春期講習4日目

本日で、新中1の春期講習が終わりました。

 

おつかれさまでした。

 

次回は、4月6日(水)からの通常授業です。

翌日の4月7日(木)が入学式ですね。

 

いよいよ、本格的に「中学生活」がスタートします。

いっしょにがんばっていきましょう。

 

 

さて、春期講習では、新中1の生徒たちは「文法」と格闘していました。

文を「文節」と「単語」に分ける練習をみっちり行いましたが、かなり苦戦しましたね。

 

 

文を「単語」に分けるときには、一度文節に句切り、そこから、「付属語」を囲っていきます。

 

「た」「て」「う(よう)」「ます」「ば」「ない」などを「クリン」とするのでしたね。

 

 

「活用語」から「付属語」を分離するときに、活用している部分を取り除いてしまわないように注意しましょう。

 

 

静かだろ「う」

静かだっ「た」

静かで / ある

静かに / なる

静かな / とき

静かなら「ば」

 

 

「形容動詞」と「名詞」では、分離のしかたが違うので、注意しましょう。

 

 

コップ「だろ」「う」

コップ「だっ」「た」

コップ「で」 / ある

コップ「に」 / なる

コップ「なら」「ば」

 

 

 

かなりたくさん間違ってしまいましたが、それほど気にしなくても大丈夫です。

言葉を「分解できる」ということを確認することが、最初のステップです。

 

 

これから、主語・述語・修飾語・接続語・・・などの「文の成分」の勉強や、名詞・動詞・形容詞・・・などの「単語の分類」の勉強をしていきます。

 

そのなかで、文節や単語の「性質」や「特徴」がわかってくれば、自然と句切ったり分離したりできるようになります。

 

 

 

4月からも、奥深い「言葉の世界」を探っていきましょう。

 

 

(ivy 松村)

「ぬ」の話②

英語の「not」の働きを、英文法の用語で「否定」といいます。

同じような働きを、日本語の文法では「打消」といいます。

口語(現代文)では、一般的には「ない」を用いて「打消」を表します。

 

文語(古文)では、助動詞の「ず」を用いて「打消」を表します。

 

例:

犬、走ら。  (犬が走らない。)

 

 

「ず」は、現代でもたまにみられる言い回しですね。「ず」を使うと古風な印象を受けます。

 

ことわざや故事成語には、「ず」を使ったものが多くみられます。

それは、古くからの言い回しが受け継がれているためです。

また、フレーズとしてのリズムを損なわないように古い表現が固定されていることもあります。

 

 

ところで、「ず」の連体形は「ぬ」です。ですから、名詞に接続するときには、「ず」は「ぬ」に「変化」します。

 

例:

走ら犬。  (走らない犬。)

 

 

文語(古文)の文法に従えば、「打消」は、終止形に用いるときは「ず」、連体形に用いるときには「ぬ」と表さなければなりません。

 

しかし、時代が下るにつれて、話し言葉の中で、この「ぬ」の使われ方の「拡張」が起こりました。

つまり、終止形で「ぬ」を用いるような使われ方が受け入れられるようになってきたのです。

 

例:

→犬、走ら。  (犬が走らない。)

 

 

本来の文語(古文)の文法にもとづけば、このような言葉づかいは間違いだとされるものですが、次第に許容されるようになっていきました。

 

 

「ぬ」を「打消」の助動詞の終止形として用いるような表現が、話し言葉の中で一般的に使われるになったのは江戸時代からではないかと考えられています。

 

 

先日、中3の演習で取り上げた井原西鶴の『世間胸算用』にも以下のような記述がみられました。

 

 

「こなたのやうなる、大晦日に碁をうつてゐるところではうら

(あなたのような、大晦日に碁を打っているようなところでは(タコを)売らない)

 

 

大晦日に、タコの足を2本切って売り歩いていた魚屋が、そのいんちきを見破られて「逆切れ」する場面です。「売ら」というセリフが確認できます。

 

 

もともとは、「ぬ」と「ず」は同一の単語だとみなすべきものでした。しかし、現在では「ぬ」は「ず」とは分立した独自の助動詞であるとする考え方が一般的になっています。

 

現在の国語文法(口語文法)では、両者とも「打消」の助動詞であるとみなします。

しかし、文語(古文)では、「完了」の働きをする「ぬ」があるので要注意です。

 

例:

①犬、走ら。  (犬が走らない)「打消」

②犬、走り。  (犬が走った)「完了」

 

 

 

「打消」の①の「ぬ」は未然形が接続されるので、「走る」が「走ら」になっています。

「完了」の②の「ぬ」は連用形が接続されるので、「走る」が「走り」となっています。

 

 

 

さて、ことわざや慣用句、有名な言い回しの中には、「ぬ」が「打消」の助動詞の終止形として使われているものがいくつかあります。

その例をみてみましょう。

 

 

歯に衣着せ

ない袖は振れ

背に腹は代えられ

瓜のつるになすびはなら

泣く子と地頭には勝たれ

火のないところに煙は立た

柳の下にいつもどじょうはおら

あちらを立てればこちらが立た

為せば成る、為さねば成ら、何事も

 

 

「ぬ」の本来の形である連体形で使われていることわざの例も見てみましょう。

 

 

言わが花

知らが仏

転ば先の杖

捕ら狸の皮算用

鬼の居間に洗濯

まか種は生え

さわら神に祟りなし

桜伐る馬鹿、梅伐ら馬鹿

門前の小僧習わ経を読む

 

 

 

 

 

さらに、「ず」が使われていることわざや故事成語も紹介しましょう。

 

 

笛吹けど踊ら

親の心子知ら

歳月人を待た

覆水盆に返ら

後悔先に立た

悪銭身につか

頭隠して尻隠さ

立つ鳥跡を濁さ

木を見て森を見

仏作って魂入れ

天は二物を与え

弘法は筆を選ば

百聞は一見にしか

雀百まで踊り忘れ

転がる石に苔つか

頭かくして尻かくさ

虻蜂(あぶはち)とら

君子危うきに近よら

鹿を追う者は山を見

情けは人のためなら

論語読みの論語知ら

井の中の蛙大海を知ら

ローマは一日にして成ら

二兎を追う者は一兎をも得

虎穴に入らんば虎子を得

 

 

 

ちょっと、「打消」の助動詞「ず」の活用形を見てみましょう。

 

未然形 連用形 終止形 連体形 已然形 命令形

ざら

ざり

 

ざる

ざれ

 

ざれ

 

 

「ず」の終止形以外の活用形が用いられていることわざや故事成語もあります。

 

 

武士は食わど高楊枝

雉(きじ)も鳴かば打たれまい

過ぎたるはなお及ばざるがごとし

 

 

なお、「疑心暗鬼を生ず」のような表現には注意してください。

「生ず」は「生じる」という意味の動詞ですから、ここには「打消」の助動詞は使われていません。

 

(ivy 松村)

 

1学期、期末テストのラプソディ②

日野のある中学校の中1国語で出た問題は、ちょっと議論になるかもしれません。

 

文法問題で、主語を特定する問題が何問か出されました。

主語が省略されている場合には×を書き入れなさい、という指示がなされています。

 

その中のひとつに

 

「何だこの車!」

 

という文がありました。

 

後で生徒にきいたのですが、テレビCMのフレーズなのだそうです。

(私はテレビを全く見ないので、流行に疎いのです。)

作問された先生のユーモアがあらわれていると思います。

 

生徒は「×」を書き入れたのですが、正解は「車」だということです。

 

先生の説明の通り、この文は倒置文であると解釈できます。

 

そのうえで、「車」という名詞が主語の役割を果たすには、助詞が必要です。

もし、「車は」というように「は」が付けられているのであれば、これを主語であるとみなすことができます。

しかし、この文では、「車」が主語であることを示すべき助詞が省略されてしまっているので、明確に「車」が主語であるとは言い切れません。

 

必ず主語を書き入れなければならないとしたら「車」を指定するしかありませんが、「×」という選択肢がある以上、私もやはり「×」を選ぶと思います。

 

たとえば、この文の場合、「何だこの車の色は!」という原形があって、そのうちの「の色は」が省略されているととらえることもできます。

そうすると、「車」は主語であるとはいえなくなります。

 

 

日本語は、助詞という「機能語」の働きによって、名詞の「格」を決定する「膠着語」というタイプの言語です。

「格」とは、簡単にいえば、文の中での名詞の役割のことであり、主語も「格」の一種です。

 

日本語が助詞の存在によって主語を表示する言語であるということは、逆にいえば、助詞がなければ主語かどうかは判断できないということなのです。

 

もちろん、口語では、助詞は頻繁に省略され、その際には私たちは文脈で「格」を判断します。しかし、これは国語の文法問題なのですから、「厳密な文」が用いられなければならなかったのではないかと思います。

 

(ちょっと混乱させてしまうかもしれませんが、補足しておきます。「は」という助詞は、主語を示すことが多いので「格助詞」だと勘違いしやすいのですが、実は「副助詞」です。このあたりの説明は、知れば知るほど複雑になります。)

 

 

ちなみに、現代英語は「孤立語」というタイプの言語で、「語順」で格を示します。

そのため、語順を操作することができず、倒置を自由に行えません。

だから、英語の文法問題で「整序(並べ替え)問題」というものが成立するのですね。

 

(言語学などを学んだ人で、英語を「屈折語」だと教わった人もいると思いますが、その特性を考慮すると、現代英語は「孤立語」であるとみなすほかはありません。)

 

 

 

文法問題以外では、この中学の試験問題には良問が多くありました。

登場人物の心情を問う記述問題は核心を突くもので、しかも採点基準がしっかりとしていて信頼できるものでした。全体の作りは非常にていねいで、しっかりと生徒の学力を評価できるものになっていると思いました。

 

 

 

その他、日野の中学校の中1英語の問題で、「象形文字(ヒエログリフ)」「トンパ文字」「英漢字」を答えさせる問題が出ていました。教科書に出ていた内容なので、授業で説明しているのでしょう。多分、「サービス問題」なのだと思います。

 

別の中学では、「英語」のテストで、数ある外国語の中で「英語」を学ぶ意義を述べる記述問題が出されました。

 

 

八王子の中学校の中3英語では、受動態の文を含む3文で、日本文化を紹介させる英作文が出題されました。

当然、都立高校入試を想定されてのことでしょう。

 

一方で、そこまで難度が高くはありませんが、私立高校入試によく出てくる「空欄補充」や「整序」「同意文」なども出題されました。

 

作問をされた先生は、 かなり構成に気を使って作られていると思います。

 

 

 

あらためて、中学の先生方は、手間暇かけて試験問題を作っていらっしゃるのだなと感じました。

 

しかしまた、今回に限りませんが、定期テストの内容が、授業での説明と対応していないものもあって、一生懸命勉強した生徒がちょっとかわいそうに思うこともあります。

また、試験範囲の指示があいまいで、テスト勉強に支障が出た生徒もいます。

あるクラスだけ進度に遅れが出てしまい、解説もないままテストを受けなけばならないこともあります。

 

 

なかには、塾でテスト対策しても点数を取れない問題を作る、と宣言する先生もいらっしゃるようです。実際の問題を見ると、「それほど」ではなくてホッとしましたが、ちょっと考え方、見方を変えていただけると、うれしく思います。

塾で勉強を教わることは「ずる」ではありません。

大事なのは、本質的な学力を身につけた生徒に、正当な評価が与えられることです。

それこそが、公正な教育というものではないかと思います。

 

私は、塾は、学校の「敵」として存在するのではなく、学校の勉強を「補完」する役割を担っているのだと思っています。

一人の生徒が、「正統」な学力を身につけて成長していけるのであれば、塾で学ぼうと、親に教わろうと、通信教育で勉強しようと問題ないと思っています。

 

 

とはいうものの、教育に対する考え方や実践方法は、人によって千差万別ですから、なかなか大変です。だからこそ、定期テストの度に、さまざまな問題が生み出されるのでしょう。

 

 

 

「定期テスト対策」と一口に言いますが、中学の先生の指導方針によっては、教材会社の「ワーク」をやるだけでは対応できない場合もけっこうあります。塾の方でも、いろいろ試行錯誤が必要だと思っています。今後も、腰を据えて指導していきたいと思います。

 

 

生徒たちがどんな問題に挑み、何に直面し、何に困惑しているのか、やはり実際のテストを見なければわからないものですよね。

生徒が「どんな問題を正解し、どんな問題を間違えたのか」を知らないまま、ただ得点だけを聞き取って、一喜一憂することのないようにしたいですね。

 

 

(ivy 松村)

 

中1国語「期末テスト」解説

中1の各学校の期末テストで出題範囲となっている国語の単元の簡単な解説を載せておきます。

必要な部分を参照してください。

 

中一は、「文法」が出題される中学が多いようです。

 

 

★漢字の成り立ち(六書)

 

①象形文字……物の形をかたどってできた文字。4%

 

山・川・目・手・口・馬・鳥・魚・・・

 

 

②指事文字……形のない「ものごと」を、点や線などを使って表した文字。1.5%

 

一・二・三・上・中・下・末・本(←要注意!)・・・

 

 

③会意文字……二つ以上の漢字の組み合わせで、新しい意味を表した文字。13%

 

日+月=明 (日も月も明るく照らすことを表す)

人+言=信 (人の言葉が真実であることを表す)

 

森・鳴・美・休・岩・・・

 

 

 

④形声文字……意味の部分「部首」と音の部分「音読み」からなる文字。約81.5%

 

清=氵(水)+青(セイ)

晴=日(太陽)+青(セイ)

精=米(コメ)+青(セイ)

 

郡・群・飯・版・販・板・飯・銅・胴・花・問・・・

 

 

※転注文字……漢字本来の意味が広がって、別の意味を持ったもの

 

楽(ガク)→音楽を奏でる→音楽は入の心を楽しませる

楽(ラク・たのしい)→「楽」の文字を「楽しい」という意味で用いる

 

 

※仮借文字……漢字本来の意味とは無関係に、音だけを借りたもの

 

「亜米利加」「印度」「巴里」など「当て字」も仮借文字

 

 

※国字……日本で作られた「漢字」

 

畑、働(はたらく、ドウ)、峠、込、枠、搾(しぼる、サク)、塀(ヘイ)

辻、鞄 笹 躾 凪 樫 榊・・・

 

 

 

 

 

★言葉の単位/文の組み立て

 

※文節

文節に区切るときは、「ネ」「ヨ」「サ」などを入れて区切れるところを探しましょう。

 

例文:「春休みに/私は/家族と/富士山に/登った。」

 

・「この/本」「その/机」などは句切ります。

・「走って/いる」「しまって/ある」なども句切ります。

・「走らない」は句切りません。「走って/ない」は句切ります。

 

 

※単語

一度文節に区切った後、「付属語」を分離させることで単語に区切ることができます。

「付属語」とは、「が」「は」「の」「を」「た(だ)」「ます」「たい」「う(よう)」など、他の単語にくっついて働きをもつ単語です。

 

 

例文:「春休み・に/私・は/家族・と/富士山・に/登っ・た。」

 

・「た(だ)」を分離するのを忘れないように注意してください。

・「特に」、「実に」といった単語(副詞)は分離できません。

・「急に(急だ)」「きれいに(きれいだ)」といった単語(形容動詞)も分離できません。

・「読みにくい」「飛び立つ」といた単語(複合語)も分離できません。

 

 

※文の成分

 

①主語

・「が」「は」の他に、「こそ」「だけ」「も」などの付属語がつくときもあります。

・省略されることもあります。

 

②述語

・基本的に「文末」にあります。(倒置が起きてない場合)

・まず、述語を特定し、それから主語を探すこと。

 

③修飾語

・「いつ・どこで・何で・何に・何を・どんな・なんの・どんなに・どのくらい」などといったことをくわしく説明する文節です。

・倒置がない場合、修飾語は、それより後の文節を修飾します。(直後の文節を修飾するとは限らないので、注意。)

 

③接続語

・「しかし」「だから」「つまり」など。

・「条件」「理由」を示す文節。

 

④独立語

・「呼びかけ」「感動」「応答」「提示」などの文節。

・独立語はふつう文の最初にあって、あとに必ず読点があります。

 

 

 

★連文節

 

※連文節

 

2つ以上の文節がまとまって、文節と同じ働きをするものを「連文節」といいます。

 

主語→「主部」

述語→「述部」

修飾語→「修飾部」

接続語→「接続部」

独立語→「独立部」

 

例文:「さわやかな/風が」吹く。(主部+述語)

 

解説:

この文の主語は「風が」ですが、「さわやかな」と「風が」の文節は、つながりを持つ「まとまり」であるとらえることができます。(修飾-被修飾の関係)

つまり、「さわやかな/風が」は、全体で主語の働きを持つものであるといえますね。

文節の役割を「単独」で示すときには、「~語」といいますが、複数の文節の「まとまり」の役割を考えるときには、「~部」というのです。

ですから、「さわやかな/風が」は「主部」であるということができます。

 

 

※並立の関係

 

2つ以上の文節が、意味のうえで、同じ資格で対等に並んでいる場合、それを「並立の関係」といいます。

 

例文:川の流れは「深く/緩やかだ」

 

解説:

「深く」と「緩やかだ」が「並立の関係」にあります。

この2つの文節は、対等な資格で並んでいるので、位置を入れかえても意味が変化しません。

→川の流れは「緩やかで」「深い」。

「並立の関係」にある文節同士は、常に連文節として扱われます。

「深く/緩やかだ」は、「対等な関係」にある「述部」であると説明できます。

 

 

※補助の関係

 

おもな意味を表す文節に対して、補助的な意味をそえる働きをする文節を「補助語」といいます。このまとまりを「補助の関係」といいます。

 

例文:渡り鳥が「飛んで/いく」。

 

解説:

「飛んで」と「いく」はそれぞれ文節に区切ることができます。

しかし、「いく」を「述語」と考えることはできません。

意味の上で中心となっているのは、「いく」ではなく、「飛んで」です。

そのため、「飛んで/いく」は連文節であり、「述部」であると説明されます。

この場合、「いく」は「述語」ではなく、「飛んで」を補助する、「補助語」であるとみなされます。(補助語は通常ひらがなで書かれます。)

 

 

おもな補助語:

 

遊んで「いる」

しまって「おく」

置いて「ある」

買って「あげる」

考えて「みる」

教えて「やる」

降って「くる」

寒く「ない」

 

 

文法の解説が必要な人は、早目に声をかけてください。

 

(ivy 松村)

 

中2国語「期末テスト」解説

中2の各学校の期末テストで出題範囲となっている国語の単元の簡単な解説を載せておきます。

必要な部分を参照してください。

 

中2は、語句や熟語の知識に関する問題が出題される中学が多いようです。

 

 

★「類義語・対義語・多義語」

 

対義語のうち、特に狙われやすいものをあげておきます。

類義語の一覧プリントが欲しい人は言ってください。

 

赤字⇔黒字     長所⇔短所     美点⇔欠点     起点⇔終点

当番⇔非番     一部⇔全部     直接⇔間接     有害⇔無害

進化⇔退化     独唱⇔合唱     絶対⇔相対     整然⇔雑然

公用⇔私用     主観⇔客観     楽観⇔悲観     能動⇔受動

当番⇔非番     道理⇔無理     自力⇔他力     横断⇔縦断

幹線⇔支線     時間⇔空間     本流⇔支流     私製⇔官製

平凡⇔非凡     収入⇔支出     単純⇔複雑     自然⇔人工

全体⇔部分     単純⇔複雑     容易⇔困難       目的⇔手段

原因⇔結果     形式⇔内容     理想⇔現実     感情⇔理性

生産⇔消費     保守⇔革新     需要⇔供給     権利⇔義務

創造⇔模倣     抽象⇔具体     過失⇔故意     精神⇔肉体(物質)

 

 

 

★「熟語の構成」

 

※二字熟語の構成

 

①同じ漢字を重ねる

家々 山々 人々 村々 国々

 

 

②「不・無・非・未・(否)」(打消し)が上につく  接頭語

不安 不快 無用 無知 非番 悲運 未着 未明

 

 

③「的・性・然・化」が下につく  接尾語

私的 公的 理性 知性 整然 騒然 退化 帰化

 

 

④長い熟語を省略

国連(国際連合) 入試(入学試験)

 

 

⑤意味が似ている

絵画 歓喜 集合 平等 豊富 道路 上昇 行進 温暖 衣服

 

 

⑥反対の意味や対の意味

有無 開閉 悲喜 公私 正誤 増減 濃淡 老若 高低 収支

 

 

⑦上の字が下の字を修飾

 

激変(激しく変わる)

再開(再び開く)

青葉(青い葉)

海水(海の水)

 

⑧主語・述語の関係になっている

 

都立(都が立てる)

頭痛(頭が痛い)

日没(日が没する)

国営(国が営む)

 

 

⑧上の字が動作、下の字が目的・対象をあらわす(下から上に読む)

 

着席(席に着く)

登山(山に登る)

読書(書物を読む)

乗船(船に乗る)

 

(漢検2級以上になると、もう少し多くの熟語の構成のパターンを覚えなくてはなりません。)

 

 

※三字の熟語の構成

 

①三字の漢字が対等な組み合わせ(■+■+■)

松竹梅 市町村 天地人 真善美 知情意・・・

 

 

②一字の漢字+二字の熟語の組み合わせ(□+■■)(不無非未+■■)

新製品 悪循環 好景気 再出発 新発売 全世界 大自然・・・

不明朗 不自由 非公開 非常識 無関心 無抵抗 無資格 未成年 未完成・・・

 

 

③二字の熟語+一字の組み合わせ(■■+□)(■■+的性然化)

指導者 生物学 共通語 向上心 想像力 排気口 百人力・・・

理想的 個性的 積極性 具体性 可能性 学者然 民主化 自由化・・・

 

 

 

★単語の分類(自立語)

 

※動詞

「動作・行為・作用・存在」を表します。

言い切りは「ウ段」。(活用語)

 

走る、飛ぶ、打つ、流れる、光る、ある・・・

 

 

※形容詞

「性質・状態・様子・心情」を表します。

言い切りは「い」。(活用語)

 

美しい、速い、暑い、白い、悲しい、楽しい・・・

 

 

※形容動詞

「性質・状態・様子・心情」を表します。

言い切りは「だ・です」。(活用語)

 

きれいだ、穏やかだ、華やかだ、変だ、ほがらかだ、静かだ・・・

 

 

※名詞

物や、ものごとの名称を表します。

「が・は・も」などをつけて主語になる。

活用しません。

 

コピー機、学校、考え、時間、東京、夏目漱石、ひとつ、千人、こと、もの・・・

 

 

※副詞

「状態・程度」を表します。

おもに用言を修飾します。

 

ゆっくり、かなり、とても、しっかり・・・

どんどん、テクテク、ザーザー・・・

決して、もし、たとえ、まるで・・・

 

 

 

※連体詞

名詞を修飾します。

活用しません。

 

この、その、あの、どの・・・

大きな、小さな、おかしな・・・

いかなる、我が、ある・・・

 

 

※接続詞

文と文、文節と文節をつなぎ、その関係を示します。

 

しかし、つまり、だから、そして、なぜなら、・・・

 

 

※感動詞

「感動・呼びかけ・応答・あいさつ」などを表します。

 

はい、いえ、ねえ、ああ、おはよう・・・

 

 

文法は、学校の先生によって内容に差があります。

用言などは、春休みまでにかなり詳しく説明しましたが、そのときまだ入塾していなかった人や、文法の解説が必要な人は言ってください。

 

 (ivy 松村)

「ナウい」言葉の使用について

前々回のブログ『「くだけた」言葉は「かっけー」のか?』の内容に訂正があります。

 

形容詞の語幹の末尾が「オ段」だったら、「エ段」になって長音化するという説明の際に、「かっこいい」を例として挙げましたが、それは適当ではありませんでした。

(後で補足を書き足そうと思っていて、書いているうちに忘れてしまっていました。)

 

「かっこいい」は「格好」という名詞と「良い」という形容詞が合わさってできた複合形容詞です。この言葉の語幹の末尾にあたるのは、二つ並んでいる「い」のうちの最初のものです。

ですから、「長音化の法則」を当てはめると、単に

 

かっこいい→「かっこいー」

 

となります。

 

「オ段」→「エ段」へと変化し、長音化する形容詞のふさわしい例としては、

 

すごい→「すげー」

きもい→「きめー」

 

などが挙げられます。

 

 

ですから、「かっけー」は、「長音化の法則」からは、やや逸脱しています。

 

 

「違くね?」などの表現もそうですが、「かっけー」も言語運用の規範から外れているものであるといえるでしょう。たぶん、そこが、これらの言葉の魅力の源泉になっていると思います。

 

 

 

ついでに、蛇足の話を。

 

このブログで紹介した、形容詞の「長音化の法則」ですが、これに当てはまるのは、おそらく、もともと、語幹の末尾が「ア段」と「ウ段」の形容詞だけだと思います。

 

「オ段」の発音を「エ段」にして長音化させても、多くの場合、「重い」→「おめー」、「尊い」→「とうてー」のように、少し強引な感じがします。

しかし、最近では、「すげー」のような言い回しも、よく聞かれるようになってきました。

 

 

形容詞の言い切りの形は「い」になります。

ですので、形容詞を発音するときには、最後の口の形は、左右の口角を引っ張り、口を横に伸ばすような形になります。

 

「あ」という母音を発音するときには、口を縦に開きます。

そのため、例えば、「やばい」という形容詞を口に出す際には、縦に口を開いた後で、口を横に開くように動かすことになります。

「い」の形になりきる前の、口を少しだけ開けた状態で発音されるのが「え」です。

つまり、「やばい」が「やべー」のような形になるのは、「い」の発音になりきる前の口の形の「え」のときに音がもれてしまっていることになります。

 

正しい発音が維持されない、ということで、緊急性やことの重大さ、甚だしさが醸し出されます。要は、発音を崩し、「やばい」ではなく「やべー」と口にすることで、私たちは、焦りや驚きや程度の大きさなどを表現しようとしているのです。

 

「やばい」と発音するときには、「あ」→(「え」)→「い」という口の形の変化があり、「やべー」となるのは、「い」のひとつ前の「え」の時点で調音されているということになりますね。

 

すると、形容詞の長音化の際の「ウ段」から「イ段」への変化も説明がつきます。

「だるい」が「だりー」となるときには、「い」という母音が一足早くあらわれているのです。

 

 

「オ段」が長音化の際に「エ段」になるのは、「ア段」の「法則」をなぞっているからでしょう。「あ」と「お」の発音が近いためであると考えられます。

「すげー」などは、比較的近年にあらわれた言葉づかいだと思います。

 

 

 

これは、調べたわけではなく、個人的な感覚なのですが、形容詞の「長音化の法則」は、たぶん、もともと東日本の話し言葉からきていると思います。

 

江戸の下町言葉は、語尾を伸ばすことが多く、「してしまっているのだろう」→「しちゃってんだろ」というように、「短縮」された発音がよく出てきます。

 

一方、西日本では、活用語尾が省略されることが多いのです。

 

例えば:

 

安い→やすっ

熱い→あつっ

小さい→ちっさっ

 

こうした使われ方も、度合を強調するために使われます。

 

 

 

ところで、形容詞は、非常に変化が激しく、新語が作られたり、新しい意味が派生したりすることが多い品詞です。

 

「ナウい」「ダサい」「むずい」「けばい」「チャラい」「やばい」「うざい」「きもい」などです。これらの中には、古語や方言に由来するものもあります。

 

「寒い」(面白くない)、「暗い」(陰気な性格)「痛い」(いたたまれない)「やばい」(すばらしい)など、元からある形容詞に、新しい意味が加えられることもよくありますね。

 

近年の傾向は、人の性格や様子を表し、かつ、ネガティヴな意味のものが多いように感じます。世相を反映しているのかもしれません。

(いうまでもないことですが、これらの言葉のほとんどは「品」がありません。使うべきではないと思います。)

 

 

 

 

ついでに、「言葉の乱れ」について、考えたことなどをもう少し書いてみようと思います。

 

 

法則やスタンダードから少しそれているものが「かっけー」という感覚は、若い世代の間で一般的にみられるものです。

ファッションや音楽などの、サブカルチャーやユースカルチャーでは、常に「新しいもの」が模索されます。

 

実は、私は、その感覚というのは、豊かな人生を送るために、とても重要だと思っています。

ですから、規範から外れた言葉づかいも、それだけで悪いものだとは思わないのです。

 

汚い言葉でなければ、友達同士の間でなれあった表現を使ったり、「ジャーゴン」やスラングを使ったりする様子を、ほほえましいとさえ思います。

ただ、その行為が、何か特別な、優れた行為だと勘違いしていると、ちょっと見苦しいと思いますが。

 

大きな問題となるとしたら、場所や状況に合わせて言葉を使い分けない場合です。

 

 

 

さて、上記のように、「若者」は、歴史的に、新しい表現を生み出す母体となってきたといえますが、ここ数年、これまでとは違った文脈が登場してきたように思います。

近年、インターネットを基盤とする新しい文化インフラが完成しつつありますが、その中で、90年代まではリアリティーのあった「若者文化」というようなカテゴリーが消滅しつつあります。

さらにいえば、少子化の影響で、娯楽産業全体が、若い世代ではなく、中年より上の世代をターゲットにするようになっています。

 

現代は、いってみれば、50代、60代の中高年や10代の若い世代が、世代の垣根を越えて同居している時代であるといえます。

 

したがって、「新しい言葉」が、「若い世代」から発信されづらくなくなってきているように思えます。

 

 

ご存じの方も多いと思いますが、インターネットの掲示板への書き込みやつぶやきなどから、多様な言葉が生み出されています。

最近では「リア充」や「中二病」といった言葉がよくつかわれているようです。

 

実は、これらの言葉の使用をリードするのは、造語力と言語運用能力に長けた年長世代です。

若年世代は、上の世代のコミュニケーションのパターンをなぞっているにすぎません。

ですから、中学生や高校生は、本来の意味や、新語の成立過程を知らないまま使っていることも多いのです。

 

要するに、現代の若い世代が使用している「新しい言葉づかい」は、先行する世代の影響によるものがほとんどであるということです。

 

そうなると、もはや「言葉の乱れ」を世代間の相克として捉えることはできなくなっていくのだろうと思います。

 

 

 

インターネットは文字表現の世界なので、書き言葉に比重があるといえます。そして、その隆盛は、ある意味で、活字の復権であると考えることもできます。

この15年ほどの間に、インターネットの中で生み出されてきた言葉には、書き言葉の特性がよく表れていると思います。それは、あまり「若者っぽく」ない印象ですね。

 

 

 

私は国語の教師なので、「正しい言葉」を教えなければならない立場です。

 

しかし、同時に、変化していく日本語を、ただ否定するのではなく、受け入れて、研究する対象として扱うべきだと思っているのです。

 

(もし、「誰か」との間に、言葉に象徴されるような「ギャップ」を感じている人がいたら、言葉を知ることが、「相手」を 理解する手がかりになるかもしれませんよ。)

 

 

今後、日本語がどのように変わっていくのか、不安でもあり、楽しみでもあります。

 

 (ivy 松村)

「くだけた」言葉は「かっけー」のか?

「違う」という動詞は、一部の人たちに形容詞であると誤解されているようです。

そのために、文法に違反する使用法が生み出され、さらに、それに追随する人たちによって、誤った使われ方が広まりつつあります。

 

もうひとつの例証をみてみましょう。

 

形容詞は、話し言葉として使われるときに、強調を示す意図で、語尾が変化することがあります。

 

例:

暑い(あつい)→「あちー」

寒い(さむい)→「さみー」

長い(ながい)→「なげー」

旨い(うまい)→「うめー」

かっこいい→「かっけー」

 

語幹の最後が「ウ段」だと、「イ段」に変化して長音(伸ばす音)化します。

あ「つ」い(「つ」は「ウ段」)→あ「ちー」(「ち」は「イ段」)

 

語幹の最後が「ア段」(「オ段」)のときには、「エ段」に変化して長音化します。

な「が」い(「が」は「ア段」)→な「げー」(「げ」は「エ段」)

 

ちなみに、「おかしい」などの「イ段」の場合には、「おかしー」とのばされるだけですね。

「危うい」のような「ウ段」の場合は、なぜかそのままですね。

 

 

さて、「違う」についてです。

耳にされたことのある人も多いと思いますが、現在、「ちげーよ!」(違うよ)という言い方が広まりつつあります。

 

当然、このような言葉の運用方法は、形容詞の発話システムに準拠しているといえます。

 

ただ、やはり本来動詞である言葉を強引に形容詞と同じように使おうとしているので、「ちげー」だけでは形や音にともなう「意味」が不安定になってしまいます。そこで、「よ」という終助詞を「重し」に使い、力技で、形容詞の枠にはめようとしているのです。

 

こうした表現を生み出してしまう人は、「違う」が形容詞であるという感覚にとらわれているため、その音や形を、形容詞に合わせて「変化」させてしまうのです。

 

 

 

 

前回は、「違くね?」、「違かった」という表現を取り上げ、今回は「ちげーよ!」という表現を取り上げました。

 

 

 

これらの言葉づかいは、当然、日本語の正しい規則に整合したものではありません。

 

正しくないために、こうした「くだけた」言葉づかいが、年長である親や教師、上司、先輩などから注意されたり、たしなめられたりするのだと考える人もいるかもしれません。

 

しかし、それは、ちげーよ!

言葉づかいが正しくないためであるというよりも、「くだけた」言葉づかいをしてしまう人間が、ちょっと「みっともない」ためです。

 

 

若い世代が新しい言葉を生み出すという営為は、大昔から延々と続けられてきたことであって、ある意味でそれは普遍的な現象です。

日本語も、歴史的に大きく変化してきました。

 

逆にいえば、目新しいものにすぐにとびついて、その他大勢と一緒に流行を追っかけてしまうような人が、いつの時代にもたくさんいるのだ、ということでもあります。

 

若い時期に、社会や大人が定めたルールからはみ出ることを「かっこいい」と思ってしまうような人は、どの時代にも割と多くいるものです。

 

私にも十代の頃はありましたが、そうでなかったといえば嘘になります。

 

まあ、要するに、わざと「くだけた」言葉づかいをするような人たちは、どこにでもいるということですね。

 

 

はっきりいって、そういった心理も感性も、すべて予想どおりで平凡です。

何ひとつ特別なことはありません。

「くだけた」言葉は、ただの、ありふれた、単純で月並みな、個性のない俗物の一人であるというアピールにしかなりません。

 

 

もし、必死になって「くだけた」言葉づかいをしている人がいたら、やめたほうがいいと思いますよ。

 

 

(ivy 松村)

「違くね?」と思ったら、やっぱり「違かった」

今回は「違う」という言葉について考えてみたいと思います。

おそらく日本語の中で今、最も使われ方に乱れが生じている言葉が「違う」です。

 

前回は、「間違う」を取り上げました。

「間違う」は「違う」という動詞に接頭語の「間」がついたものでした。

 

似ていますが、意味は大きく違います。

「間違う」は、正しくない認識を持ったり、ふさわしくない応答をしてしまったり、適切ではない行動をとってしまったりすることです。

「違う」は、同じではないということで、「通常は」ネガティブな意味を持ちません。

 

 

さて、「違う」もやはり動詞です。

品詞としては動詞なのですが、この言葉は、どうにも動詞らしくないのです。

 

動詞を意味の上から説明するならば、「行為、動作、作用、存在」を表す品詞であるということができると思います。一方、形容詞は、「様子、状態、性質、心情」を表す品詞であるということができます。

 

「違う」は、意味からとらえると、「様子、状態、性質」を表しているといえますから、形容詞に近いと感じられます。事実、英語では「違う」に相応する訳語は「different」という形容詞です。

 

もちろん、英語にも「differ」という動詞がありますが、一般的に使われるのは「different」です。それは、「違う」という意味内容を告げるのには、形容詞である「different」を用いたほうが、より自然であると考えられているからでしょう。

 

 

 

「違う」はワ行五段活用動詞なので、以下のような活用をします。

(太字が活用語尾、「 」は接続する語の例)

 

ちが「う」   (未然形)

ちが「ない」  ( 〃 )

ちが「ます」  (連用形) 〈※ちが「た」(連用形):促音便〉

ちが「。」   (終止形)

ちが「とき」  (連体形)

ちが「ば」     (仮定形)

ちが「!」     (命令形)

 

 

未然形の「違おう」(意志)や命令形「違え」という形に少し違和感がありませんか。

「違う」の意味内容が形容詞に近い性質を持っているために、「行為者」の存在を想定することが不自然であると感じられるからでしょう。

 

 

 

さて、現在、上に示したような正式な活用を用いない「違う」の使われ方が広まりつつあります。

 

「違くね?」

「違かった」

 

というような言葉づかいです。

 

 

「違くね?」という表現を使う人は、この「ね」を、終助詞の「ね」と混同しているかもしれません。この「ね」は「ない」という助動詞が短縮されたものです。さらに、疑問・質問を表す終助詞の「か」が省略されています。

 

原形を再現すると「違わないか」となるでしょう。

 

「違かった」は、本来ならば、「違った」となるはずです。

 

 

 

言語の感性が鋭い方は、すでにお気づきになっているかもしれません。

 

これらの表現は、「違う」という動詞に、形容詞の活用をさせているのです。

 

形容詞の活用は一種類しかありません。「美しい」という形容詞で活用を確認してみましょう。

(太字が活用語尾、「 」は接続する語の例)

 

うつくしかろ「う」           (未然形)

うつくしかっ「た」           (連用形)

うつくしく   「なる」        ( 〃    )

うつくし 「。」           (終止形)

うつくし 「もの」        (連体形)

うつくしけれ「ば」           (命令形)

 

 

「違ね?」は、形容詞の連用形の活用である「く」を使っていることがわかります。

「違かった」も形容詞のもうひとつの連用形の活用である「かっ」を使っています。

 

 

 

文法事項の確認をしましょう。

 

動詞に、打消しの助動詞の「ない」を接続するときは動詞を未然形に活用させます。

ところが、とても紛らわしいのですが、形容詞を打ち消す「ない」を接続するときには、形容詞を連用形に活用させます。

形容詞を打ち消す働きをする「ない」は、「補助形容詞」とか「形式形容詞」と呼ばれる形容詞の一種です。つまり、「用言」なので、連用形になるのです。

 

「違わない」・・・「違わ」(動詞の未然形)+「ない」(打消しの助動詞)

「美しくない」・・・「美しく」(形容詞の連用形)+「ない」(補助形容詞)

 

 

動詞に、過去や完了の意味を持つ助動詞の「た(だ)」を接続するときには、動詞を連用形に活用させます。「違う」は、「音便」という特殊な活用をする動詞のひとつで、「っ」という活用語尾が現れます。(他に、「走った」「蹴った」「買った」などがあります。)

本来なら、「違った」としなければならないのですが、わざわざ、一音多くしてまで、形容詞の連用形の活用語尾を使い、「違かった」としています。

 

 

 

「違う」が、正しい活用で用いられないのは、この語が形容詞と勘違いされているからです。

 

その原因のひとつは、冒頭で述べたように、「違う」という語の概念が、形容詞の性質に近いからです。

 

さらに、大きな原因がありそうです。

 

「違う」の連用形と転成名詞はともに「違い」という言葉ですが、この語の形式が混同に拍車をかけていると考えられます。

つまり、「い」で終わるという語形が、形容詞の終止形と同一であるために、「違い」という形容詞が存在するのだと勘違いしやすくなっているのです。

 

 

 

今は定型に違反していることになっている言葉づかいであっても、使用者が多数派を形成すれば、許容されることになります。

ときに、ある言葉が辞書に載ることが大きな話題として取りあげられることがありますが、それは、新しい言葉が社会的に認知されるということを示しているからです。

 

たぶん、私を含め、今は、多くの人が上記のような言葉づかいを認めがたく感じていると思いますが、未来には、一般的な表現になっているかもしれません。

 

 

 

しかし、「違くね?」は現時点では間違った言葉づかいです。

「違くね?」と何度も言っていると、「その言い方、違くね?」と言われてしまうかもしれません。でも、その言い方もおかしいので「それも違くね?」と突っ込まれてしまうかもしれません。すると、「だから、その『違くね?』っていう言い方が違くね?」と指摘されるかもしれません。

 

無限ループに気を付けましょう。

 

 (ivy 松村)

「間違え」という「間違い」

・まちが「え」がある。

・まちが「い」がある。

 

どちらが間違っているでしょうか。

 

「まちがえ」が間違いです。

 

×「間違えがある。」

○「間違いがある。」

 

×「お間違えのないように。」

○「お間違いのないように。」

 

 

最近は、「間違え」を使う人が増えてきました。

言葉は、時代によって変化するもの、うつろいゆくものですから、いずれ、「間違え」が優勢になり、スタンダードになるのかもしれません。

 

しかし、現時点では、「間違え」という「間違い」を認めるべきではないと、私は考えています。

正しい国語の知識を持った教師は、そのような表記を認めないはずです。

もし作文の際に生徒が「間違え」を使っていたら、減点の対象とするでしょう。

 

つまり、「間違え」という表記は、少なくとも、現代の教育の現場において、正しい文章表現を学ぼうとする際には、訂正されなければならないものなのです。

 

 

 

「間違い」は自動詞の「間違う」の転成名詞です。

転成名詞とは、名詞ではない別の品詞から作られた名詞です。

 

例:

・釣る(動詞)→釣り(名詞)

・遠い(形容詞)→遠く(名詞)

・にぎやかだ(形容動詞)→にぎやかさ(名詞)

 

 

名詞は、以下のように、格助詞に接続して文節をつくることができます。

 

・間違い「が」ない。   (?間違え「が」ない。)

・間違い「を」指摘する。 (?間違え「を」指摘する。)

・間違い「に」困惑する。 (?間違え「に」困惑する。)

・間違い「の」多い文章。 (?間違え「の」多い文章。)

 

ごく普通の言語感覚でとらえてみても、「間違え」という語を使った表現に不自然さを感じるのではないかと思います。

「間違え」という表現が、日本語の言語運用の規範からずれているためです。

その表現が正しくないことを、脳が感じ取っているのです。

 

 

 

なぜ、「間違え」という表現が広く使われているかというと、「間違える」という別の動詞が存在するからです。

 

「間違う」・・・自動詞→ 「生徒が間違う。」

「間違える」・・・他動詞→ 「生徒を間違える。」

 

 

「~を」という対象(英語でいう「目的語」)の言葉を必要とするのが他動詞です。

「間違える」は他動詞ですので、「~を間違える」のように、「~を」という修飾の要素を必要とします。

 

 

 

「間違える」の連用形は「間違え」となりますので、「間違えそうだ」「間違えました」「間違えてしまう」といったように使われます。

また、「連用中止法」を用いれば、「私は問三を間違え、彼は問五を間違えた。」というような使い方も可能です。

 

 

そうすると、「間違える」の連用形を名詞化した「間違え」という転成名詞が存在してもおかしくなさそうです。

 

 

しかし、一般的に、一部の例外を除いて、転成名詞は自動詞から作られるので、「間違える」から派生した「間違え」ではなく、「間違う」から派生した「間違い」が正統な転成名詞であるとみなされます。

 

他動詞は、基本的に「~を」という修飾要素をともなって使われるため、文脈がなければ、一語で成立しないのです。

 

例として、自動詞の「残る」、他動詞の「残す」で考えてみましょう。

「残り」という転成名詞は、自動詞である「残る」の連用形から作られています。

一方、「残し」という転成名詞が、他動詞である「残す」の連用形から作れそうです。

 

「残し」という語は、その由来が他動詞であるがゆえに、「何を?」「何の?」という要素がなければ、意味が不安定になります。単独では使いづらいのです。

 

それでも、「食べ残し」というように、接頭語を用いて「~を」にあたる対象を示唆すれば、転成名詞として成立します。

 

同様に、「~を」という要素が含まれることになる「見間違え」のような表現は、かろうじて許容されますが、単独で「間違え」という表現を用いることは、意味論から考えても、文法論から考えても、逸脱になります。

 

 

 

どういうわけか、「間違い」=「間違え」であるという認識が広まってしまったために、「どちらを使ってもよい」と思っている人が多いのではないかと思います。

実際には、「間違え」は間違いです。

 

 

 

どうしてこのような混同が起こったのか考えてみました。

 

口語において、ともに近い音である「い」と「え」は、しばしば曖昧に発音されます。

そのため、両者ともに「ゆらぎ」の範疇であると勘違いされているのかもしれません。

 

例えば:

「いいじゃないか」=「ええじゃないか」

「行く」→(いく)=(ゆく)

「寂しい」→(さみしい)=(さびしい)

 

 

 

また、文章を書き慣れていない人が、案内文や手紙文などを書こうとして、ていねいな表現を心がけようとした際に、「間違え」が使われることが多いように感じます。

冒頭の例にあげた「お間違えのないように」というような表現です。

 

「間違う」は自動詞ですので、「~が」という主語(行為者)が意識されます。

そこから派生した「間違い」も主語が意識されることになります。

 

そのため、「間違い」という言葉を使うことで、「間違いをしてしまう相手」を、あげつらっているように受け取られないか、心配になってしまい、過度の言葉づかいになっているのかもしれません。

 

 

先生が間違う。・・・(先生の)「間違い」→「(先生の)間違いを直しましょう。」

問題を間違える。・・・(問題の)「間違え」→「(問題の)間違えを直しましょう。」(誤文)

 

 

もちろん、後者は正しくない文ですが、前者と比べると、「間違いをおかした人」の存在を消去する効果があるため、穏便な表現になると考える人もいるのかもしれません。

 

 

しかし、いずれにしても、「間違え」は間違いです。

 

間違えないようにしましょう。

 

(ivy 松村)

interesting or funny

春期講習の2日目を終えて、今年の「色」が見えてきました。

 

全体的にペースを少し落としています。

今年の生徒は、次々と単元をこなしていくよりも、じっくりと飲み込んだほうが伸びるように思います。

今日の授業から、講習の構成を少し調整しました。

 

授業を受けている生徒のみなさんは、何のことやら、と思うでしょうが、こちらも、いろいろと考えて授業をしているのですね。

 

 

昨日が初日だった生徒もいました。

もちろん、急激にやる気がみなぎってきて、いきなり学習意欲がスパークしてくれれば、それが一番いいとは思いますが、まずは、勉強と向き合う春休みにしましょう。

授業の合間にも話しましたが、今のタイミングで受験勉強を始めるのなら、この塾がベストに近いです。気持ちに整理がついたときには、言ってください。

 

 

春期講習は、ペースはゆっくりですが、時間当たりの勉強量は多くなっています。

演習量が増えていますし、復習や見直しに時間をかけているからです。

 

もちろん、1日の授業時間も増えていますし、通塾日数も普段よりも多くなっています。

 

 

講習が終わった時には、必ず、基礎的な力がアップしているはずです。

 

 

 

 

中2の国語では、「動詞」の語幹と活用語尾について説明しました。

 

語幹と活用語尾を瞬時に見分ける方法を伝えました。

「ない」を接続したときに、「ない」の直前に置かれる一文字までが活用語尾になり、その上の「残り」が語幹になるのでしたね。

 

読む→よ「ま」ない・・・「ま」→「む」が活用語尾、残りの「よ」が語幹

 

行く→活用語尾「く」(語幹「い」)

困る→活用語尾「る」(語幹「こま」)

味わう→活用語尾「う」(語幹「あじわ」)

 

 

・基本的には、漢字で表したときに「送り仮名」になっている部分が活用語尾になる

 

調べる→しら「べ」ない・・・「べ」→「べる」が活用語尾、残りの「しら」が語幹

 

降りる→活用語尾「りる」(語幹「お」)

試みる→活用語尾「みる」(語幹「こころ」)

曲げる→活用語尾「げる」(語幹「ま」)

 

 

・語幹のない動詞は、活用語尾に漢字をあてる

 

似る→に「ない」・・・「に」→「にる」が活用語尾、「残り」がないので「語幹なし」

 

着る→活用語尾「きる」(語幹なし)

来る→活用語尾「くる」(語幹なし)

得る→活用語尾「える」(語幹なし)

する→活用語尾「する」(語幹なし)

 

 

・他の言葉との関係によって、送り仮名を調整することもある

 

起こす→活用語尾「す」

 

なぜ送り仮名が「起(おこ)す」とならないのか

送り仮名を「起(おこ)す」としてしまうと、「起きる」という言葉に漢字を当てることができなくなってしまう

 

ですから:

 

「起(お)-こす」→活用語尾「す」(語幹「おこ」)

「起(お)-きる」→活用語尾「きる」(語幹「お」)

 

となるのでしたね。

 

同様に:

 

「落とす」→活用語尾「す」 (語幹「おと」)

「落ちる」→活用語尾「ちる」 (語幹「お」)

 

「集まる」→活用語尾「る」 (語幹「あつま」)

「集める」→活用語尾「める」 (語幹「あつ」)

 

このようなペアの動詞の関係(自動詞/他動詞)については、また今度説明します。

 

 

 

現在の送り仮名のルールが定められたのは第二次世界大戦後なので、それ以前の古い文章を読むと、送り仮名が違っていることもあります。

 

 

小学生の頃、上一段活用動詞や下一段活用動詞の送り仮名を不自然に感じた人も多かったのではないかと思います。

また、イレギュラーな送り仮名にとまどった人もいたはずです。

私もそうでした。

 

 

小学生に、「活用」の全体を説明するのは大変なことなので、ほとんどの小学生には、この送り仮名はこうだ、と理屈抜きで覚えてもらうことになります。

 

 

網のように、それぞれの要素が関連し合って「全体の知識」を構成しているようなことがらは、まずその構成要素を知っておかないと、説明を受け入れることができません。

 

先に「理屈」を伝えることができないのです。

まず、必要な要素を身につけてもらう必要があるのです。

 

漢字を勉強しはじめる前の小学生に、まず、送り仮名のルールの全体像を説明しようとしても、ちんぷんかんぷんです。

ですから、小学生のうちは、とにかく「決められた通り」に覚えなさいと言われるのですね。

 

 

そうして、苦労して集められた知識の成り立ちや意味を、今回の授業のように、後になって知らされることがあります。

 

私は、今日の授業で説明したことを、その昔に知ったときに、とても「面白い」と感じました。もやもやしていたものがクリアになって、すっきりしました。

みなさんはどうだったのでしょう?

 

 

 

ところで、以前、私は「勉強は面白い」とブログに書いたことがありますが、私が考える勉強の「面白さ」とは、このような知的好奇心にもとづいたものです。

英語でいうと「interesting」です。

 

「interesting」を感じるためには、「暗記」のような、知性の積み重ねが必要です。

ですから、「面白い」と「がんばれ」が同居しているのです。

 

一方、「楽しい」の延長にある「面白い」は「funny」です。

 

 

まあ実際には、私もアホなことを言ったり雑談などをしたりして「funny」なときもありますが、当然、大事にしているのは「interesting」のほうです。

 

 

これらは大きく違う概念なのに、日本語では同じく「面白い」といいます。

ブログのなかで、自分が使い分けていなかったことに気づきました。

使い方に気を付けないといけませんでしたね。

 

 

 

ivyの春期講習は、まだお申込みを受け付けております。

数日のみ、授業体験にお越しいただくことも可能です。

ぜひ、お気軽にお問合せください。

 

(ivy 松村)