「進学塾」の条件

1987年に、当時の国立教育研究所(現在の国立教育政策研究所)の結城忠氏らが行った調査で、学習塾の4類型が提唱されました。それは、以下のようなものです。

 

①「進学塾」・・・有名校受験を目的とした塾

②「補習塾」・・・学校の授業の補習を目的とした塾

③「総合塾」・・・進学コースと補習コースを併せもつ塾

④「落ちこぼれ救済塾」・・・いわゆる「落ちこぼれ」を対象とした塾

 

この4類型は、それ以後の学習塾研究の基調となりました。

後続の学習塾研究の多くは、この類型に基づく分類か、この類型を改造したものを学習塾の分類として使用しています。

 

 

同じ1987年の、公正取引委員会の調査報告では、以下のような分類がなされています。

 

①「進学塾」

②「補習塾」

③「総合塾」

④「単科塾」

⑤「遅延児塾」

⑥「英才塾」

 

 

このうちの⑤の「遅延児塾」は、上述の「落ちこぼれ救済塾」と同等の機能をもつものであるととらえることができます。

 

④の「単科塾」と⑥の「英才塾」は、それほど一般的なものではありません。前者は「算数」や「英語」、「国語」などに特化した塾であり、⑥は東大受験を専門とするような塾で、入塾審査があるような塾です。

 

 

 

また、学習塾に関する著書を数多く出版している評論家の小宮山博仁氏は、結城氏らが示した4類型のうちの「落ちこぼれ救済塾」を「教育理念塾」としてまとめています。

 

 

以上の三者に共通する分類のカテゴリーは、

 

①「進学塾」

②「補習塾」

③「総合塾」

④「落ちこぼれ救済塾」=「遅延児塾」=「教育理念塾」

 

 

ということになります。

 

 

 

一方、「総合開発研究機構」(NIRA)は、結城氏らの分類をふまえた上で、「お落ちこぼれ救済塾」は「補習塾」に組み込みこむべきであるとして、学習塾を3分類に整理しました。

 

 

①「進学塾」

②「補習塾」(落ちこぼれ救済塾を含む)

③「総合塾」

 

 

この中で、「総合塾」という名称は、多くの人にとってあまりなじみがなく、その内実をイメージしづらいのではないかと思います。一般的には、ほとんど使われることのない用語です。

 

「総合塾」というのは、学習塾研究においては、「進学塾」の機能と「補習塾」の機能を兼ね備えた塾が想定されています。

つまり、難関校受験を指導をする一方で、学校の授業について行くのがやっとであるというような生徒の指導も行うような塾を指しています。

 

そうであるなら、世間のほとんどの塾が、この「総合塾」というカテゴリーに入ってしまいます。

前述の小宮山氏の説明によれば、およそ8割の塾が「総合塾」に分類されるということです。ならば、もっともあやふやな名称を与えられている「総合塾」こそが、学習塾の主体をなしているということになります。

 

実際、多くの学習塾が、幅広い学力層の生徒を受け入れています。

 

 

 

塾の「拡大期」であった70~80年代は、現在よりも「進学塾」と「補習塾」の棲み分けがくっきりとありました。

 

多くの「進学塾」で「入塾テスト」が行われ、入塾生の「選別」が行われていたのです。

一方で、自宅の一室を使って、学校の勉強をフォローするような「補習塾」が多く存在していました。

 

 

こうした時期に活発化した学習塾研究では、「進学塾」/「補習塾」という二分が、非常に重要な意味を持っていたのです。

同時に、郊外や地方都市では、まだ学習塾というものが多くなかったので、ひとつの塾が、幅広い学力の生徒を集め、多様なニーズに応えようとしたのです。つまり、「進学塾」とも「補習塾」とも分類できないようなタイプの塾がみられたわけです。

 

要するに、「総合塾」という分類は、「進学塾」か「補習塾」か、という「構図」のなかで、明確に分類できない塾として想起されたものなのです。ですから、「総合塾」というのは、当初は二次的なカテゴリーだったのです。

 

 

 

現在では、多くの学習塾が、幅広い学力層の生徒をできるだけ受け入れるようになっています。

 

学習塾の増加によって競争が激化し、また、少子化が進行したことで、学習塾業界は「売り手市場」ではなくなりました。

「進学塾」であっても、入塾者を「選別」する余裕がなくなり、多くの塾が入塾希望者は基本的に受け入れるようになりました。

 

こうして、古典的な学習塾研究の定義を用いれば、多くの塾が「総合塾」に分類されてしまうというような、現在の状況になったのです。

 

 

 

近年では、企業コンサルタントの宮田貞夫氏が、以下の3分類を提示しています。

 

①「進学塾」

②「補習塾」

③「受験塾」

 

 

この分類では、「総合塾」に替わって「受験塾」というカテゴリーが採用されています。

 

 

 

ところで、「進学塾」という看板を掲げた学習塾は巷に散見されますが、「補習塾」をアピールする学習塾はほとんど存在しません。

前述の小宮山氏は、それは、「補習塾」という看板を掲げても、「出来ない生徒が集まる塾」という評判が立ってしまい、生徒が集まらなくなるという事情のためであると述べています。

 

「補習塾」という言葉は、否定的な「レッテル」として作用するので、自塾をあえて「補習塾」であると宣伝する塾は少ないというわけです。

 

2000年代に入ってから、学習塾業界には「個別指導塾」ブームが起きますが、その際に多くの「補習塾」が「個別指導塾」にくら替えしました。

 

一方、「進学塾」を始原とする「塾企業チェーン」は、2000年ごろから「コンビニ型」の教室を各地域に出店するようになります。

小規模の教室を数多く経営することで、収益を確保しようという戦略です。

 

そうした塾企業は、慢性的な人手不足に陥ります。そのため、教務技術の未熟な「新入社員」や「中途社員」がひとりで切り盛りするような、「大手塾」の教室が拡散していきました。

こうした「チェーン」の教室は、それぞれ同じ看板を掲げていても、指導の質が教室によって大きく異なっています。

 

「進学塾」という看板だけでは、その塾の中身はわからない、というのが今の時代の「塾模様」です。

 

 

 

さて、「進学塾ivy」という塾は、「進学塾」と明記しているわけですが、そこにはこだわりというか、矜持のようなものを込めています。

 

 

私たちには、一緒に勉強したい、と言ってくれる生徒を受け入れないという選択を、想像することはできません。

 

思うに、「進学塾」の定義は、生徒を「選抜」しているかどうか、という条件でなされるべきではありません。実際、現代の学習塾に、そのような視座はほとんど無意味です。

 

 

 

少し前に、このブログで「良い塾の条件」について考えてみました。

そのときは、より普遍的な「答え」を求めて考えすぎてしまい、「ぼんやり」した結論となってしまいました。

 

塾によって、目指しているものや目的が違っているのですから、すべての塾を包括するような「答え」にはあまり実用的な意味がなかったのです。まあ、「塾選び」などの指標とするには「薄かった」わけです。

 

今は、考えるべき方向性がもっと明確になってきました。

 

現代の「進学塾」とはどのような塾であるべきなのか、という問いについて考えることに、大きな意味がありそうです。

 

 

その回答のひとつは、受験の「主導権」を持つことであるといえそうです。

 

私が尊敬する塾教師が言っていた言葉を思い出します。

 

 

「塾の役割は、受験校の決定に『介入』することです。」

 

 

高校受験に即していえば、受験校の選択を「生徒任せ」にしない塾です。

早く受験校を決めろ、学校見学に行ってこい、などと言うばかりで、高校の情報を示したり、より良い高校への挑戦を促したり、生徒に見合った受験を勧めたりしない塾は、「進学塾」であるとはいえないと思います。

 

特に、第二志望以下の受験校について、しっかりと話をすることが大切です。

多くの中学生は、中学校の三者面談で、学校の先生に勧められる受験パターンを甘受します。

それが「当たり前」だと思っているような塾は「進学塾」ではないのだろうと思います。

 

 

 

中3の、中学校の三者面談(進路面談)が終わりました。

 

期末テストが終わって、仮内申が出れば、いよいよ受験校を決めます。

 

 

中3の生徒とは、かなり密に受験校について話をします。

 

学校の特色や校風、入試問題の傾向、高校から先の進路の可能性などの情報はもちろんのことですが、特に受験パターンや受験校の選定について、詳細な話をするようにしています。

 

中3だけでなく、中2や中1にも、折にふれて高校の話をしています。

 

私は、まず、生徒本人と高校の話をするようにしています。

 

 

生徒自身が、保護者の方に、自分が受験したいと思う高校の話をするという形を大事にしたいのです。

 

生徒本人が、「自分はこの高校を受けたい」という意思を示すことに大きな意味があると思うのです。

 

 

生徒たちにもよく言っているのですが、高校から先は「行かせてもらう」ところです。

 

今は、高校に行くのが「当たり前」という時代になっていますが、原則的には「義務教育」は中学までなのです。

ですから、本来は、高校に行かせてもらいたい、ここを受験させてほしい、とお家の人にお願いするのが「道理」なのです。

 

 

そういう受験指導の「形」を大事にする「進学塾」でありたいと思っています。

 

 (ivy 松村)

 

大学入試改革 (塾の機能④)

これまで、「塾の機能」についての考察を重ねてきました。要旨は以下の通りです。

 

・戦後の日本の教育は、「学力競争」を排除しようとした

・しかし、大学受験では、「学力競争」にもとづく選抜方法が維持されてきた

・そのため、保護者・生徒は学力獲得を重視し、学習支援、受験指導の需要が高まった

・公教育の内部ではその需要に応えることができないので、学習塾のような私的な教育機関がその受け皿として発達することになった

 

ところで、「大学入試改革」の議論が本格化してきました。一発勝負ではない「達成度テスト」の導入などが話題になっています。

 

この改革の行く末がとても気になります。学習塾関係者であれば、当然関心を持たざるを得ないわけですが、どことなく、受験業界は楽観視しているようにみえます。これまでに行われてきた「改革」がことごとく業界にとって追い風になってきたという経緯からかも知れません(一方で、学習塾業界は少子化に対しては過敏になっています)。

 

私は、入試制度を含めた大学改革の先行きによっては、発展を続けてきた学習塾産業は衰退へと向かうのではないかと危惧しています。もちろん、多様な教育的ニーズに応える私的教育がすべて消え去ってしまうことはないでしょうが、学習塾の数は減っていくことになるかもしれません。

 

大学に入るために必ずしも学習塾に通わなくてもよくなり、経営に行きづまる塾がたくさんでてくる可能性があると思うのです。思い切った構造的な大学改革が行われるということが前提となりますが。

 

学習塾の発展を促したのは、大学受験における激しい「学歴競争」の存在でした。もしも、それが緩和されてしまえば、学習塾はその存在理由を揺るがされることになるでしょう。

 

教育を行う場所には、時代の流れに揺るがない普遍的な存在理由が必要であると感じています。

(ivy 松村)

学習塾成長の理由(塾の機能③)

雑誌『都市問題』の2007年5月号で、「学習塾の機能と逆機能」という特集が組まれました(「逆機能」というのは、社会への否定的な作用のことです)。その中の記事で、ジャーナリストの前屋毅さんは学習塾の成長の理由について分析しています。

 

前屋さんは、教育行政の矛盾した方針によって、学習塾が成長してきたのだと述べています。

 

受験をめぐる競争を否定し、緩和させようとする施策が行われる一方で、熾烈な学力の競争を行う大学入試制度が維持されてきました。

 

競争を緩和させようと行われた「改革」の例として、かつて東京都立高校入試で実施された「学校群制度」が挙げられます。さらに、記憶に新しいところでは、「失敗だった」という評価が定着しつつある「ゆとり教育」があります。皮肉なことに、これらの試みはかえって競争を過熱させ、学習塾をさらに成長させることになりました。

 

ある意味で、中学受験、高校受験は、大学入試に向けた工程であるといえます。大学入試において「競争力」が必要なのであれば、それ以前の段階で「競争力」を伸ばしておかなければなりません。「良い大学」に入るために、レベルの高い高校、あるいは中学に合格し、大学受験への道筋をできるだけしっかりと整えておくことが望まれているのです。

 

ですから、大学受験よりも前の受験ステージで、熾烈な競争が行われ、そのための準備がすでに必要とされているはずなのです。

 

しかし、教育行政は、公的には競争意識を希薄化しようとしました。そのため、競争を勝ち抜くための対策を指導する、私的な教育機関のニーズが高まったのです。

つまり、公教育の枠組みの中にいては受験を勝ち抜けないので、学校以外で受験対策を行う学習塾が求められることとなったのです。


(ivy 松村)

塾の機能②

前回の記事で、学習塾が、子供に、学力の差をもたらす機能を担っているということを述べました。

それはつまり、学習塾は、子供たちの「学力競争」を支援する役割を持っているということです。その学習塾が社会的な広がりをみせているという現状は、以下のようなことを物語っているといえるでしょう。

 

①学校教育において、「学力競争」が働いていない

②多くの保護者・生徒は、「学力競争」のための学習機会を求めている

 

①について考えてみましょう。

公立の小中学校教育は、残念ながら、学習指導の面で、保護者・生徒に不信感を持たれています。しかし、それは学校関係者の技量や資質が足りないためではありません。

 

戦後の公教育のシステムは、教育機会の平等を理念として設計されました。そのため、公立学校の義務教育は、教育上の格差を縮めることを志向しました。ですから、公教育においては、なるべく「下」の生徒を引き上げ、「上」を突出させないというような、平準化の原理が働いているのです。

 

次に②について考えてみます。

保護者・生徒はより高い学力を身につけたいと考えています。それは、入試を突破し、より高い「学歴」を獲得したいと思っているからです。

 

日本は、学歴が社会的評価につながる社会です。そのことに賛否、議論はありますが、それは反面では、身分や出身で出世が決まるわけではないことを意味します。私たちが生きているのは、合理的な、近代社会だということでもあるのです。(ちなみに、業績や能力で人物を評価することをメリトクラシーと呼びますが、日本は「学歴メリトクラシー」の社会であるといえます。)

 

つまり、社会構造的に、保護者・生徒は受験に向けて動機づけられているのです。そして、その受験という「選抜競争」があるにもかかわらず、公的な学校教育だけでは十分な学力を得ることができないという現実が存在しているというわけです。そのために、学習塾が必要とされているということがみえてきます。


(ivy 松村)

塾の機能①

塾の「機能」という表現に違和感をおぼえる人もいるかもしれません。

「機能」というのは、社会学にとって重要な概念で、端的に説明しますと、「社会に対する何かしらの貢献」をあらわすものです。

 

「塾の機能」の分析が、2000年代半ばごろから活発になります。それまでの学習塾に関する研究は教育学、心理学のものが多く、そこでは、学習塾は、学校や、子供の発達にとって良くない存在だという認識が強くありました。

 

塾が社会学の研究の対象になってきたことは、近年、学習塾が社会的に認知されたことと関係があると思います。学習塾が日本社会の中でどのような役割を果たしているのかに、関心がもたれるようになってきたからでしょう。

 

森いづみさんは、「なぜ学習塾が発達するのか」という論文のなかで、学習塾は「学力面での差異化の機能を担っている」と述べています。つまり、子供たちに学力差をつけるために学習塾は存在しているということです。当然ながら、学習塾に通う生徒は、通わない生徒よりも高い学力を身につけることができます。

 

子供たちに「差」をつけるのはよくないとする立場からは、学習塾はよく思われません。しかし、子供の才能や意欲に応じて、学力を伸ばすべきだという立場からすれば、学習塾は必要とされます。

 

現在、学習塾がこれほどまでに一般化し、社会に根付いているということは、学習塾の「学力面での差異化の機能」(学力を身につける機会)が求められているということです。

 

それは、逆にいえば、保護者、生徒が学力を伸ばしたいと思っているにもかかわらず、公教育(公立小中学校)が、その期待や希望に十分に答えていないということです。


(ivy 松村)