eine Nachricht

早稲田の系属校に合格した生徒が、「メッセージ」を書いてくれました。

 

 

 

 

 私はこの一年間、受験に向かってたくさん勉強をしてきました。夏休みまでに三年生の内容を終わらせて、そこからは志望校の過去問や総合問題を解き進めていきました。

 

 勉強をしている中で苦しいと思うことがたくさんありました。例えば、過去問演習で良い点数が取れなかったときなどです。しかし、私は、自分はレベルアアップし続けている、これを乗り越えれば合格に近づくと信じ、また、高校生活を楽しんでいる自分を想像したりしながら取り組みました。そんな中で、初めて合格点に届いたときは、とても大きな喜びを感じました。

 

 私は自分の受験勉強を振り返り、良かった点と反省すべき点を考えました。全体を通して、最後まで生活のリズムを崩さずに過ごせたことや得意科目を大きく伸ばせたことが合格につながったと思います。一方、もっと早くふり返り学習を習慣化するべきだったと感じます。ふり返り学習をするのとしないのでは、知識の吸収率が違うということを身に染みて感じました。

 

 私は、この一年で、目標に向けて最善の選択を、たとえそれが苦しいことであってもできるようになったと思います。また、計画を立てて物事を進めていくこと、一つのものを多方面から見ることができるようになったと思います。このような力は、今後も必要なものだと考えています。

 

 私は、困難を乗り越えて受験を終える喜びを得ることができました。受験を終えた私が、受験において大切だと思うことは五つあります。一つ目は、自分のやることの優先順位を、やりたいことからではなくやらなければならない順にすること。二つ目は、一度やったことを完璧にすること。三つ目は、満足しないこと。四つ目は、協力してくれる人を積極的に使うこと。五つ目は適度な休息をとることです。これができれば、合格に大きく近づくと思います。受験は我慢勝負です。最後まで諦めず、合格をつかみ取ってください。

 

「Enjoy the pain if it’s inevitable !!」

 

 

 

 

 

「見習うこと」が多いですね。

 

(ivy 松村)

 

‟Mission:Possible”

生徒が「どれくらい本気で勉強に取り組んでいるか」を測る「物差し」がいくつかあって、そのひとつは、目標設定の際の反応です。

 

 

期末試験が近づいてきて、生徒と面談をしながら、目標点を決めています。

 

中3の生徒たちには、「志望校を受験するのに必要な内申がどのくらいなのか」を伝えています。

 

 

中2の3学期の内申を「目安」として、全体で「いくつ上げるのか」を導きます。

それから、具体的に「どの教科を上げるのか」を決めます。

 

もちろん、中間試験があった中学の生徒は、その結果を勘案します。

 

 

たとえば、都立高校を第一志望にしている生徒が、その志望校の「都立の換算内申の基準」にあと「5」足りない場合。

 

5科を「+1」、実技4科を「+2」にすれば、「基準」に届きます。

 

そこから、社会を「3→4」、美術を「4→5」、音楽を「3→4」にする、というように、具体的に「ターゲット」を定めます。

 

そうすると、社会を「4」にするために確保しなければならない点数が浮かび上がってきます。

 

それを試験勉強の「配分」に落とし込んで学習計画を立てるわけです。

 

 

 

1学期の中間試験の社会の点数が65点だったとします。

その点数が、成績評価の「どの位置づけ」になるのかは、全体の平均点や、担当教師の評価基準によって変わります。

 

しかし、一般的には「65点」という点数は、「4」に相応する点数であるとはいえません。

 

したがって、期末試験では挽回しなければなりません。

「90点」を「ノルマ」にしようという話になるわけです。

 

さらに、非常にありふれた「策」のひとつですが、「90点」を取るために、「95点」を目標にしようという話になるわけです。

「90点」を目標にしてしまうと、往々にして「90点を取るための勉強量」となってしまいます。ほんの少しのミスが出でたり、対策の不備があったりすれば、目標点に届かなくなります。

そのため、確実に「90点」を得るべく、「ハードル」を一段上げようという「心理的な戦略」がとられるわけです。

 

 

 

このように、試験の目標点は「逆算」によって算出されるべきものなのです。

 

 

ところが、多くの生徒は、「自分の学力」を基準にして目標点を設定します。

 

「自分は社会が苦手だから、80点取れれば、頑張ったほうだ」というように。

 

 

 

もうすこし正確にいえば、「自分の学力」というよりも、「どれだけ勉強してもいいか」という「譲歩の気持ち」が目標点を決める大きな要因となっています。

 

つまり、「80点を取るぐらいまでなら、頑張ってもいい」というメンタリティが、「80点」という目標点をはじき出すわけです。

 

必死で努力すれば「90点」を取れると理解していても、そのための努力が嫌なので、妥協して「80点」を目標とするわけです。

 

 

 

「そんなの、無理。」

 

 

いや、まったくその通りです。無理なんですよ。

 

目指さないのだから、無理に決まっています。

 

 

ただ、それなりに「努力したような雰囲気」にひたって、自分をあざむくための「言い訳」が成り立つ程度に勉強して、最終的に「行ける高校」に行けばいいという「本心」を隠している人にとっては、「本気の話」は迷惑なものなのでしょう。

 

「無理やり押し付けられた目標点」に不満が募ります。

 

 

まだ、勉強を、「させられるもの」だと思っているわけです。

 

 

目標点は、「自分を追いつめるもの」だと思っているわけです。

 

 

ちょっと勘違いしています。

 

 

 

これは、行きたいという高校に、どうすれば行けるのか、という話にすぎません。

 

 

 

さて、一方で、あまりにも自然なことですが、「本気の生徒」は、自分に必要な点数を目指します。

 

根拠を示して、「95点」を目標点としなければならない、と説明すれば、納得し、チャレンジしようと思うわけです。

 

 

 

無理。

 

 

目標点を取ることのみに専念しようとしている人にとっては、無意味なことばです。

 

 

(ivy 松村)

 

 

There we go.

本日、都立高校の合格発表がありました。

 

以前、教えていた生徒も、結果の報告に来てくれました。

 

(推薦入試の後、報告に来てくれた生徒もいました。ありがとうございました。)

 

 

これで、平成29年度のすべての受験の日程を終えました。

 

 

 

今年卒業の学年は、今日までにいろいろなことがありすぎて、何か書こうとしてもなかなか考えがまとまりません。

 

 

 

1月の段階で進学先が決まった生徒が多かったのですが、合格の知らせを聞いて、もちろん喜びが湧きあがってくるのですが、すぐに「次の受験」に頭が切り替わってしまいます。

まだ、「先」が残っている人が「優先」になってしまうのです。

 

がんばって一足早く受験を終えた人ほど、「自分任せ」にしてしまいました。

 

でも、わかってもらえると思うのですが、これから「本番」をひかえた人を放っておいて、受かった人と楽しそうにわいわいやっているような無神経の塾講師がいたら、それこそ、ぞっとするはずです。

 

 

 

入塾の際、勉強は大嫌いなので、できれば塾には入りたくない、でも、しょうがないので塾に入ろうと思うが、できるだけ勉強したくない、と言っていた生徒。

あきれて、絶句しました。

でも、その「図太さ」に、何かある、と感じさせられたのも事実でした。

 

最後は、人一倍勉強していました。

周りに流されず、黙々と、当たり前のように勉強を続けました。

 

 

 

教師やまわりの友人を軽んじて、自信家で、損得意識が強かった生徒。

一度、おまえ、その性格直さないと先がないぞ、と言ってブチ切れました。

 

実は繊細で、心配性で、そして、ノリがいい。

少しずつ自分の「美点」を表現できるようになり、本当に「強い」人間に成長した。

 

思いやりと我慢を覚え、真っすぐに、前を見つめて奮闘する日々でした。

 

 

 

平日は5時間、土日は10時間以上毎日毎日勉強。

 

 

 

私は、他の生徒たちが帰った後、整序や適語補充に挑み続けた、あの時間をこれからもずっと、忘れることはないでしょう。

 

 

 

前にも言ったけれど、きみたちは、私にとって、真実、特別な存在です。

 

 

能力を有したものが能力を発揮するのに、どれほどの覚悟がいるというのだろうか。

 

「そういうこと」ではないのです。

 

 

これほどに努力の価値を示した挑戦者を、私は、見たことがないのです。

 

 

 

しかし、私は、あのとき、あとほんの少し、もう少しだけ、「可能性」を引き出さなければならないと感じてしまったのです。「ぎりぎりの状態」から絞り出される必死の「もがき」が、「最後の力」になるのだと。

 

 

今の思いが、伝わってくれているのなら、うれしいです。

 

 

 

全員の進むべき道が定まりました。

 

 

受験を終えたみなさんが、これから、充実した高校生活をおくられることを、心より祈念申し上げます。

 

 

(ivy 松村)

 

 

The Teacher in the Lie

明日、11月3日は、休校日です。

 

先日からお伝えしてあるとおり、11月4日(金)は、中2の英語の補講を行います。

定期テストに合わせて進度を調整するためです。よろしくお願いします。

また、11月5日(土)は、小6特訓コースと中学部の月例テスト実施日となっています。

忘れないようにお願いします。

 

 

期末試験勉強がはかどっていない人は、休日を利用して進めておきましょう。

 

11月7日に、提出物チェックを行います。

 

それまでに、提出物を終わらせておきましょう。

 

 

 

中3生たちは、現在、とてもいい雰囲気で受験勉強に取り組めていると思います。

過去問演習を行いながら、日々、英検の二次試験対策や小テストをこなしています。

また、ある生徒たちは、必死にくらいついて期末テストに向けて格闘しています。

小6特訓コースの受験生も、真面目にコツコツと努力を積み重ね、力を蓄えてきました。頑張りの成果が実りつつあります。

 

今はいい流れで勉強できていますが、これから、すこしずつ精神的な負荷が大きくなる時期でもあります。

 

多分、杞憂になるのは間違いないのですが、念のため、気を付けてほしいことを書いておこうと思います。それは、これまでにも何度か君たちに直接伝えたことでもあります。

 

 

 

私は、毎年、受験生たちに、絶対にうそをつかないように、ごまかしをしないように、と口を酸っぱくして言います。

 

うそをつく生徒は、例外なく受験に失敗するからです。

 

 

「等身大の自分」を受け入れられない人間は、能力を拡張することができません。

合理的、科学的な思考力を高めることが不可能になるからです。

 

また、利己的な満足や体面を保つために現実を歪めてしまう人間は、精神的に成長することができません。「品性」や「気高さ」を欠く人間は、常に愚かな「判断」へと傾きます。

 

うそは、「個人」の発達を妨げます。

 

 

さらに、大きな「阻害要因」があります。

 

それは、うそは、「孤立」をもたらすということです。

 

当人はうそが見破られていないと思っているけれど、相手はうそであると気付いているという痛々しい状況に、人は、しばし向き合わなければならなくなります。

 

寛大に、その状況を受け入れてくれる人もいるのかもしれません。しかし、多くの場合、うそをついた人間は信頼を失うことになります。

 

たとえば、ある生徒がうそをついて、ある学校の先生をうんざりさせてしまったとしたら、その先生はその生徒に失望するかもしれません。

 

その先生を責める人はいないでしょう。人間はだれしも、誠実に努力する者の力になりたいと願うはずです。

 

同じように、友人にうそをついて、自慢したりからかったりすれば、やはり愛想をつかされて、相手にされなくなるでしょう。

 

 

周りの人たちに支えられることで、人は、持てる以上の力を発揮することができます。

うそをつく人間は、そのような美しい経験を得る機会を手放すことになるのです。

 

 

 

私は、だらしない生徒に厳しい注意をすることがあります。

しかし、どうしようもないうそをついた生徒に対しては、厳しい注意をしないようにしています。

 

うそをつくような弱い人間は、面目を失うと、完全に潰れてしまうからです。

まだ、うそに気づかないふりをして対処する方が「まし」なのです。

 

 

それでも、うそをつく生徒は、例外なく受験に失敗します。

 

 

 

今、私は、君たちに厳しい言葉を放つ心の準備ができています。同時に、それをいう機会がありません。君たちがまっすぐに成長してくれたからです。

 

「だれか」に忠告しようと思ってこの文章を書いているわけではありません。

今の君たちを、素晴らしく、誇らしく思います。今の真剣さを大切にしてもらいたいと思うからこそ、書いておきたかったのです。

 

 

これから受験までの数十日余りの間に、いくつものつらい局面が訪れるはずです。

その日々を、正直に、謙虚に、真面目に乗り越えていってください。

 

 

その先に見えるものを、いっしょに目指しましょう。

 

 

(ivy 松村)

 

 

「誓いの水」と、「因習」と

この塾には給水器が置いてあって、夏の暑い日などに紙コップに冷たい水をなみなみと注いでゴクゴクと飲み干すと、生き返ったように爽快な気分になります。

 

 

最近はずいぶん涼しくなってきて、そのおかげで、温かいコーヒーやお茶がおいしくなってきました。給水器は給湯機能も付いていて、温かい飲み物を楽しむことができるのです。

また、カップラーメンを食べることもできます。ミネラルウォーターで作るカップラーメンは、ちょっとしたぜいたく品です。

 

 

生徒たちはみなこの「水」が大好きで、休憩時間などにはわいわいと教室から出てきて、「お水で一息」入れています。

ときに給湯器の周りは、あたかも「社交場」のようになり、おしゃべりや息抜きをする生徒たちであふれかえることもあります。

 

 

 

夏期講習に入る前だったので、7月頃だったと思うのですが、あるクラスの全員が課題をやって来なかったことがありました。私もさすがに怒って、クラス全員に「説教」をしました。

 

それで、一人ひとりに「誓い」を立ててもらったのです。

今度課題をやって来なかったら、どうするのだ、と。

 

 

私は、「誓い」を立てるという行為をけっこう気に入っていて、たまに自分でも「誓い」を立てることがあります。

必ず自分で決意した行動をやり切るのだと、心に刻むのです。

 

 

すると、生徒たちは、「居残り勉強をします」とか「反省文を書きます」などと言うのです。いやいや、「誓い」というものは、そういうものじゃないよ、といいました。

 

少し考えて、今度は、「倍の量の課題をやります」とか、「一週間テレビを我慢します」などと言うのです。う~ん、それもちょっと違います。

 

 

「誓い」というのは、「やらなかったときのペナルティー」ではなくて、必ずやり遂げるために、心に「重し」を作ることです。

「やらないかもしれない」ことを「前提」にしてはだめなのです。

 

「誓い」を立てるときには、それが自分にとって大きな「負荷」となるようなものでなければなりません。どれほど「過酷」なものであっても、必ずやり遂げるのだから、問題ありません。その「誓い」が「過酷」であればあるほど、その「誓い」は本物なのです。

 

 

ただし、注意しなければならないことがあります。達成するのに、自分の「意志」以外の要因が存在するものに対しては、「誓い」を立ててはいけません。

「必ず1位になる」というような「誓い」を立てるのは間違っています。

「誓い」は、自分の意志で決めたことをやり遂げるために立てるのです。

 

 

 

あらためて出された課題は、テキスト3ページ分の問題をやってくることです。

 

「これだけ言って、次回やって来ないことなんて、天地がひっくり返ってもありえない。君たちは、今日、家に帰ってすぐにでも課題を終わらせるだろう。もう、必ず、100パーセント、なにがあっても、石にかじりついてでも課題をやってくることは間違いないのだから、どどーんと大きく、『誓い』を立てよう。」

 

 

すると、「もし、次回課題をやって来なかったら、スマホを取り上げてもらう!」とか、「今後毎週10ページ宿題をする!」といった「誓い」が述べられました。

 

うーん、なんだかまだ、ちょっとしっくりこないけど。

 

 

 

そんな中、ある生徒が、緊張した面持ちで、自らの「誓い」を立ててくれました。

 

 

「もし、次回課題をやって来なかったら、今後、塾で水を飲まない!」

 

 

「? !」

 

 

一瞬、何のことだかわからなかったので、よくよく聞いてみました。

彼は、塾の給水器で水を飲むのが大好きなのです。

 

もし、次回自分が課題をやって来なかったら、今後「塾での一番の楽しみ」を我慢するのだという「誓い」を立てたのです。

 

 

私はあわてて、

「いやいや、それはだめだ、水はしっかり飲みなさい。別の『誓い』を立てなさい。」

といいました。

 

 

塾生のみなさんは、思う存分、水を飲んでください。

 

 

 

ふと、思い直してみると、昔は「水を飲む」ということが悪でした。

運動部の部活動では、水を我慢して練習するのが「常識」でした。学校の体育の時間でさえ、水は戒められました。

 

今から思えば本当にばかげた「因習」ですが、大真面目に、水を飲むと運動のパフォーマンスが低下すると考えられていました。

 

数世代前のスポーツの世界には、「渇きとの闘い」がありました。

 

「水の禁制」は、日本のスポーツの歴史に大きな影を落としています。

その発想がどこからきたのか、その有力な説のひとつを読んだことがあります。

それは、「軍隊」の行動様式がスポーツ指導理論に移植されたのではないかというものでした。

 

非科学的な、間違った指導理論が横行していた時代です。

異常な観念に基づいた訓戒によって、一体どれほどのスポーツ選手が、その才能を散らしていったことでしょう。

 

 

 

20世紀末ごろからスポーツの「枠組み」が大きく変わってきました。

レクリエーション、アクティビティとしての個人のスポーツ活動や、プロスポーツ興行が社会・経済・文化的に大きな意味を持ちはじめました。

その結果、産業・学問の領域で急速に研究が進みました。

いまやスポーツは、「単なる運動」ではなく、科学的、理論的、効率的に「組織化」されるべき対象です。

 

日本人にとって、20世紀のスポーツと21世紀のスポーツは、ほとんど別の概念であるといっても過言ではないと思います。

 

 

現代に、「水を飲むな」と叫ぶスポーツ指導者はいません。

むしろスポーツ中に水分を補給することは、欠くべからざる「常識」です。

 

 

全く科学的根拠のない「迷信」は、完全に否定されました。

 

 

 

しかし、ふと、現代でも、「水の禁制」のような「迷信」が存在するのではないのだろうか、と思いあたりました。

 

受験の世界にも科学性が欠如した「因習」が存在します。

 

そのひとつは、「天声人語の要約」です。

 

 

そのことは、以前にもこのブログに書いたことがあります。

そのときは、少し婉曲的に書きましたが、今回は明瞭に書くことにします。

 

 

 

一体どういう思考経路によって、そのような勉強方法が成立するのか。

 

一部の塾講師や受験指導者のあいだで、いまだに作文や記述対策として、「天声人語の要約」が有効だと言われていますが、それが、古い「因習」にとらわれたものであると考えればよくわかります。

 

 

「天声人語の要約」は、非常に古い時代の受験勉強のやり方が踏襲されてきたものなのでしょう。おそらく、1950年代とか、それくらいの時代で、参考書や問題集も満足に手に入らないころに、新聞のコラムを受験勉強に援用したのが始まりだったのだと思います。

 

今の時代、作文や記述の教材が「天声人語」である「必然性」はほぼゼロに近いといえます。

他に、もっと効果的でよりふさわしい文章を手に入れることができます。

 

 

 

「天声人語」は、入試によく出題される、と喧伝されています。

私は、それは「眉唾」だと思っています。調べても見つかりません。

 

だいたい、「新聞のコラム」の文量で、まともな入試問題が作れるのでしょうか。

もし「天声人語」を「課題文」として作成された入試問題があるのだとしたら、それは「特殊」な問題です。出題される可能性がほとんどない「特殊」な出題に対応するために「天声人語の要約」を延々と練習するのは、それこそ「特殊」な勉強です。

 

また、「新聞のコラム」は「特殊」な文体で書かれます。読解や要約の練習をするにしても一般的な評論や論説文を用いたほうがよいと、私は思います。

 

そして、「新聞のコラム」はかなり「センシティブ」な内容を取り上げることがあります。

もちろん、新聞記者が、政治や社会の問題に切り込み、議論を喚起しようとするのは、ある意味で当然のことです。

しかし、これは「受験」の話です。まともな学校は、「センシティブ」な内容の文章を入試問題に使わないと思います。そんな文章を読んで要約するのは、時間の無駄です。

 

どうしても「要約」をやりたいのであれば、そういった主題のコラムを除いて、一般性のある内容のコラムを選りすぐったほうがよいでしょう。

それでも、ちょっと考えれば思いつきますが、その労力を使って、一般的な評論や論説文を探したほうが建設的です。どこにでもある平凡な国語の問題集を買えば、より適切な内容で適度な量の文章が手に入ります。

 

 

 

100パーセント、絶対に、「天声人語」が入試問題に出されることはない、とはいいません。

都立中や都外の公立中の適性検査などで、「天声人語」ではない別の新聞のコラムの文章を使った入試問題を見たことがあります。同じように「天声人語」を使った入試問題も存在するのでしょう。しかし、それは「特殊」な問題です。それを「基準」にして、「だから『天声人語』を要約しよう」などといっている人がいたら、ちょっと理解に苦しみます。

 

少しばかりどこかの学校の「過去問」を集めて確認してみれば、本当に「天声人語」が入試によく使われているのかどうか、すぐにわかります。また、ほんの少しだけ常識的な思考を働かせてみれば、まともな学校が「新聞のコラム」を入試問題に使うのかどうか、わかります。

 

 

それでも、世の中には、毎年あるいは頻繁に「天声人語の要約」を入試問題に採用している学校があるのかもしれません。そんな「特殊」な学校を受験する予定の人は、「天声人語の要約」の練習をすることが最も重要な入試対策となるでしょう。

しかし、自分の受ける学校が「天声人語」を出題しないのだとしたら、「天声人語の要約」は、「的外れな行動」になると思います。

 

 

 

「天声人語」を売りたい人、「天声人語」を読ませたい人。

そして、何も考えずに、ただ「昔からそういう勉強方法がある」というだけのことで、「因習」を引き継ぐ人。

 

そういった人たちによって、21世紀になっても「渇き」を我慢させられている子供たちがいるのかもしれません。

 

 

 

この塾では、思う存分、「水」を飲むことができます。

 

 

(ivy 松村)

 

「もう、受験しかない。」

代ゼミに、荻野暢也先生という「超人気有名講師」がいます。

 

荻野先生がインタビューの中で、受験に必要なものは「知能」と「性格」であるとおっしっていました。

 

「両方ない人は無理。(受験に)向かない。どっちかがないと、だめ。」

 

 

「真理」だと思いました。

 

 

ある塾の先生は、受験生には「素直さ」が大切であるとおっしゃっていました。また、別の先生は「共感力」の重要性を解いておられました。

 

結局「同じこと」について話されているのだろうと思います。

 

 

 

受験向きの「性格」について考えてみると、それは、2つの「品性」に集約されると思います。

 

ひとつは、真面目に、愚直に、決め事を守り、コツコツと取り組む意志や心構え。地道な努力が「学力」を育みます。

 

もうひとつは、人を信じる、自分を信じる、嫉妬しない、愚痴を言わない、ズルをしない、言い訳をしない、というような「性根」や「気立て」の部分になるのだろうと思います。

 

 

私は、後者は結構重要な「要素」だと思っています。

大局的にみると、何事であっても、「力」の源泉となるのは「成熟した魂」ではないかという気がします。

 

 

 

数年前に、ある小6の生徒を教えました。

 

 

その生徒は、「自慢したがり」でした。何をしゃべるときにも、自慢を織り込まなければ気が済まない性格でした。

いつも不満そうな、つまらなそうな顔をしていて、褒められたときと自慢するときだけ嬉しそうにする子でした。

 

クラスの中で「孤立」していました。

 

そして、ひどい成績でした。

偏差値は30点台。志望校判定はいつも「D」でした。

 

 

 

あるときに、その生徒を呼んで話をしました。そして、落ち着いて勉強できるような家庭の状況ではないということを知りました。

 

したければ受験してもいい、でも、家族がバックアップしてあげられるような余裕はない・・・。

 

どうしたい?ときくと、受験したい、と彼女は答えました。

 

 

「私には、もう、受験しかないから。」

 

 

それから、彼女の受験がはじまりました。

毎日、夕方4時半から10時までずっと1人で勉強していました。

最初に塾に来て、最後に帰る生徒になりました。

誰とも話さず、ずっと1人で問題を解いていました。

 

 

そのころになって、私は、彼女のある「長所」が際立つようになっていることに気づきました。

マス目いっぱいにゆっくり、大きく、力強くバランスよく「描かれる」そのおおらかな字。「お」や「わ」という字にあらわれる大きな「カーブ」は、「芸術的」だとさえ思いました。

 

 

入試の日、私は、彼女が受験する中学の校門の前にいました。

他の受験生たちは、家族に連れられて緊張した面持ちで校門に吸い込まれていきました。

彼女は、やはりただ1人でやってきました。そして、私と握手をした後に、笑顔で「行ってきます!」といって、颯爽と校内に入って行きました。

 

 

合格発表の日、電話の向こうで、彼女は泣いていました。

 

 

彼女は、ただ1人で黙々と勉強をつづけました。

そして、入試の日にほほ笑み、合格した日に、心から泣くことができたのでした。

 

 

 

(ivy 松村)

 

 

期末試験に向けた生徒面談

現在、中学部の生徒と面談を行っています。

 

生徒面談は、1人に対して2~3回行います。

 

1回の面談では、目標や対策などを具体的につめるところまで話せないからです。

勉強や成績、進学といったものについて、ぼんやりとした「気分」しか持っていない生徒に対しては、少し話を「寝かせる」必要があります。

 

トピックについて頭の中で整理をする時間や、状況を理解する時間をあげることで、生徒たちから、主体的な発言や熟慮した意見を引き出せることもあります。

 

2回目以降に話をするときには、最初に話した時よりも「輪郭」をくっきりとさせて話すことができます。

 

 

生徒面談では、一人ひとり期末テストの「目標点」と「対策」を決めています。

 

 

「目標」というのは「行動の指針」です。「とりあえず、求められたから言っておくもの」ではありません。

 

「目標」は、自分を律する「力」になります。

 

「結果」から逃げたいと考える人にとっては、「目標」は「圧力」になるのでしょう。

一方、高みを目指して前進する決意を持つ人にとっては、「目標」は「原動力」となります。

 

 

他方、目標を持たない人間は、大海原を漂流する難破船のような存在です。

ただ、「どこでもいいどこか」に漂着することを願って、ひたすら「幸運」にすがるわけです。

 

その船の「エンジン」は、まだ、生きているのに。

 

「虚無の世界」をさまよっているのです。

 

 

「目標」を持たない人間は、意志を持った存在になることができません。

 

意志を持たないものは、努力することができません。そして、努力しないものは、成長することができないのです。

 

「目標」を持つことは大切です。

 

 

 

「目標を決める」ということは、ただ単に、「数値」や「到達点」を口にするということではありません。「目標」を持ったら、次に「対策」を講じます。

 

「目標」には、必ず「対策」がともなっていなければなりません。

 

 

「対策」というのは「目標」を達成するための「行動の中身」です。「対策」を立てることで、自分が、いつまでに、どのように、どれくらい、何をやるのか、が明確になります。

 

それをスケジュールや日程に落とし込んで「予定」を立てます。

 

 

定期テストの後で、「目標」が達成できていなければ「反省」をするわけですが、「反省」というのは、何が原因で「対策」が機能していなかったのか、を分析をすることです。

 

これについてはテスト後にまた、面談を行いますので、そこで話しましょう。

 

 

期末テスト前の面談は、明日明後日で終える予定です。

その内容をまとめたものを作成しています。

順次保護者の方にメールで報告差し上げますので、しばらくお待ちください。

 

 

 

さて、期末テストが近づいてきました。

 

今後、校舎を10時半まで開放しますので、しっかりと勉強をしたい人は利用してください。

 

期末テスト勉強のために、中学生には「実技教科まとめノート」と「定期テスト演習ノート」を渡しています。

6月16日(木)が第一回目のチェック日ですので、お忘れなく。

 

 

 

 (ivy 松村)

 

afterward

平成28年度の受験が、終了しました。

 

受験生全員の進学先が決まりました。

 

都立高校を受験する生徒がいないのは初めてのことなので、何か落ち着かない気分です。

 

 

本年度の中3は、「スポーツ校」への進学と、私立の付属高へのチャレンジを中心としたクラスでした。

 

 

この一年は、忘れがたいものになりました。

 

 

時には、強く注意しました。

容赦なく大量の課題をつきつけました。

 

 

ある生徒に、「自分は受け入れられるはずだ、という甘えを捨てなさい」と言ったことがあります。

自分でも、厳しい言葉だと思いました。

 

まっすぐに受け止め、自分を変えていこうとする実直な態度は、本当に立派でした。

 

力を出し切ることができた、と報告してくれるその顔には、すがすがしいまぶしさがありました。

 

 

 

有数の、私立付属校の合格を得ながら、「進学校」に進む決意をした生徒がいます。

 

その心に秘めた「覚悟」を思い、胸が、しめつけられました。

 

 

「全力」という言葉そのままに、持てる力の全てを注ぎ込んで、遥かな「高み」を目指しました。

 

この半年間の経験が、その「意志」を湧き上がらせたのだとしたら。

 

私は、自分がこの世に存在する意味を確信することができます。

 

 

 

「受験」の幕が下り、果たして、私たちの「緊密な日々」に終わりがおとずれます。

 

 

ひとりひとりが、進むべき道を定めました。

 

全員が、「目的」を持って高校に進みます。胸を張って進んでください。

 

 

 

ずっと応援しています。

 

 

 

(ivy 松村)

 

 

都立中受検、終了

都立中の受検が終わりました。

 

 

この1年、さまざまなことを乗り越えて、この「最後の章」にたどり着きました。

受験指導をする機会をいただけたこと、その場に立ち会えたことをうれしく思います。

 

 

作文の授業で、ずっと繰り返し伝えてきたのは「成長」ということの「意味」と「価値」についてでした。

 

今日という日が、自分をどれだけ成長させてくれたのか、いつか気づく日が来るでしょう。

 

この素晴らしい経験を後押ししてくださり、支えてくださったお家の方に、必ず、感謝の気持ちを伝えてください。

 

 

 

手ごたえを感じている問題もあれば、手がつかなかった問題もありました。

 

期待や不安、安堵や後悔、全部含めて「受検」です。

あとは6日後を待ちましょう。

 

 

おつかれさまでした。

 

 

(ivy 松村)

Pardon the expressions

今日は、埼玉県の私立高校の合格発表の日でした。

無事、合格でした。これで、「おさえ」が確定しました。

特に感慨にひたることもなく、今日のメニューをこなしました。

 

 

 

最近、「縁起の悪い言葉」を言わないように、生徒に話しています。

 

 

思わずペンを手から離してしまって、ペンが床にころがってしまったとき:

 

「ペンが、万有引力の法則によって床に接着するという現象が確認された」と言います。

 

あるいは:

 

「ペンが、我が手を離れ、母なる大地へと旅立とうとしている」と言います。

 

あるいは、また:

 

「ペンが、オーシーエイチアイティーエー!」と言います。

 

 

 

何十年も前から、神経過敏な受験生が、ちょっとした言葉に過剰に反応する「コント」や「ギャグ」が存在しました。

 

 

入試を控えた受験生が、不安な気持ちを抱えてしまうのは当然のことです。

それを抑え込もうとすることに神経や労力を使うのは、ちょっともったいない「エネルギー」の使いかたかもしれません。

 

そんなものは逆手にとって、自分から笑い飛ばしてしまうのが正しい「ユーモア」だと思っています。

(まあ、受け売りでもあるのですが。)

 

 

随時、新しい「言いまわし」を募集しています。

どんどんご応募ください。

 

 (ivy 松村)