国際政治学講座④(「リベラル」)

20世紀は、ある意味でとても「わかりやすい」政治の状況がありました。

 

「資本主義」と「社会主義」が鋭く対立しました。

 

 

単純な「図式」に当てはめて説明すれば、「資本主義」は、経済活動の「自由」を重視する考えです。一方、「社会主義」は、富の分配を「平等」に行おうという考えです。

 

簡潔に述べると、前者は「自由」に価値を置き、後者は「平等」に価値を置く考えであるといえます。

 

 

 

20世紀の終盤に、冷戦 が終結し、「資本主義」の「勝利」が確定します。

「資本主義」が優勢となった要因のひとつは、「資本主義」が、部分的に「社会主義」を取り入れて「進化」したことです。

 

 

20世紀は、ある意味で、どのように「資本主義」をマネージメントしていくのか、ということが「世界経済」の重要な「テーマ」となっていたのです。

 

 

 

「資本主義」のもとで、際限のない「自由な競争」を認めてしまうと、社会の「格差」が広がってしまいます。

 

 

「自由な競争」のもとでは、「資本」をより多く持っている者ほど、より多く儲けることができます。「商品」を生産し、販売することで利益が生まれるわけですが、「資本」を生産設備や宣伝等により多く「投資」すれば、より多く売り上げを伸ばし、より多く利益が得られるわけです。

 

要するに、「資本家」は、自分が有する「富」を使って、さらに大きな「富」を生み出していくことができるわけです。

 

一方、「労働者」は、「資本家」が所有する「会社」に雇われて、働きます。

自分の「労働力」を提供することで賃金を得るわけです。

つまり、働いて稼ぐということは、「労働力の販売」であるといえるわけです。

 

しかし、「労働力」をより高く売ることはなかなか大変です。もっと安くもっと長く働く、という別の「労働者」がいれば、「自分」は、雇われることが難しくなります。

 

 

このような「資本家」と「労働者」の「関係性」のもとで「自由な競争」を導入すれば、「労働者」はより安い賃金で長時間労働させられるような「契約」を受け入れるしかなくなります。

「資本家」のほうが、圧倒的に「立場」が強いわけです。

 

そのため、成熟した「資本主義」の社会では、「労働者」の権利を守るための法律や制度が整備されるわけです。

 

「労働者」の雇用や賃金・労働時間を保証したり、社会保障制度を整えたり、税率を調整したりするわけです。

 

 

 

で、「資本家の利益」と「労働者の権利」を調整するのが「政治」の役割になるのです。

また、どのように「線引き」するのがよいのか、という考え方が「政治思想」になるわけです。

 

 

ものすごくざっくりといえば、「資本主義」の色が濃い「政治思想」は、「資本家」の「自由」を大きくしようと考えます。

一方、「社会主義」の色が濃い「政治思想」は、「労働者」の「立場」を保護しようとします。

 

 

 

結局、「資本主義」の「優勢」がゆるぎないものとなり、冷戦が終結しました。

それによって、「自由」の価値が高まることになったのです。

相対的に「平等」の価値が軽んじられ、「格差」が拡大することになりました。

 

 

そして21世紀には、「資本主義」を加速させる「グローバリズム」が、世界を席巻するようになったのです。

 

 

 

ところで、20世紀には、「保守」と「革新」というもうひとつの対立の「構図」が存在しました。

 

前者は、伝統や国民意識を重視するような立場です。

後者は、制度や体制を新しいものに変えていこうとする立場です。

 

冷戦下では、一般的には、「資本主義」は「保守」と結びつき、「社会主義」は「革新」と結びつきました。

 

 

 

さて、21世紀に入って、「保守」に対抗する「政治勢力」は一様に「リベラル」と呼称されるようになります。

「社会主義」はほとんど「絶滅」状態になり、「革新」は「死語」になりました。

 

それは、「冷戦」が終結したことと関係しているのでしょう。

 

 

「自由」を英語で「リバティー」(liberty)というように、本来「リベラル」(liberal)というのは「自由な」という意味です。

 

 

しかし、「自由」という「価値」をその名に刻む「リベラル」は、もともと「社会主義」を始源とする「政治思想」なのです。

 

 

実は、「リベラリズム」という「政治思想」も存在します。ところが、ややこしいことに、「リベラリズム」と「リベラル」は別物です。

報道や評論などをとおして、慣用的に「リベラル」という呼び方が定着してしまったのです。

また、「リベラル」はもともと形容詞なのですが、なし崩し的に「名詞」として使用されることも多くあります。

 

 

 

「リベラル」の特徴のうち、特筆すべき点は、「善良さ」や「人道的振る舞い」を重視すること、であるといえます。

 

ひとつの顕著な例として、「移民政策」を挙げることができます。

とくにヨーロッパで、「リベラル」の政治家たちは「移民」を寛容に受け入れることを主張しました。

 

 

 

「リベラル」の源流にあるのは、「労働者」の権利を守ろうとする「政治思想」だったわけですが、皮肉なことに、現代、その流れは対岸に行き着いてしまったわけです。

 

 

「グローバリズム」と「リベラル」は「呉越同舟」で、「移民」に寛容な社会を目指します。

 

 

 

21世紀は、「グローバリズム」と「リベラル」の狭間で、「労働者」が身を寄せるべき「政治思想」が霧散してしまったわけです。

 

そのため、「労働者」の多くは「保守」の分流ともいうべき「自国民優先主義」に引き寄せられることになったわけです。

 

 

 

 

 

(ivy 松村)

 

 

国際政治学講座③(「移民」)

イギリスのEU離脱、そしてトランプ大統領の政策は、ともに「移民」という象徴的なトピックを、重要な争点としています。

 

「良識派」の人々は、社会は、「移民」に寛容であるべきだと考えます。

ところが、その言説に賛同が得られなかったわけです。

 

その「結果」にショックを受けた人々は、世界に「悪意」が蔓延しつつあると考えてしまうかもしれません。そして、「移民」の存在を憎むような、劣悪な精神を持った「排外主義者」が増殖しつつあることを憎悪するかもしれません。

 

もちろん、世の中には愚劣な感受性を持った人間もいるのでしょうが、英米両国の半数以上の人をすべて「まともではない」とみなすのは、ちょっと現実味がないというか、常軌を逸しています。

 

私たちに必要なのは、「人間性の識別」などではなく、その「動機」を知ることです。

 

 

実際には、「彼ら」の不満の大部分は、「移民」に寛容な「社会構造」に向けられています。

 

要するに、「グローバリズム」の進展によって、自分たちの社会が不安定なものにさせられていると、「彼ら」は考えているわけです。

 

 

 

「グローバリズム」を推進しようとすれば、必然的に「移民」に寛容な「社会構造」が構築されます。

「自国民」の「労働者」よりも「移民」の「労働者」のほうが、「生産性」が高いからです。

 

「グローバリズム」は、「自由な経済活動」を阻害するあらゆる「垣根」を取り払おうとします。

そして、国内外を問わず、より「コスト・パフォーマンス」の高い人材・機材・システム等の「産業的リソース」が選択されるわけです。

 

 

 

「移民」に寛容であるということは、裏を返せば「自国民」を冷遇しているというとらえ方にもなります。

 

西欧諸国やアメリカ合衆国で「反移民」を掲げる政治勢力が伸長しているのは、「移民」に寛容な「社会構造」が固定化されることによって、自分たちの生活が逼迫させられていると考える人々が増えているからです。

 

また、「移民」は、「犯罪」や生活上の軋轢を増加させ、「社会不安」を大きくさせると考える人もいます。

 

 

「反移民」の立場を表明する人々は、「移民」は「優遇」され、自分たちは「我慢を強いられている」と考えます。

つまり、自分たちを、虐げられた「弱者」であると規定しているわけです。

 

 

一方、「移民」に寛容な人々は、「移民」は虐げられた「弱者」であると考えます。

彼らを助けることは、「正義である」と信じているわけです。

 

 

 

「移民の問題」はしばし「人権問題」と結合します。

「反移民」の立場を取る人々は、「移民」の「人権」は過剰なまでに守られているのに対し、自分たちの「人権」はないがしろにされていると考えます。

 

こういった「主張」に対して、「生産性」を重視する人たちは、「能力」の劣った者が、「公平な競争」のもとで敗れるのは仕方がないではないか、と考えます。

自らの「劣等性」を他者の責任に転嫁する卑しい戯れ言のように思われてしまうわけです。

 

しかし、この「主張」は、一見、早々に「論破」されてしまう「幼稚な感情論」のように思われて、実は、非常に核心的です。

 

 

社会科学の基礎的な素養を持つ人間は、「国家」(政府)の役割は「自国民」の生命と財産を守ることであるという「根本」を思い出すことができます。また、基本的に、憲法等に定められた「人権」を有すると認められるのは、「自国民」だけであることも知っています。

 

 

つまり、民主的な近代国家の政府は、原則的に、「自国民」を優先的に「保護」する義務を負っていると考えられるわけです。

 

 

その意味では、「反移民」の主張には、「根拠」があるのだともいえてしまうわけです。

 

 

 

さて、「移民」に寛容な人々には2とおりのタイプがいると考えられています。

 

あるグループは、「移民」の「労働力」に期待しています。「移民」が増えたほうが「得をする」という立場の人々です。ある意味で、「自国民の生活」よりも「経済(会社)の発展」に重きを置いているわけです。

 

さらに、別のグループは、単純に「人道的」な見地から、社会的に弱い立場の人々の力になりたいと考えている人たちです。

 

 

それにしても興味深いことに、その他すべての観点においては、おそらく対立するであろう2つの「立場」が、「移民」というトピックにおいては意見が「一致」するわけです。

 

 

(ivy 松村)