合格の確約を出す「受験」について考えてみる

「合格の確約」を出す「推薦入試」「単願・専願」「併願優遇」について考えてみましょう。

 

そのためには、便宜的に、「用語」を下記のように定義してみるとわかりやすくなると思います。

(スポーツ推薦や自己推薦等の特殊なものを除いて考えてみます。)

 

 

・「選抜」…入学者を募集し、「合否判定」を行い、合格者に入学の許可を与える

・「受験」…応募した入学希望者の「学力審査」を行う

・「入試」…「学力審査」の方法の一形態、通常はペーパーテストを行う

 

 

今、ここでは、「入試」と「受験」と「選抜」は等式で結ばれる概念ではありません。

「入試」の上位概念が「受験」です。さらに、「受験」の上位概念が「選抜」です。

 

 

「受験」とは、端的に、「学力審査」を課す、あるいは、「学力審査」を受けることをいいます。

 

その「学力審査」の方法は、必ずしも「入試」であるとは限らないということに留意しなければなりません。

 

 

 

「入試」を行わない「受験」が存在します。

 

たとえば、大学受験における「指定校推薦」は、「入試」によって学力を測っているわけではありません。別の形で「学力審査」を行い、合否を判定しているわけです。「指定校推薦」は、学業やその他の活動における「取り組みや業績」を審査し、評価したうえで合格を出すわけです。

 

 

「入試」は、受験生の学力を審査する方法のひとつです。

「学力審査」の方法は「入試」だけではありません。

「入試」とは別の方法で学力を測る「受験」もあるわけです。

 

 

 

「学力」をどうとらえるのか、という問題も絡んできます。「一発勝負のテスト」に強いことが、「学力」の必須条件ではないと考える人も多くいます。また、「運」の要素も入り込んできます。

 

一般的な「入試」である「一発勝負のテスト」では、受験者の総合的な「学力」を適切に測ることができないという考えには、一定の「理」があります。

 

定期テストや授業の課題をしっかりとこなすという「学力」を評価したいと考える高校もあるわけです。もしかすると、「一発勝負のテスト」よりも確かな「学力審査」ができるといえるかもしれません。

 

 

 

「入試」にとらわれない「受験」が想起されます。

形式的に「入試」と名づけられた「試験」を実施しながら、それとは別の基準で「学力審査」を行い、合否を判定する「選抜」です。

 

 

 

よく見渡してみれば、中・長期的な取り組み、積み上げた業績・成果を評価し、合格を与えるような「選抜」は、広く世間一般で行われていることに気づきます。高校受験に即していえば、「中学校の成績」を評価して、「合格の確約」を出すような形態の「受験」です。

 

要するに、「合格の確約」を出す「推薦入試」や「単願・専願」、「併願優遇」などは、「中学校の成績」にもとづいて「学力審査」を行っているといえるわけです。

 

 

さて、ここで重要なのは、これらの形態の「受験」は、「試験」の得点を考慮しないという点です。いわゆる「合格の確約」を出すような「受験」は、「試験」の結果を前提としていません。「中学校の成績」という別の基準を焦点としているからです。

 

また、この場合、「受験」と「選抜」は一体的です。出願資格が、「学力審査」を担っているわけです。そして、出願資格を満たせば、合格が与えられます。

 

「合格の確約」をもらえる「推薦入試」や「単願・専願」、「併願優遇」などは、出願時点で合格を得ることができるわけですが、それは、その時点ですでに「学力審査」を終えて、「合否判定」が完了してしまっているからなのです。

 

これらの形態の「受験」では、一応「試験」を受けることが義務づけられていますが、もちろん、学力を審査することが目的ではありません。

それは、ある種の「儀礼的行為」であると解釈しなければなりません。

 

もしかすると、「受験料」を徴収する名目のためなのかもしれません。

その上で、「試験」という可視的な「儀式」を経て、高校に進学するというプロセスを受験生に提供する意味合いがあるのでしょう。

 

 

 

それでも、釈然としない人もいるでしょう。

それは、「入試」を絶対の基準にして「受験」を考えているからなのだろうと思います。

 

「入試」にもとづいた「学力審査」こそが、もっとも公平な「受験」であり、その結果に準じて「合否判定」を行わなければならないという社会通念が強くあるのも事実です。

 

しかし、上述してきたように、「入試」は「学力審査」の方法のひとつであって、唯一の方法であるというわけではありません。

ですから、「中学の成績」をもとにして「合格の確約」を出すような「受験」に対して、「試験の得点」を論拠にして論難しようとするのは、どちらかというと的外れな考えです。

 

「入試」を絶対視する考え方は、「受験」(あるいは「選抜」)という制度を画一的に捉え過ぎているように思います。

 

「入試」を基準にして「受験」を考えると、さまざまなものを見落としてしまうでしょう。

 

 

 

(ただし、一点、念を押して付け加えなければなりません。「完全に」公的な資金によって運営されている公立学校の「選抜」は、やはり、誰もが納得のいく形を追求しなければならないと思います。ですから、都立高校および国立大附属高校は、「入試」に比重を置いた「受験」を行わなければならないと考えます。)

 

 

 

(ivy 松村)

 

 

「面接」に臨む

本年度の最初の「合格」の報告がありました。

おめでとうございます。

 

終わったときにも、「やり切った」という表情で報告してくれて、いい結果が出そうな感触があったようでしたが、油断は禁物、ということで、「次」のことを考えておこうといっていました。

あらためて、胸をなでおろして喜びをかみしめているころだと思います。

 

夏休みは特に、集中して面接の練習や作文の直しに取り組みました。

その成果がうまく出せたようで、よかったです。

 

直前はかなりプレッシャーを感じていた様子でしたが、それもいい経験となったはずです。

精神的に苦しい時期を乗り越える経験は、人を成長させてくれます。

 

 

あらためて、おめでとうございます。

今後の活躍を期待しています。

 

 

 

大学入試では、AOや推薦入試の募集枠の拡大が話題になっています。

高校入試でも、今後、推薦入試のような「確実」な進路選択が積極的に活用されるようになるかもしれません。

 

 

実は、推薦入試に関して、ちょっと「持論のようなもの」を持っています。

それは、入試の「面接」に存在すると思われる「独特の評価の基準」についてです。

 

端的に、入試の「面接」は、企業文化のもとにある「就活」等の面接とは違うアプローチをしなければならないのではないかと感じているのです。

 

入試に際して「面接練習」をするとなったときに、「就活」を経験した「塾社員」が、屈託もなく「就活における面接マニュアル」を伝授しようとするのは、少し違和感を持ちます。

 

 

 

大学入試の「面接」は「大学の先生」が直接行います。

大学の先生方は、「研究者」、「教育者」の立場から学生を見ます。

 

特に、大学を「研究機関」であると位置づけ、大学の役割を「研究者の育成」であると規定しているような大学の教授は、一般的な「社会人」とは違う感性を持ち合わせています。

知的関心、熱意、研究に時間と労力を惜しまない実直な態度、そういった素質を感じさせる学生を迎え入れたいと考えるのです。

 

 

ですから、「大学に入学するにふさわしいかどうか」という判断は、「学ぶことに真摯であるかどうか」というような基準で計られることになります。

高校のランク、高校での成績、各種の資格でさえも、それほど意味のある指標にはなりません。

 

「大学で学ぶ意欲を持っているかどうか」が重要です。

 

ひたむきな研究を重ねつつ大学という組織の中で地位を築いた学者の方々は、「勉強」と「学問」を切り離して考えます。

大学で「学問」を学びたいという強い意志を感じさせる人をこそ、高く評価するでしょう。

 

 

もちろん、常識的なマナーや礼節、コミュニケーション能力などに問題があれば、それは論外ですが、「面接マニュアル」の受け答えにしたがっていないことを、すぐさま否定的に評価する人は少ないと思います。

まあ、「学会」は「変人」も多いところですからね。

 

 

学者は、企業的な価値観で人を判断しません。(もちろん、高校の先生も、です。)

 

当たり前といえば当たり前なのですが、かなり見落とされている「現実」だと思います。

 

 

「常識人」をうまく演じようとするよりも、むしろ、好奇心あふれる「変人」であったほうが、よい印象を持たれるかもしれません。

 

もし、AOや推薦入試の「面接」で「逆転」が必要なのであれば、「大学入試における面接の特性」をよく考える必要があると思います。

 

 

 

・・・というようなことを、おぼろげながらに考えながら、指導していました。

今回は、しっかりと対策してきたことが実を結んで、本当によかったと思います。

 

 

おつかれさまでした。

 

 (ivy 松村)