Silence makes you stronger.

昨日、今日と試験勉強のために教室を開放しました。

 

昨日は1つの教室に数セットの机といすを運び込んで、自習室は「満員」状態でした。

 

中1から高3まで、幅広い学年の生徒が一か所で、それぞれの勉強に取り組んだわけです。

 

 

冷房がしっかり効いていたので、「暑苦しい」ということはなかったはずですが、「息苦しい」という気分になった人は少なからずいたみたいです。

 

 

昨日も自習時間の終わりに言いましたが、「あの感じ」を、私は「理想的な自習」だと思っています。

 

 

勉強時間に、「自由に話さない」、「自由に立ち歩かない」というのは、当たり前のことですね。

 

 

自習を始めて、時間が経ってくると、誰かに話しかけたり、何か理由をつけて教室の外に出てうろうろしたりしたくなる人がいます。

 

時間をかけて、1つのことに意識を向けて時間を過ごすことができないのです。

 

そういう人は、「自由に話せない」「自由に立ち歩けない」という状況になると、イライラしてしまうわけです。

 

 

精神と認知能力が未熟なので、「正しい判断」ができません。

 

「勉強に集中できない」のは、「周りのせい」だと思うわけです。

 

 

周りが静かだから、勉強ができない?

 

 

正常な思考能力をもった人間であれば、誰もしゃべらず、誰も立ちあるかない静かな空間は、勉強に適していると考えるはずです。

 

 

「静かな空間で勉強ができない」のは、個性でも性格でも何でもなく、ただ、その人が未熟な人間であるというだけのことです。

 

(ついでにいうと、さらに幼稚な人間は、すぐに「不満」を口にします。自分の不快な気持ちを周りにまき散らして、「自分だけ」気分を晴らそうとするわけです。)

 

 

 

誰かが教室に入ってくる度に、じぃ~と、相手の顔を見る人がいます。

 

驚いたり、笑ったりする「材料」を探しているのです。

沈黙を破る「何か」を見つけようと、全神経を注ぎ込んでいるわけです。

 

勉強時間に、「声を発する理由」を物色しているわけです。

 

生徒のみなさんも、自習室に入ったときに、顔をじぃ~と見られることがあっても、完全に無視してくださいね。

 

 

その「残念な人」は、悪気なく、あなたの勉強の邪魔をしようとしています。

 

 

 

「静かな空間」で勉強すると疲れてしまう人は、「体質」を変えていかなければなりません。

 

意識を勉強だけに向けることが苦手なので、「意識を勉強だけに向けられる状況」になると疲れてしまうわけです。

 

1時間で終えられるはずの勉強に3時間かかります。

 

窓の外を眺めたり、文房具を分解したり、「余計な線」をノートに書きつけたり、シャーペンの芯を替えるのにたっぷりと時間をかけたり、ぼんやりと妄想にふけったりしながら、ダラダラと時間かけてやっているわけです。

 

 

まともに思考すれば、1時間でできるものを3時間かけて行うのは愚かなことだと理解できるはずです。

 

 

でも、1時間で終わらせよう、とは思わないわけですね。

 

なぜなら、「疲れるから」です。

 

とにかく、何よりも、勉強で疲れるのがイヤでイヤでしかたがないわけです。

 

 

 

「まっとうな人間」は、意識を勉強だけに向けて取り組めば、「普段」の3倍の勉強量をこなせるという「事実」に着目します。

 

だから、意識を勉強だけに向ける時間を、伸ばしていこうとします。

 

そして、徐々に、長い時間「勉強」しても、疲れない「体質」になっていくわけです。

 

 

 

「勉強の耐性」が重要だと、以前からずっといい続けています。

 

 

自習室でしゃべっていて注意された人、それから、「自習時間」に何度も何度も水を飲んだり、明らかに不自然なタイミングで頻繁にトイレに行ったり、すぐに必要なわけでもないのに問題集を探しにきたり、わざわざコピーをしにきたりして注意された人。

 

 

どうしても、話さなければならない「理由」はないのです。

どうしても、教室を出なければならない「理由」もないのです。

 

 

すべて、「休憩時間」や「帰る前」にできることなのです。

 

 

ただ、勉強し続けることを「我慢できていない」だけなのです。

まったくどうでもいいことを、「勉強を中断する理由」に仕立て上げているだけなのです。

 

 

 

どうか「理解」してください。

 

なだめたりすかしたり、手取り足取り、こんこんと、一から十まで世話を焼き、相手をしてやらなければ試験勉強しないような人間になってほしくないのです。

 

 

 

5月の後半、高校の中間試験があった時期、卒業した高校生たちが毎日毎日、入れ替わり立ち替わり自習に来ていました。

 

みんな、ふらっとやって来て、教室の片隅でカリカリカリカリと3、4時間ほど勉強して、お礼を言って帰っていきます。

 

その姿を見て、 掛け値なく、本当にうれしい気持ちになります。

 

 

 

(ivy 松村)

 

 

勉強の「持久力」

今日もほとんどの生徒が自習に来ました。

本当に、勉強が板についてきました。よく勉強しています。自習姿に見入ってしまうほどです。

勉強のやり方や取り組み方などについて、あまり注意をすることがなくなって、なんとも寂しいような、うれしいような気分です。

 

 

多くの生徒が10時半まで勉強して帰ります。

 

 

生徒には、塾での勉強時間を、お家の人と相談するようにいっています。

 

10時半までがんばって勉強したい、ということを伝えて、じゃあ、がんばってきなさい、ということであれば、勉強させてもらえるということに感謝して、しっかり勉強しなさい、といっています。

 

中学生があまり夜遅くに帰宅するのはよいことではありませんし、生活のリズムを考えて、何時までに帰ったほうがいいということであれば、できるだけの勉強時間をがんばって取り組みなさい、といっています。

 

 

 

勉強は、ただ単に長時間取り組めばそれでいいというわけではありませんが、高校に行くまでの間に、長時間勉強できるだけの「耐性」を身につけることはとても大切です。

 

高校で、大学受験の(特に国公立大学に入るための)「勉強量」に押しつぶされてしまうのは、自習の能力がない生徒です。それは、 「勉強量」に根負けしてしまうということもありますが、「耐性」のない生徒は、時間の中で、求められる「勉強量」をさばけなくなっていくからです。

 

その理由は非常に単純です。

同じく5時間を有した生徒であっても、5時間をまるまる勉強に使う生徒がいる一方で、5時間のうちの2時間だけしか「勉強状態」を維持できない生徒がいるわけです。

あるいは、5時間分の勉強を、ダラダラと10時間かけて終わらせたりしているわけです。

 

必要な「勉強量」を、必要な時間でこなせないのです。

5時間の間、独力で勉強し続ける能力が身についていないからです。

 

 

 

勉強に必要な能力として、よく挙げられるのが「集中力」です。

少し前から、この言葉に違和感を持つようになりました。

 

勉強をしていて、他のことに気を奪われたり、もの思いにふけったり、手わるさや落書きをはじめたり、誰かに話しかけたり、ちょっかいを出したりしてしまう生徒がいます。

 

一般的には、これは、その生徒に「集中力」がないからだ、と説明されます。

 

 

集中というのは、物質や意識が狭い範囲に集約されたり凝縮されたりするさまをいいます。

「勉強に集中する」というのは、他のことが気にならないくらい勉強に意識が収束し、没頭している状態を指すことになります。

 

しかし、それは、「集中」ではなく「夢中」です。

 

 

スポーツの世界でも「集中」という言葉はよく使われます。

勝負の世界で「集中」を欠くことは、負けにつながります。

 

スポーツなどでは、ある局面やある時間の範囲の中で、注意や観察、反応や対応を怠らないように行動することを「集中」という言葉で表します。「残りの5分間を集中して守り切る」というように。

 

つまり、「集中」という言葉は、こうした文脈上では、「弛緩した精神状態」の対義語として用いられているわけです。

そして、勉強における「集中」も、これと同じ意味内容で使われているわけです。

 

 

 

そう考えると、「5時間勉強に集中する」などという状態は、ちょっとあり得ないと思えてきます。

スポーツの試合でも「集中」を維持し続けることは困難なのに、勉強の間、不断に「集中」し続けることなどできるでしょうか。

 

また、勉強には、(もちろん「緊張」が必要な場面も多々ありますが)「リラックスした状態」で行うことが理想的な場合もあります。そのほうが、知識をしっかりと記憶に残すことができたり、思考力を存分に発揮できたりすることがあるのです。つまり、一般的に考えて、「集中」の対極の状態で勉強することが望ましいといえる状況も考えられるわけです。

 

さらにいえば、ボーっとしない、手わるさをしない、私語をしないといった程度の行動を抑制することを、「集中」という言葉で表すべきなのだろうか、と思うわけです。

 

 

思うに、継続して勉強に取り組む能力を表すのに適切なのは、「集中力」ではなく「持久力」(あるいは「持続力」)という言葉なのではないでしょうか。

 

 

 

中1、中2の生徒の、「2学期のテーマ」は、ずばり、「勉強の持久力の向上」です。

 

中3は、夏期講習を通して、高レベルの「持久力」を養いました。

 

中1、中2の生徒には、漢検、数検、英検といった各種の検定や定期テスト勉強を通して、「持久力」を磨いてもらっています。

 

 

私が、生徒のみなさんの「帰る時間」を非常に気にするのも、そのためです。

 

「疲れたからもう帰る」ということを、みなさんは当たり前に思っているかもしれませんが、それは自分を甘やかしていることとつながっています。

 

必要な「勉強量」をやり切ろうという意志で勉強しているのではなく、「自分の都合」で「勉強量」を減らしているのです。

 

マラソン選手が、「疲れたから」といって、コースの半分しか走っていないのに帰ってしまうようなものです。

 

 

 

マラソン選手は、持久力を身につけるためにどのようなトレーニングをするでしょう。

 

長い距離を長時間走れるようになるためには、なるべく長い距離をなるべく長時間走る練習をするしかありません。少しずつ、走る距離、走る時間を伸ばしていくのです。

 

苦しい練習を上乗せしていくことで、少しずつ、自分の能力を向上させていくのです。

 

1時間勉強しただけで疲れてしまう人は、1時間勉強しただけで帰ってはいけないのです。

そういう人は、1時間半勉強してから帰りましょう、という話をしているのです。

 

 

 

たまに、「勉強は効率が大事」などとドヤ顔でいう人がいますが、その言葉に意味はありません。それは、単に、勉強の「中身」が大事、といっているだけですよね。わざわざ口にするほどのことではありません。

 

しかし、もしも、「短時間」ということを重視して言っているのなら、そこには、うすっぺらい価値観がにじみ出ています。「点数」という目の前の結果だけを「目的」としているから、「効率」を一番に考えてしまうのですね。

 

100キロのスピードで、100メートルしか走らない車を自慢しているわけです。それで「楽ちんだ」と言ってうかれているわけです。

 

 

自分自身が、この先ずっと「成長」してくのだという「ヴィジョン」を持てる人は、何百キロ先の目的地であっても、走り続けて、到達しようと考えるでしょう。

 

その「走り」のなかで少しずつ自分の能力を高めていけば、きっとたどりつけることを理解しているのです。

 

そのために、「今日という日」に、走る訓練を自らに課すのです。

 

 

 

「もう疲れた」というところから、さらにひと踏ん張りしてみよう。

 

限界と思う「先」に行こうとするがんばりが、きみの「持久力」を育てていくのです。

 

 

 (ivy 松村)