‟Mission:Possible”

生徒が「どれくらい本気で勉強に取り組んでいるか」を測る「物差し」がいくつかあって、そのひとつは、目標設定の際の反応です。

 

 

期末試験が近づいてきて、生徒と面談をしながら、目標点を決めています。

 

中3の生徒たちには、「志望校を受験するのに必要な内申がどのくらいなのか」を伝えています。

 

 

中2の3学期の内申を「目安」として、全体で「いくつ上げるのか」を導きます。

それから、具体的に「どの教科を上げるのか」を決めます。

 

もちろん、中間試験があった中学の生徒は、その結果を勘案します。

 

 

たとえば、都立高校を第一志望にしている生徒が、その志望校の「都立の換算内申の基準」にあと「5」足りない場合。

 

5科を「+1」、実技4科を「+2」にすれば、「基準」に届きます。

 

そこから、社会を「3→4」、美術を「4→5」、音楽を「3→4」にする、というように、具体的に「ターゲット」を定めます。

 

そうすると、社会を「4」にするために確保しなければならない点数が浮かび上がってきます。

 

それを試験勉強の「配分」に落とし込んで学習計画を立てるわけです。

 

 

 

1学期の中間試験の社会の点数が65点だったとします。

その点数が、成績評価の「どの位置づけ」になるのかは、全体の平均点や、担当教師の評価基準によって変わります。

 

しかし、一般的には「65点」という点数は、「4」に相応する点数であるとはいえません。

 

したがって、期末試験では挽回しなければなりません。

「90点」を「ノルマ」にしようという話になるわけです。

 

さらに、非常にありふれた「策」のひとつですが、「90点」を取るために、「95点」を目標にしようという話になるわけです。

「90点」を目標にしてしまうと、往々にして「90点を取るための勉強量」となってしまいます。ほんの少しのミスが出でたり、対策の不備があったりすれば、目標点に届かなくなります。

そのため、確実に「90点」を得るべく、「ハードル」を一段上げようという「心理的な戦略」がとられるわけです。

 

 

 

このように、試験の目標点は「逆算」によって算出されるべきものなのです。

 

 

ところが、多くの生徒は、「自分の学力」を基準にして目標点を設定します。

 

「自分は社会が苦手だから、80点取れれば、頑張ったほうだ」というように。

 

 

 

もうすこし正確にいえば、「自分の学力」というよりも、「どれだけ勉強してもいいか」という「譲歩の気持ち」が目標点を決める大きな要因となっています。

 

つまり、「80点を取るぐらいまでなら、頑張ってもいい」というメンタリティが、「80点」という目標点をはじき出すわけです。

 

必死で努力すれば「90点」を取れると理解していても、そのための努力が嫌なので、妥協して「80点」を目標とするわけです。

 

 

 

「そんなの、無理。」

 

 

いや、まったくその通りです。無理なんですよ。

 

目指さないのだから、無理に決まっています。

 

 

ただ、それなりに「努力したような雰囲気」にひたって、自分をあざむくための「言い訳」が成り立つ程度に勉強して、最終的に「行ける高校」に行けばいいという「本心」を隠している人にとっては、「本気の話」は迷惑なものなのでしょう。

 

「無理やり押し付けられた目標点」に不満が募ります。

 

 

まだ、勉強を、「させられるもの」だと思っているわけです。

 

 

目標点は、「自分を追いつめるもの」だと思っているわけです。

 

 

ちょっと勘違いしています。

 

 

 

これは、行きたいという高校に、どうすれば行けるのか、という話にすぎません。

 

 

 

さて、一方で、あまりにも自然なことですが、「本気の生徒」は、自分に必要な点数を目指します。

 

根拠を示して、「95点」を目標点としなければならない、と説明すれば、納得し、チャレンジしようと思うわけです。

 

 

 

無理。

 

 

目標点を取ることのみに専念しようとしている人にとっては、無意味なことばです。

 

 

(ivy 松村)

 

 

「勉強嫌い」に贈る言葉

本日は数検の検定日でした。

 

受検したみなさん、おつかれさまでした。

手応えのあった人も多かったみたいですね。

 

試験時間にもかなり余裕があったみたいです。

 

一次検定が終わった後に、「試験の残り時間」の過ごし方について注意しました。

以後、気を付けるようにしてください。

 

 

検定は14時開始でしたが、何人かの生徒は11頃には校舎に来て、最後の検定対策や中間テストのための勉強をしていました。

検定後も、勉強をして帰る生徒が多かったですね。

 

中2は検定の後、演習の授業を行いました。

 

中3は、お昼の11時から夜の10時まで勉強して帰りました。

数検のあと、中間テスト対策、英検対策、演習授業、その後過去問演習を行いました。

夏期講習で耐性がついているので、だらけることなく、しっかり取り組めました。

 

 

数検を受けない生徒たちも、数検が行われている教室のとなりで、熱心に中間テストの勉強に取り組んでいました。

 

少しずつ、生徒たちの意識が変わってきているのが実感できます。

 

 

自分の意志で勉強する生徒は「強く」なれます。

「わからない」ということが、いずれストレスではなくなります。

「わからない」ということにわくわくしたり、熱中したりする感覚を体験してほしいと、切に感じます。

 

 

 

一方で、世の中には、なかなか「勉強したい」という気持ちが芽生えない生徒もいます。

 

 

実は、今まで、ぼんやりと「違和感」を持っていたことがあったのですが、その正体が今日、わかったように思います。

 

「がんばろう」、「しっかりやろう」、「もっと上を目指そう」というような声かけや激励をしてもいまいち反応がない・・・。

 

今日おぼろげながらに理解したのは、「真剣に勉強するのが嫌だ」という感覚です。

教える側が、本気になればなるほど、気持ちが沈むのでしょう。

 

「ああ、またやらされることが増えるのか」と。

 

 

「できる限り勉強量を少なくしたい。」(短時間の勉強で成績を上げてほしい。)

「できる限り楽しい気分でやりたい。」(勉強の説明よりも「雑談」や「おしゃべり」をしていたい。)

 

 

「本音」を隠しているので、口にする言葉と、行動がかみ合いません。

 

「やります」「がんばります」と口では言うのだけれども、実際にはやりたくないし、がんばりたくないと思っているので、いざやろうとしても、体が反応してくれません。表情もくもります。

 

 

時間が経つと、いつの間にか、やらない「言い訳」や「ごまかし」を繰り出すことに神経を使っています。

勉強をする姿勢は「みせかけ」だけになってしまい、実際には勉強量は全く増えていません。

 

毎週の小テストの結果が、 すべてを物語っています。

 

 

 

おそらく、「将来のメリット」、「親のプレッシャー」など、自発的ではない理由で勉強をしているのだと思います。

そのために、勉強とは、つまり「苦役」である、と感じているのでしょう。

 

また、もし、虚栄心や優越感あるいは承認欲求の充足のために、つまり、「手段」として勉強しているならば、成績が落ちはじめると、モチベーションが低下し、同じような「症状」があらわれるのだろうと思います。

 

 

勉強を「しよう」と思っているのではなく、「やらなければ」と思っているはずです。

さらに、精神的な負荷が限度を超えると、「やらされている」という感覚にとらわれてしまうのでしょう。

 

 

これはきみだけの責任ではありません。

アホな「大人」も世の中にはたくさんいて、「勉強なんて嫌なのは当たり前だけど、頑張りなさい」などと言うわけです。

「嫌なこと」をやれ、といっているのですから、やらされる方も「嫌なことをやらなければいけないのか」と思って、うんざりするのも当然のことでしょう。

 

 

 

いつも「嫌だ、嫌だ」と思いながら勉強しているので、勉強したことが頭に残りません。

 

人間は、嫌なことを忘れようとする生き物です。

自分の意志とは無関係に、脳が、嫌で嫌でしょうがない勉強の記憶を追い出してしまうのです。

 

「全然覚えられない・・・。」

 

覚えられないのではなく、自分自身が覚えることを拒否しているのです。

 

 

 

このまま「だましだまし」で過ごしていっても、成績は上がるはずもありません。

 

では、どうすれば・・・。

 

 

「勉強をやめる」という選択肢をのぞけば、基本的に、対処法は2つです。

 

①勉強を好きになる。

②嫌でもやる。

 

 

 

「勉強なんかできなくてもいい」というような甘言をささやく、無責任で短絡的な人間が世の中にはいます。絶対にその軽薄な口車に乗ってはいけません。

 

正確に真実を述べます。

「できなくてもいい」のではなく、「できなくても(なんとか)生きていける」というだけのことです。普遍的な真理は、「勉強はできたほうがいい」ということです。

 

勉強が苦手でも、その苦手と格闘する人生のほうが、「上等」に決まっています。

 

「勉強の結果」=「学歴」でしか人を判断しない人たちに、努力を踏みにじられたとしても、それは「勉強の価値」を否定したり貶めたりする理由にはなりません。

 

 

しかし、現実として、この世の中の多くの人は、勉強を「人間を評価する基準」であると考えています。

その是非はともかく、その考えに強くとらわれてしまうと、勉強が苦手な人にとって勉強は、脅迫的な「圧力」としか感じられなくなってしまいます。

 

 

「勉強ができないことは恥ずかしい」とか「勉強ができたら自慢になる」といった低俗な考えを捨てなければ、きっと、勉強を本当に好きになることはできません。

 

「自分の世界が広がる」ということに対する素朴な感動こそが、勉強の醍醐味なのですから。

 

 

そうはいっても、頭で理解することと、心からそう感じることは別です。

そんな「仙人」のような境地になれる人間なんて、世界中でほんの一握りの存在でしょう。

 

 

 

念のための補足ですが、「おもしろおかしい授業」によって、「勉強が楽しい!」となったとしても、勉強を好きなったということではありません。それは多くの場合、「勉強時間を薄めて、楽しく過ごすようになった」だけです。

「勉強嫌いの生徒が楽しんでいるだけ」では、学力はあがりません。

 

「勉強が楽しい!」という評価や宣伝には、勉強の質を劣化させながら、その効果を誇るという大胆な「欺瞞」が見え隠れします。

 

 

 

ふと気づいたのは、今日の中3の生徒たちでした。

数検の手応えも十分でしたし、過去問演習の結果も上々でした。

自然と笑みもこぼれます。

 

11時間、机に座り続け、ペンを動かし続け、一日の勉強を終えたその表情に、悲壮なものはありませんでした。

 

(「11時間」と聞いて、反射的に「理解不能だ」と思いましたか。もしそうなら、きみは、やはり「勉強嫌い」という「病」にかかっています。)

 

 

 

彼らは、勉強が好きではないと思いますよ。でも、11時間勉強することは、きみが想像するほど苦痛ではないのです。

 

 

 

これは、ある種の「逆説」だと思うのですが、少しでも勉強を好きになるためには、「嫌でもやる」ことが必要なのかもしれません。徹底的に。

 

 

中途半端に勉強しているから、嫌な気持ちが増幅されるのです。

「早く終われ、早く終われ」と呪文のように心の中で繰り返しながら勉強しているのですから、楽しいはずもありません。

「今、つまらない時間を過ごしている」という暗示を、自分自身にかけつづけているのです。

 

 

「嫌だ」という感覚が意味をなさないくらいにどっぷりと勉強する、もしかすると、それが勉強への「抵抗」を失くすのに、一番効果的なのかもしれません。

 

 

人生には、覚悟を決めて取り組むことで、切り開ける「道」があります。

もしかしたら、この連休が、その「第一歩」となるかも知れませんよ。

 

 

 

※連休中の開校日です。

 

・9月21日(敬老の日)                14:00~22:00

・9月22日(国民の休日)             14:00~22:00

・9月23日(秋分の日)                14:00~22:00

 

 

(ivy 松村)