローバリズム」は、通信・輸送技術の発展と、国家間の規制や障壁の緩和によって進展しました。

非常に単純化していえば、冷戦が終結したことによって、地球のほぼ全域が「資本主義」の、単一の「経済活動領域」として統合されたわけです。

 

21世紀初頭は、先行して発展を享受していた、いわゆる「先進国」に対して、新興国の目覚ましい「キャッチアップ」が見られました。

 

 

グローバル化した世界では、世界中が「市場」となります。

そのため、消費財の「生産体制」がより「巨大」になります。それにともなって、エネルギー資源の確保やインフラ整備がよりいっそう活発化します。

 

したがって、豊富な「労働力」、あるいは「資源」を有した国が勃興しました。

21世紀には、いわゆる「BRICs」や、産油国の「国力」が増し、存在感が高まることになったわけです。

 

 

一方、「先進国」では、社会的な「格差」が拡大します。

その大きな理由は「労働力の国際競争」の激化です。

有力な国内企業のほとんどが「多国籍企業化」し、人件費の安い「国外」で生産を行うことが一般的になりました。また、外国人労働者を積極的に受け入れました。

 

「企業」(や投資家)はより大きく儲け、肥大化していきます。

一方、「労働者」はより「効率的な生産性」を求められるようになったわけです。

 

 

 

「グローバリズム」は、「国際化」とか「文化的画一化」といった「精神面」が焦点化されて論じられることがありますが、核心的には、「経済活動規模の巨大化」に他なりません。

「資本主義」を「極限」にまで押し広げようというのが「グローバリズム」の本質です。

 

 

非常に乱暴な「図式」を示すことが許されるのであれば、「先進国」において、グローバル化によって得をするのが「資本家」であり、損をするのが「労働者」であるということになります。

 

 

「グローバリズム」を「軸」にして改めて「状況」を見直してみると、イギリスのEU離脱やトランプ大統領の誕生といった「サプライズ」が何を意味しているのかがわかってきます。

 

すなわち、これらの出来事は、イギリス・アメリカ両国で、「反グローバリズム」の「うねり」が「臨界点」を超えたことを物語っています。

 

 

この2つの「決定」には、共通点があります。

それは、「自国民の利益を最優先する」という「理念」です。

 

 

(ivy 松村)

 

 

国際政治学講座①(「ポスト・トゥルース」)

学習塾のブログに「政治的な内容」を書くのは「不相応」かもしれません。

しかし、あえて書いてみることにしました。

 

最近、「政治的なこと」について、つらつら考えていて、ちょっと、考えたことを整理しつつ書き留めてみようと思い立ったのです。

 

勉強や受験のこととは関係のない内容なので、興味のない人にはあまりおすすめしませんが、せっかく書いたものなので、お読みいただけると嬉しく思います。

 

 

一点、注意いただきたいのは、この記事は、私の政治的な立場を表明したり、政治的な意見を公開したりするものではないということです。その点は、気を配って書いたつもりです。

もし、そのように読み取れるとしても、それは私の意図するところではありません。

 

 

もう一点。生徒たちに、政治的な意見を人前で述べるのは、できれば慎んだ方がよい、というようなことを述べたことがあります。

それは、「政治」を対象とした「議論」には、「十分な知識」と「議論のマナー」の装備が不可欠だからです。

自分と相手が、ともに、「政治の議論」をするうえで「十分な資格」を持っている場合には、建設的な意見の交換が可能です。

10代、20代に、もし、そういった友人関係を持つことができたとしたら、それは「一生の財産」となるでしょう。

また、生徒のみなさんには、すこしずつ経験を積み、公共の場で、堂々と自分の意見を表明できる人になってもらいたいとも思っています。

 

 

ここで試みようとしているのは、どちらかというと「学問的な取り組み」に近いものです。ですから、「政治的な意見」の表明とは次元の違う話なのだとご理解ください。

 

 

 

さて、きっかけは、「ポスト・トゥルース」という言葉でした。

 

最近、社会評論や国際情勢をあつかった記事の中で「ポスト・トゥルース」という言葉が取り上げられるようになってきました。

日本では、「ポスト真実」と表記されることもあります。

 

「ポスト・トゥルース」というのは、簡単にいえば、「真実」が「軽視」されることをいいます。

 

客観的な「根拠」に基づいた「情報」ではなく、思い込みや感情を優先させるような「政治的な判断」のことを指すものだとされています。

 

 

「でっち上げられた情報」によって人々が「動員」されている現代の社会・政治状況に対する危機感を表す言葉として注目されているわけです。

 

 

一部の識者は、「ポスト・トゥルース」という言葉を、イギリスのEU離脱やトランプ・アメリカ大統領誕生という、大きな国際政治の「うねり」が起こった2016年を象徴する言葉であると考えています。

 

つまり、「ポスト・トゥルース」は、なぜ、イギリス国民やアメリカ国民が「誤った判断」をしたのか、を端的に説明するワードであると考えられているわけです。

イギリスのEU離脱に同意する投票をした人々やトランプ大統領に投票した人々は、「真実」と向き合っていないためにそのような「誤った判断」をしたのだと考えられているわけです。

 

このワードに依拠して社会評論を試みようとする論者は、インターネットなどに蔓延する「虚偽のニュース」などに扇動されて「世論」が形成されるというような、現代社会の「危うい状況」を想定し、危惧しているわけです。

 

 

 

しかし、私は、「ポスト・トゥルース」という言葉をことさらに喧伝するジャーナリストや専門家たちは、いくつかのことを見落としていると思います。

 

 

まず、「真実」(truth)というものは、厳密には「主観的なもの」です。

「真実」という言葉が示すのは、誰もが同じように判断できるというような「内容物」ではありません。

ゆえに、「何が真実か」を言い争うことは、しばし不毛な「水掛け論」に終始します。

 

 

誰もが合理的に同様の判断ができる、科学的、客観的な記述については、これを「事実」(fact)といいます。

 

たとえば、「私の体重は80㎏である」と言えば、それは「事実」です。

 

しかし、もし、「私は太っている」と言えば、それは「主観的なもの」です。

個人、あるいはある特定のグループの認識として、それを「真実」であると主張することは可能ですが、「自分は、そう思はない」と考える者が現れるかもしれません。

 

そもそも「真実」という概念は、「法律」や「理論」のような、「相手」を納得させることができる共通の判定尺度や基準を用いなければ、正当な評価が与えられるものではないのです。

 

 

 

さらに、「真実」よりも個人の都合や感情が優先されるということは、何も現代に特有の事象ではないということが挙げられます。

太古の昔から、私たち人間は、不都合な「真実」よりも、個人や己の帰属集団の都合や感情を優先させてきました。

その意味では、何も現代が、取り立てて「特異な状況」にあるというわけではありません。

 

そもそも「政治的な判断」は、「真実」の探求などではなく、「価値」に基づく「決定」です。

 

 

 

そして、最も注意深く考察しなければならないのは、「ポスト・トゥルース」論に通底する、強固な「バイアス」です。

 

インターネット上に「虚偽のニュース」が蔓延することによって、「真実」が「軽視」されるという「理屈」は、ある意味で一面的な視角であるという指摘が可能です。

 

単純に、新聞やテレビ等の「メジャーなメディア」も嘘をつくではないか、という「反論」がありえるわけです。

 

その意味で私たちは、「ずいぶん昔」から、「ポスト・トゥルース」の時代を生きていることになります。

 

 

 

このように、「ポスト・トゥルース」論は、少しばかり性急というか、強引なロジックです。

 

 

しかし、こうした「問題提起」によって、現代社会を特徴づける、ある「対立の構図」を浮き彫りにすることができます。その考察は、とても有意義であると思います。

 

 

それは、すなわち、

 

・「メジャーなメディア」対「インターネット」

 

です。

 

 

さらに、これに、

 

・「グローバリズム」対「自国民優先主義」

 

が重なります。

 

 

 

(ivy 松村)