「誓いの水」と、「因習」と

この塾には給水器が置いてあって、夏の暑い日などに紙コップに冷たい水をなみなみと注いでゴクゴクと飲み干すと、生き返ったように爽快な気分になります。

 

 

最近はずいぶん涼しくなってきて、そのおかげで、温かいコーヒーやお茶がおいしくなってきました。給水器は給湯機能も付いていて、温かい飲み物を楽しむことができるのです。

また、カップラーメンを食べることもできます。ミネラルウォーターで作るカップラーメンは、ちょっとしたぜいたく品です。

 

 

生徒たちはみなこの「水」が大好きで、休憩時間などにはわいわいと教室から出てきて、「お水で一息」入れています。

ときに給湯器の周りは、あたかも「社交場」のようになり、おしゃべりや息抜きをする生徒たちであふれかえることもあります。

 

 

 

夏期講習に入る前だったので、7月頃だったと思うのですが、あるクラスの全員が課題をやって来なかったことがありました。私もさすがに怒って、クラス全員に「説教」をしました。

 

それで、一人ひとりに「誓い」を立ててもらったのです。

今度課題をやって来なかったら、どうするのだ、と。

 

 

私は、「誓い」を立てるという行為をけっこう気に入っていて、たまに自分でも「誓い」を立てることがあります。

必ず自分で決意した行動をやり切るのだと、心に刻むのです。

 

 

すると、生徒たちは、「居残り勉強をします」とか「反省文を書きます」などと言うのです。いやいや、「誓い」というものは、そういうものじゃないよ、といいました。

 

少し考えて、今度は、「倍の量の課題をやります」とか、「一週間テレビを我慢します」などと言うのです。う~ん、それもちょっと違います。

 

 

「誓い」というのは、「やらなかったときのペナルティー」ではなくて、必ずやり遂げるために、心に「重し」を作ることです。

「やらないかもしれない」ことを「前提」にしてはだめなのです。

 

「誓い」を立てるときには、それが自分にとって大きな「負荷」となるようなものでなければなりません。どれほど「過酷」なものであっても、必ずやり遂げるのだから、問題ありません。その「誓い」が「過酷」であればあるほど、その「誓い」は本物なのです。

 

 

ただし、注意しなければならないことがあります。達成するのに、自分の「意志」以外の要因が存在するものに対しては、「誓い」を立ててはいけません。

「必ず1位になる」というような「誓い」を立てるのは間違っています。

「誓い」は、自分の意志で決めたことをやり遂げるために立てるのです。

 

 

 

あらためて出された課題は、テキスト3ページ分の問題をやってくることです。

 

「これだけ言って、次回やって来ないことなんて、天地がひっくり返ってもありえない。君たちは、今日、家に帰ってすぐにでも課題を終わらせるだろう。もう、必ず、100パーセント、なにがあっても、石にかじりついてでも課題をやってくることは間違いないのだから、どどーんと大きく、『誓い』を立てよう。」

 

 

すると、「もし、次回課題をやって来なかったら、スマホを取り上げてもらう!」とか、「今後毎週10ページ宿題をする!」といった「誓い」が述べられました。

 

うーん、なんだかまだ、ちょっとしっくりこないけど。

 

 

 

そんな中、ある生徒が、緊張した面持ちで、自らの「誓い」を立ててくれました。

 

 

「もし、次回課題をやって来なかったら、今後、塾で水を飲まない!」

 

 

「? !」

 

 

一瞬、何のことだかわからなかったので、よくよく聞いてみました。

彼は、塾の給水器で水を飲むのが大好きなのです。

 

もし、次回自分が課題をやって来なかったら、今後「塾での一番の楽しみ」を我慢するのだという「誓い」を立てたのです。

 

 

私はあわてて、

「いやいや、それはだめだ、水はしっかり飲みなさい。別の『誓い』を立てなさい。」

といいました。

 

 

塾生のみなさんは、思う存分、水を飲んでください。

 

 

 

ふと、思い直してみると、昔は「水を飲む」ということが悪でした。

運動部の部活動では、水を我慢して練習するのが「常識」でした。学校の体育の時間でさえ、水は戒められました。

 

今から思えば本当にばかげた「因習」ですが、大真面目に、水を飲むと運動のパフォーマンスが低下すると考えられていました。

 

数世代前のスポーツの世界には、「渇きとの闘い」がありました。

 

「水の禁制」は、日本のスポーツの歴史に大きな影を落としています。

その発想がどこからきたのか、その有力な説のひとつを読んだことがあります。

それは、「軍隊」の行動様式がスポーツ指導理論に移植されたのではないかというものでした。

 

非科学的な、間違った指導理論が横行していた時代です。

異常な観念に基づいた訓戒によって、一体どれほどのスポーツ選手が、その才能を散らしていったことでしょう。

 

 

 

20世紀末ごろからスポーツの「枠組み」が大きく変わってきました。

レクリエーション、アクティビティとしての個人のスポーツ活動や、プロスポーツ興行が社会・経済・文化的に大きな意味を持ちはじめました。

その結果、産業・学問の領域で急速に研究が進みました。

いまやスポーツは、「単なる運動」ではなく、科学的、理論的、効率的に「組織化」されるべき対象です。

 

日本人にとって、20世紀のスポーツと21世紀のスポーツは、ほとんど別の概念であるといっても過言ではないと思います。

 

 

現代に、「水を飲むな」と叫ぶスポーツ指導者はいません。

むしろスポーツ中に水分を補給することは、欠くべからざる「常識」です。

 

 

全く科学的根拠のない「迷信」は、完全に否定されました。

 

 

 

しかし、ふと、現代でも、「水の禁制」のような「迷信」が存在するのではないのだろうか、と思いあたりました。

 

受験の世界にも科学性が欠如した「因習」が存在します。

 

そのひとつは、「天声人語の要約」です。

 

 

そのことは、以前にもこのブログに書いたことがあります。

そのときは、少し婉曲的に書きましたが、今回は明瞭に書くことにします。

 

 

 

一体どういう思考経路によって、そのような勉強方法が成立するのか。

 

一部の塾講師や受験指導者のあいだで、いまだに作文や記述対策として、「天声人語の要約」が有効だと言われていますが、それが、古い「因習」にとらわれたものであると考えればよくわかります。

 

 

「天声人語の要約」は、非常に古い時代の受験勉強のやり方が踏襲されてきたものなのでしょう。おそらく、1950年代とか、それくらいの時代で、参考書や問題集も満足に手に入らないころに、新聞のコラムを受験勉強に援用したのが始まりだったのだと思います。

 

今の時代、作文や記述の教材が「天声人語」である「必然性」はほぼゼロに近いといえます。

他に、もっと効果的でよりふさわしい文章を手に入れることができます。

 

 

 

「天声人語」は、入試によく出題される、と喧伝されています。

私は、それは「眉唾」だと思っています。調べても見つかりません。

 

だいたい、「新聞のコラム」の文量で、まともな入試問題が作れるのでしょうか。

もし「天声人語」を「課題文」として作成された入試問題があるのだとしたら、それは「特殊」な問題です。出題される可能性がほとんどない「特殊」な出題に対応するために「天声人語の要約」を延々と練習するのは、それこそ「特殊」な勉強です。

 

また、「新聞のコラム」は「特殊」な文体で書かれます。読解や要約の練習をするにしても一般的な評論や論説文を用いたほうがよいと、私は思います。

 

そして、「新聞のコラム」はかなり「センシティブ」な内容を取り上げることがあります。

もちろん、新聞記者が、政治や社会の問題に切り込み、議論を喚起しようとするのは、ある意味で当然のことです。

しかし、これは「受験」の話です。まともな学校は、「センシティブ」な内容の文章を入試問題に使わないと思います。そんな文章を読んで要約するのは、時間の無駄です。

 

どうしても「要約」をやりたいのであれば、そういった主題のコラムを除いて、一般性のある内容のコラムを選りすぐったほうがよいでしょう。

それでも、ちょっと考えれば思いつきますが、その労力を使って、一般的な評論や論説文を探したほうが建設的です。どこにでもある平凡な国語の問題集を買えば、より適切な内容で適度な量の文章が手に入ります。

 

 

 

100パーセント、絶対に、「天声人語」が入試問題に出されることはない、とはいいません。

都立中や都外の公立中の適性検査などで、「天声人語」ではない別の新聞のコラムの文章を使った入試問題を見たことがあります。同じように「天声人語」を使った入試問題も存在するのでしょう。しかし、それは「特殊」な問題です。それを「基準」にして、「だから『天声人語』を要約しよう」などといっている人がいたら、ちょっと理解に苦しみます。

 

少しばかりどこかの学校の「過去問」を集めて確認してみれば、本当に「天声人語」が入試によく使われているのかどうか、すぐにわかります。また、ほんの少しだけ常識的な思考を働かせてみれば、まともな学校が「新聞のコラム」を入試問題に使うのかどうか、わかります。

 

 

それでも、世の中には、毎年あるいは頻繁に「天声人語の要約」を入試問題に採用している学校があるのかもしれません。そんな「特殊」な学校を受験する予定の人は、「天声人語の要約」の練習をすることが最も重要な入試対策となるでしょう。

しかし、自分の受ける学校が「天声人語」を出題しないのだとしたら、「天声人語の要約」は、「的外れな行動」になると思います。

 

 

 

「天声人語」を売りたい人、「天声人語」を読ませたい人。

そして、何も考えずに、ただ「昔からそういう勉強方法がある」というだけのことで、「因習」を引き継ぐ人。

 

そういった人たちによって、21世紀になっても「渇き」を我慢させられている子供たちがいるのかもしれません。

 

 

 

この塾では、思う存分、「水」を飲むことができます。

 

 

(ivy 松村)

 

新聞コラムの要約に、意味はあるのか?

高校受験のとき、ある教師に、ある新聞のコラムを要約すると効果がある、と言われました。

それで、1、2度やってみたのですが、ばかばかしくて、すぐにやめてしまいました。

 

受験にとって、ほとんど意味がない、とすぐに気づいたからです。

その教師は、私の受験のことを慮って「アドバイス」してくれた わけではなかったのだと思いました。

 

 

中学受験、高校受験、大学受験、いずれの受験にとっても、新聞のコラムの要約は、限りなく無意味に近い行為です。

 

 

新聞のコラムがよくない文章であるという意味ではありません。

入試に出る可能性が低いので、「入試のため」に読む必要はないということです。

 

わが国には多くの優れた作家、文学者、評論家、随筆家、研究者、ジャーナリストの文章が存在しています。それなのに、わざわざ新聞のコラムが入試問題に選ばれるとすれば、それはかなり「特殊」なことです。実際に、その数は、世間の印象に反して、ごく微少であるはずです。

 

 

都立中学校の入試には作文があるので、新聞のコラムを要約させるという「受検指導」をしている講師もいるのだろうと思います。過去の適性検査(作文)の問題に、新聞のコラムが使われたことがありました。まあ、そういうこともあるのですが、だからといって、「新聞のコラムが受験に有効」というのは、ちょっと微妙です。

 

 

基本的に、入試に、「政治的」な内容の文章が用いられることはありません。新聞のコラムは、多くのものが、その新聞の「編集方針」や筆者の「政治的な立場」があらわれる文章となっています。そのようなタイプの文章は、何よりもまず、入試にふさわしくありません。

 

新聞のコラムの中から「ニュートラル」なものを選別して使うこともできるとは思いますが、そうするのだったら、より入試問題との親和性の高い文章を探してきたほうが生産的だと思います。

都立中入試の出題方針やその意図、傾向を考慮すると、新聞のコラムの中から「要約」の素材を探すよりも、要約にふさわしい文章を探すほうが簡単な気がします。

 

 

また、小学生に受験勉強として新聞のコラムを要約させることには、「技術的」な問題が生じます。

 

新聞のコラムは、主題がはっきりしない内容のものが少なくありません。その内容も、皮肉や風刺、遠回しの批判などが多くあります。

また、その文章には、「コラム節」とも呼ぶべきほどの独特の言葉づかいやレトリックがみられます。

筆者の主張やメッセージが「行間」にあらわれるような文体のものが多く、それを読み取るのにも、社会通念や知識が必要な場合が多いのです。

 

「要旨」があらわれていない文章を要約するには、突き抜けた文章力が必要になります。

 

まあ、このように、新聞のコラムの「要約」は、非常に高度な作業となってしまうので、小学生が「練習」として行うものとして適切であるとは思えません。もっといえば、きちんと添削ができる人はなかなかいないと思います。

どうしてこのようなものが推奨されているのか、ちょっと「謎」です。

 

 

たとえば、池内了さん、池上彰さん、池田晶子さん・・・など、小中学生に向けて文章を書いている作家の文章を使った方が、より建設的な要約の練習になると思います。

 

 

 

私立中学受験では、時事問題を網羅しておく必要がありますが、通常、塾では、そのための対策問題集などに取り組みます。または、直接ニュースに接する習慣をつけるように指導するでしょう。

システマチックな指導法が確立している私立中入試で、場当たり的な作業をやらせる講師はあまりいないのではないかと思います。

 

 

高校受験、大学受験では、新聞のコラムは「文量」が少なすぎるので、文章題として入試に使われることはなさそうです。(小論文等の「資料」などとして用いられることはあるかもしれません。)

新聞のコラムが入試に使用される場合には、あまり一般的ではない形式の問題になるでしょう。

 

高校受験や大学受験では、そもそも、文章全体を要約させるような入試問題を出す学校はきわめて少数です。

 

まして、新聞のコラムを要約することは、99パーセント以上のほとんどの受験生にとっては、直接入試対策になり得ません。

同じ時間と労力をかけて「勉強」するなら、実際に出題された入試問題を解く方が、得点力の向上につながります。

 

自分の受ける学校の入試で、歴史上ただの一度も使われたこともないタイプの文章を使って、ただの一度も出題されたことのない形式の「受験勉強」をすることに、あまり意味があるとは思えません。

 

 

もしかすると、私が不勉強なだけで、全国のどこかの地域のどこかの学校の何かの入試に、新聞のコラムが使われ続けているのかもしれません。

しかし、たとえそうであってもそうでなくても、それは、あまり重要ではないのです。

 

この地域の生徒が受験をする学校の入試問題に、新聞のコラムが使われる可能性は、ほとんどないのですから。

 

 

万が一、新聞のコラムが出題されることがあるかもしれませんが、それがまっとうな入試問題なのであれば、正当な受験勉強をしてきた生徒は対応できるわけですから、なにも普段から、「出題されたときに困らないように」新聞のコラムを読む必要などないわけです。

 

 

 

普通の中学・高校・大学は、自校に入ってもらいたい人物を評価するのに、「学力を判定するのにふさわしい文章」を選択すると思います。

もちろん、素晴らしい新聞のコラムも存在するはずですから、新聞のコラムが入試に出題されることもあるでしょう。

しかし、それはむしろ稀なことなのですから、新聞のコラムが受験に効果がある、という風評は、実際には「あべこべ」なのではないかと思えるのです。

 

 

 

念のために重ねて述べますが、新聞コラムの文章が駄文であるということをいいたいわけではありません。私が述べているのは、新聞のコラムの多くは入試問題として適当ではないので、入試問題に採用されることが少ないうえ、それを「要約」する練習も「受験勉強」としての意味は薄いのではないか、ということです。

 

趣味や勉強の「息抜き」として新聞のコラムの「要約」をするというのであれば止めはしませんが、「受験勉強」としては、あまりおすすめしません。

作文の練習にしても、記述の練習にしても、それこそ要約の練習をするにしても、新聞のコラムではない文章の方がいいと思います。

 

 

 

ところで、話はまったく変わるのですが、今日の中3の英語の演習で扱った問題集に、こんな和訳問題が出ていました。

 

“Girls have never given me chocolate on Valentine’s Day.”

 

遊び心で作った問題なのでしょう。

冠詞を排した文であるところにもセンスが感じられます。

 

 

バレンタインデーといえば、女の子が男の子にチョコレートを贈る一種の「年中行事」として、日本に定着しています。

しかし、この日の贈り物がチョコレートに限定されたのは、比較的最近のことです。

製菓会社が、チョコレートをたくさん売るために、バレンタインデーの贈り物の定番はチョコレートである、という宣伝をしたことから広まったのだといわれています。

 

 

「資本主義」を根幹とする現代社会では、あらゆるものごとが「ものを売る」きっかけとなります。

企業や事業者は、めざとくビジネスチャンスをうかがいます。

 

 

 

「ある新聞のコラム」は、多くの入試で出題に使われた実績がある、と喧伝されています。

 

その「ある新聞」が〇〇大学の入試に出題された、という広告が目につきました。

これは、ミスリードを誘う常套手段かもしれません。「コラムが」と書いていないわけです。

具体的な情報が一切掲載されていません。

その「ある新聞」の記事と「同内容」の文章が入試に使われただけなのかもしれません。

 

新聞を売るための「ビジネス戦略」なのでしょう。

 

 

 

バレンタインデーは、確かに、商売上の目論見を契機として世間に定着したものです。

しかし、この日にチョコレートを贈るという習慣は、企業の「戦略」をもおりこんだうえで、いまや、広く世間に浸透し、認知されています。

人々の心をとらえるだけの趣や情緒があるのでしょう。

 

そこには、愛情という普遍的な価値にまつわる願いが込められています。

 

 

同じように、「受験」にも普遍的な価値が宿るものだと、私は信じています。

 

さて、はたして、新聞のコラムも、「資本主義」を超えて、人々の心をとらえるものと、なり得るのでしょうか。

 

 (ivy 松村)