Silence makes you stronger.

昨日、今日と試験勉強のために教室を開放しました。

 

昨日は1つの教室に数セットの机といすを運び込んで、自習室は「満員」状態でした。

 

中1から高3まで、幅広い学年の生徒が一か所で、それぞれの勉強に取り組んだわけです。

 

 

冷房がしっかり効いていたので、「暑苦しい」ということはなかったはずですが、「息苦しい」という気分になった人は少なからずいたみたいです。

 

 

昨日も自習時間の終わりに言いましたが、「あの感じ」を、私は「理想的な自習」だと思っています。

 

 

勉強時間に、「自由に話さない」、「自由に立ち歩かない」というのは、当たり前のことですね。

 

 

自習を始めて、時間が経ってくると、誰かに話しかけたり、何か理由をつけて教室の外に出てうろうろしたりしたくなる人がいます。

 

時間をかけて、1つのことに意識を向けて時間を過ごすことができないのです。

 

そういう人は、「自由に話せない」「自由に立ち歩けない」という状況になると、イライラしてしまうわけです。

 

 

精神と認知能力が未熟なので、「正しい判断」ができません。

 

「勉強に集中できない」のは、「周りのせい」だと思うわけです。

 

 

周りが静かだから、勉強ができない?

 

 

正常な思考能力をもった人間であれば、誰もしゃべらず、誰も立ちあるかない静かな空間は、勉強に適していると考えるはずです。

 

 

「静かな空間で勉強ができない」のは、個性でも性格でも何でもなく、ただ、その人が未熟な人間であるというだけのことです。

 

(ついでにいうと、さらに幼稚な人間は、すぐに「不満」を口にします。自分の不快な気持ちを周りにまき散らして、「自分だけ」気分を晴らそうとするわけです。)

 

 

 

誰かが教室に入ってくる度に、じぃ~と、相手の顔を見る人がいます。

 

驚いたり、笑ったりする「材料」を探しているのです。

沈黙を破る「何か」を見つけようと、全神経を注ぎ込んでいるわけです。

 

勉強時間に、「声を発する理由」を物色しているわけです。

 

生徒のみなさんも、自習室に入ったときに、顔をじぃ~と見られることがあっても、完全に無視してくださいね。

 

 

その「残念な人」は、悪気なく、あなたの勉強の邪魔をしようとしています。

 

 

 

「静かな空間」で勉強すると疲れてしまう人は、「体質」を変えていかなければなりません。

 

意識を勉強だけに向けることが苦手なので、「意識を勉強だけに向けられる状況」になると疲れてしまうわけです。

 

1時間で終えられるはずの勉強に3時間かかります。

 

窓の外を眺めたり、文房具を分解したり、「余計な線」をノートに書きつけたり、シャーペンの芯を替えるのにたっぷりと時間をかけたり、ぼんやりと妄想にふけったりしながら、ダラダラと時間かけてやっているわけです。

 

 

まともに思考すれば、1時間でできるものを3時間かけて行うのは愚かなことだと理解できるはずです。

 

 

でも、1時間で終わらせよう、とは思わないわけですね。

 

なぜなら、「疲れるから」です。

 

とにかく、何よりも、勉強で疲れるのがイヤでイヤでしかたがないわけです。

 

 

 

「まっとうな人間」は、意識を勉強だけに向けて取り組めば、「普段」の3倍の勉強量をこなせるという「事実」に着目します。

 

だから、意識を勉強だけに向ける時間を、伸ばしていこうとします。

 

そして、徐々に、長い時間「勉強」しても、疲れない「体質」になっていくわけです。

 

 

 

「勉強の耐性」が重要だと、以前からずっといい続けています。

 

 

自習室でしゃべっていて注意された人、それから、「自習時間」に何度も何度も水を飲んだり、明らかに不自然なタイミングで頻繁にトイレに行ったり、すぐに必要なわけでもないのに問題集を探しにきたり、わざわざコピーをしにきたりして注意された人。

 

 

どうしても、話さなければならない「理由」はないのです。

どうしても、教室を出なければならない「理由」もないのです。

 

 

すべて、「休憩時間」や「帰る前」にできることなのです。

 

 

ただ、勉強し続けることを「我慢できていない」だけなのです。

まったくどうでもいいことを、「勉強を中断する理由」に仕立て上げているだけなのです。

 

 

 

どうか「理解」してください。

 

なだめたりすかしたり、手取り足取り、こんこんと、一から十まで世話を焼き、相手をしてやらなければ試験勉強しないような人間になってほしくないのです。

 

 

 

5月の後半、高校の中間試験があった時期、卒業した高校生たちが毎日毎日、入れ替わり立ち替わり自習に来ていました。

 

みんな、ふらっとやって来て、教室の片隅でカリカリカリカリと3、4時間ほど勉強して、お礼を言って帰っていきます。

 

その姿を見て、 掛け値なく、本当にうれしい気持ちになります。

 

 

 

(ivy 松村)

 

 

「試験勉強」の計画

今日は、中2の特訓クラスの生徒と面談を行いました。

 

その際に、各教科の目標点を達成するために必要な「勉強時間」を出してもらいました。

 

たとえば、英語の目標点「90点」を取るために必要な「勉強時間」は計6時間、数学の目標点「95点」を取るために必要な「勉強時間」は計5時間…というように。

 

そうやって、9教科すべての目標点を達成するために必要な「勉強時間」の合計を出し、それを残りの日数で割ってみると…。

 

1日あたりの「勉強時間」は、7時間とか、8時間とか…。

 

 

ちょっと現実的ではありません。

 

実現が不可能な「計画」ほど、無駄なものはありません。

 

そうなると、各教科に使える「勉強時間」を減らさなければならないわけです。

 

 

目標点を下げるのは、愚かな行動です。

自分が確保できる「勉強時間」を有効に使って、目標点を達成する方法を考えます。

 

 

英語の目標点を取るために、6時間使うことができないわけです。

ですから、より少ない時間で、「6時間分」の内容を学習するために、どうすればいいかを考えなければなりません。

 

まず、無駄を省く。

 

「次は、何を勉強しようか…」などと考える時間を失くさなければなりません。そのために、「その日」に何を勉強するのか、あらかじめ決めておきましょう。

 

その「計画」を立てるために、「勉強時間」を消費するのも無駄です。

 

1日の中で、もっとも「有効に使われていない時間」を活用しましょう。

学校の「休憩時間」。友達とどうでもいい話をして時間を潰すのではなく、「有効」に使ってみてはいかがでしょうか。

 

 

あと、ごそごそとカバンをまさぐって、ダラダラと勉強道具を出して、とりかかるまでに何分も時間を消費するのも無駄ですね。

 

 

 

次に、「勉強の濃度」を濃くしなければなりません。

 

たとえば、1ページ分の英文を覚えるのに15分かけて覚える「予定」を、10分に短縮します。もちろん、「負荷」は大きくなるわけですが、時間を節約できます。

 

 

自分の「成長」をリアルにイメージできる人は、「負荷」を段階的に上げていくことで、能力が向上することを知っています。

つまり、10分で覚えようとすれば、10分で覚えられるようになるとわかっているわけです。10分で覚えられるようになったら、さらに、8分で覚えようとします。そうすれば、いずれ8分で覚えられるようになるわけです。

 

このような「成長のイメージ」は大切です。

これを持たない生徒は、永遠に、15分を基準とします。

 

「今」は同じくらいの「能力」かもしれませんが、「成長」を重ねることのできる生徒は、いずれ、「半分」の時間で、同じ量の課題をこなすようになるわけです。

 

 

「負荷」の増大は、心理的、肉体的な疲労をもたらします。そのため、多くの生徒は「負荷」を大きくすることを嫌がります。

 

その気持ちは理解できます。

 

しかし、時間に追われながら課題をこなしたり、問題に対処したりする経験は、自分の「成長」を促すものなのだという認識を持ってもらいたいと思います。

 

 

ついでに付け加えて指摘するならば、「時間あたりの処理能力」を上げていくことは、「入試」という観点においても重要なことです。

 

 

 

それから、限られた時間のなかで「成果」を出すには、どのような「やり方」が有効なのか、また、効率的なのか、を理解し、実行することが大切だという話をしました。

 

「試験勉強のやり方」に関しては、5教科は演習を中心に、実技は「まとめ」を中心に取り組むように話しています。

また、その際の、ノートの使い方を細かく説明しています。

 

 

 

「目標点を取るために必要な勉強時間」という「発想」は、時間に余裕がある段階では、意味があります。

しかし、時間が限られている状況では、使える時間の使い方や「配分」が、戦略的に重要になってきます。

 

ひとりひとり、残りの「使える時間」を確認しました。

 

 

 

たとえば、1週間後が定期試験日となっている場合、平日に1日4時間、土日に9時間の勉強をするつもりならば、38時間の「勉強時間」を有していることになります。

 

当然、スマホをいじったり、マンガにふけったり、突然部屋掃除を始めたりしてしまうと、その「持ち時間」は削られていきます。

 

38時間を「計画どおり」に使うことが前提です。

 

 

もし、社会と美術、音楽の目標点を必ず「クリア」したいと考えているならば、これらの教科の「勉強時間」を十分に確保したいわけです。

 

社会に6時間、美術と音楽に5時間ずつ「配分」すると、残りは22時間です。

 

それを、たとえば、英数国理に4時間、音楽と技家に3時間ずつ「配分」することができます。

 

もし、数学が得意で、3時間で十分なのだとしたら、苦手な音楽を4時間にする、というような「微調整」を行います。

 

全体の「配分」が定まったら、試験日などを考慮しながら、「どの日」に「何時間」、「何」を勉強するのか、具体的な「予定」に落とし込みます。

 

このとき、注意しなければならないのは、勉強時間をある程度「振り分ける」ことです。

 

たとえば、音楽に使う「勉強時間」は4時間ですが、これを1日で消化するような「予定」を立ててはいけません。

 

①金曜日に1.5時間

②月曜日に1.5時間

③水曜日に1時間

 

というように、4時間を分割して別々の日に振り分けます。

 

 

それは、暗記事項などを忘れていないかどうか、の確認をこまめに行うためです。

 

また、全体の「時間配分」を、勉強の「進捗」によって再度「調整」できるようにするためです。

 

勉強を進めていくうちに、音楽は4時間では足りなくなった、というような場合は、他の教科の時間を削って、音楽の勉強時間を増やしたり、「やりくり」をして勉強時間を確保するように行動したりして、「調整」を行う必要があります。

 

全体の「進捗」を「同時進行」で進めていくことで、「ウィークポイント」を探りやすくなり、かつ、「調整」が容易になります。

 

 

ひとりひとり、細かに話をしました。

また、クラス全体にも、「計画」を立てることの重要性を伝えました。

 

しっかりと「計画」を立てて「試験勉強」を進めていきましょう。

 

 

 

来週から期末テストがはじまります。

 

二中は火曜日からです。

運動会の10日後、というハードスケジュールです。

大変ですが、頑張って乗り越えましょう。

 

横川中、横山中、みなみ野中は、水曜日からです。

3校は、中間試験がなかったために、試験範囲が広くなっています。

計画的に勉強を進めましょう。

 

七生中は金曜日に始まって、土日をはさんで月火の日程です。

「間の土日」は、「心理的なトラップ」になりそうなので、気を付けてください。

土日に「依存」し過ぎないように「計画」を立ててください。

 

 

3年生の何人かは、部活の「山場」に差し掛かっていて、試験直前に「引退」をかけた大会に挑みます。

本当に、どうにかならないのか、と思いますが、愚痴っていても仕方ありません。

 

 

みなさん、ベストを尽くしてください。

そのために、しっかりとした「計画」を立ててください。

 

 

頑張れ!

 

 

(ivy 松村)

 

 

‟Mission:Possible”

生徒が「どれくらい本気で勉強に取り組んでいるか」を測る「物差し」がいくつかあって、そのひとつは、目標設定の際の反応です。

 

 

期末試験が近づいてきて、生徒と面談をしながら、目標点を決めています。

 

中3の生徒たちには、「志望校を受験するのに必要な内申がどのくらいなのか」を伝えています。

 

 

中2の3学期の内申を「目安」として、全体で「いくつ上げるのか」を導きます。

それから、具体的に「どの教科を上げるのか」を決めます。

 

もちろん、中間試験があった中学の生徒は、その結果を勘案します。

 

 

たとえば、都立高校を第一志望にしている生徒が、その志望校の「都立の換算内申の基準」にあと「5」足りない場合。

 

5科を「+1」、実技4科を「+2」にすれば、「基準」に届きます。

 

そこから、社会を「3→4」、美術を「4→5」、音楽を「3→4」にする、というように、具体的に「ターゲット」を定めます。

 

そうすると、社会を「4」にするために確保しなければならない点数が浮かび上がってきます。

 

それを試験勉強の「配分」に落とし込んで学習計画を立てるわけです。

 

 

 

1学期の中間試験の社会の点数が65点だったとします。

その点数が、成績評価の「どの位置づけ」になるのかは、全体の平均点や、担当教師の評価基準によって変わります。

 

しかし、一般的には「65点」という点数は、「4」に相応する点数であるとはいえません。

 

したがって、期末試験では挽回しなければなりません。

「90点」を「ノルマ」にしようという話になるわけです。

 

さらに、非常にありふれた「策」のひとつですが、「90点」を取るために、「95点」を目標にしようという話になるわけです。

「90点」を目標にしてしまうと、往々にして「90点を取るための勉強量」となってしまいます。ほんの少しのミスが出でたり、対策の不備があったりすれば、目標点に届かなくなります。

そのため、確実に「90点」を得るべく、「ハードル」を一段上げようという「心理的な戦略」がとられるわけです。

 

 

 

このように、試験の目標点は「逆算」によって算出されるべきものなのです。

 

 

ところが、多くの生徒は、「自分の学力」を基準にして目標点を設定します。

 

「自分は社会が苦手だから、80点取れれば、頑張ったほうだ」というように。

 

 

 

もうすこし正確にいえば、「自分の学力」というよりも、「どれだけ勉強してもいいか」という「譲歩の気持ち」が目標点を決める大きな要因となっています。

 

つまり、「80点を取るぐらいまでなら、頑張ってもいい」というメンタリティが、「80点」という目標点をはじき出すわけです。

 

必死で努力すれば「90点」を取れると理解していても、そのための努力が嫌なので、妥協して「80点」を目標とするわけです。

 

 

 

「そんなの、無理。」

 

 

いや、まったくその通りです。無理なんですよ。

 

目指さないのだから、無理に決まっています。

 

 

ただ、それなりに「努力したような雰囲気」にひたって、自分をあざむくための「言い訳」が成り立つ程度に勉強して、最終的に「行ける高校」に行けばいいという「本心」を隠している人にとっては、「本気の話」は迷惑なものなのでしょう。

 

「無理やり押し付けられた目標点」に不満が募ります。

 

 

まだ、勉強を、「させられるもの」だと思っているわけです。

 

 

目標点は、「自分を追いつめるもの」だと思っているわけです。

 

 

ちょっと勘違いしています。

 

 

 

これは、行きたいという高校に、どうすれば行けるのか、という話にすぎません。

 

 

 

さて、一方で、あまりにも自然なことですが、「本気の生徒」は、自分に必要な点数を目指します。

 

根拠を示して、「95点」を目標点としなければならない、と説明すれば、納得し、チャレンジしようと思うわけです。

 

 

 

無理。

 

 

目標点を取ることのみに専念しようとしている人にとっては、無意味なことばです。

 

 

(ivy 松村)

 

 

文章を読むのが苦手な人は何をしてはいけないのか

前回の記事で、文章を読むのが苦手な人は、まず、「音読」をするべきだ、という話を書きました。

 

声に出して読むことで、「口」や「耳」を、「読むという行為」に動員することができます。

それによって、「文字列」を追う目の働きと、その「意味」を把握する脳の働きが「連動」しやすくなるのです。

 

 

「音読」は非常に理にかなった勉強方法ですが、そんな地味な訓練よりも、文章を読む「技術」に目を奪われる人も少なくありません。文章を読むのが苦手な人ほど、「速く読むこと」を志向します。

 

しかしながら、多くの人が「誤解」をしていることですが、速く読むことは、「常に良いこと」というわけではありません。

 

 

たしかに、速く読むことの「メリット」はあります。

反面、そのために大きな「代償」を払わなければならなくなるのです。

 

人は、速く読むほどに「深い理解」を得られなくなります。

 

 

 

難しい内容の文章を読むときに、普通は、慎重に読みます。

 

たとえば、「専門書」や「論文」などを読むときに、ときに1000字程度書かれた1ページを読むのに1時間くらいかかることがあります。

 

「専門書」や「論文」は、内容を正確に理解しなければならないので、読むのを中断して頭の中で内容を整理したり、自分自身に問いかけてみたりしなければならないことがあります。

メモを取るときもあります。

それで、なかなか読み進めることができずに、時間がかかってしまいます。

ときには、注釈や資料、別の文献などを参照して、内容を確認しながら読まなければ理解できないこともあります。そのため、さらに十分な時間をかけて読むこともあります。

 

自分の専門外の「専門書」を読むときには、よりいっそう時間がかかるものです。

読み終えても理解できないときには、「解説書」などを読んで理解を深めようとしたり、誰かに訊いて説明してもらったり、助言してもらったりすることもあります。

ですから、たった1ページを、厳密な意味で「読み終える」のに、数日、あるいは数か月かかることもあります。

 

そのような文章の読み方を「苦痛」としか考えられない人も多くいると思いますが、それが、この上なく豊かな経験なのだと知ることができれば、人生が変わります。

 

 

 

逆に、新聞などは割とすぐに読むことができます。内容によっては、1000字程度の文量を20秒かからないで読めます。

 

新聞記事は、文体や修辞、構成などが標準化されているので、読みながら「次に書かれている内容」を推測しながら読むことができます。

 

特に、背景や状況を熟知している内容の記事は、「読む」というより「眺める」感じの読み方になります。その場合は、「新しい情報」や「未知の情報」、「より詳しい有用な情報」が書かれていないかを確認できればいいわけです。

 

同じように、本の場合も、内容によっては眺めるように読むことがあります。

中身の浅薄な本をじっくり読むのは、ほとんど拷問といってよいほどの苦痛です。

 

 

 

「速く読むこと」は、「理解」よりも「効率」を優先した読み方です。

「速く読みたい」のは、文章の「内容」を重視していないからです。

 

 

「自分は文章を読むのが遅い」と感じている人にとっては、「速読」というものは大変に魅力的な技術に思えます。

 

まして、「試験」を強く意識したときには、文章を読むのに時間がかかる人ほど、「速読」にすがりたくなるはずです。

 

 

 

その点も含めて、すこし考え方を変える必要があると思います。

 

結論からいえば、文章を読むのに時間がかかるのは、「スピードの問題」ではないのです。

 

文章を読むのに時間がかかるのは、「文章を理解する能力」が未熟だからです。

 

ですから、速く読もうとする前に、「文章を理解する能力」を鍛えなければならないのです。

 

 

もちろん、スピードは大事です。しかし、スピードを研ぎ澄ます前に、しっかりとした「土台」が必要です。

 

堅牢な学力は、「文章を理解する能力」を身につけた上で、試験問題を解きながら、「工夫」を重ねて、「速く問題を解く方法」を模索する中で養われていきます。

 

 

 

「文章を理解する能力」を鍛えるために必要な「実践」が2つあります。

 

ひとつは、「文字列」から「意味」を抽出して把握するための「脳の機能」を強化し、向上させていくことです。

その最も有効な訓練法は「音読」です。

 

それから、たくさんの本を黙読で「じっくり読む」ことも重要です。「じっくり読む」経験をたくさん積むことで、速く読めるようになるのです。

 

 

もうひとつは、「語彙力」を増強することです。

言葉を知っていなければ、文章は読めません。

 

言葉をおろそかにする人は、いつまでたっても文章を読めるようにはなりません。「漢字テスト」や「単語テスト」をあなどっている人は、一切の例外なく文章を読むのが苦手です。「語句プリント」もそうです。

 

 

 

「文章を理解する能力」が未熟な人は、「速読」に手を出すべきではありません。

 

聞くところによると、「速読」には様々なやり方があるそうです。

しかし、どれも結局、「文字情報」を断片的にすくい取って、それを推測や憶測でつなぎ合わせるようなことをやっているわけです。

 

 

はっきりいいますが、そんなものは「まやかし」です。

 

正しく文意をつかむことができない、つかもうとしない「いいかげんな習慣」が身についてしまったら、一生を左右する過誤となり得ます。

 

 

まず、「音読」をしましょう。

それから、漢字練習、単語練習。

そして、語句プリント。

 

 

 

(ivy 松村)

 

文章を読むのが苦手な人は何をすれば読めるようになるのか

私は、「文章を読む」という行為について、「ベルトコンベアーの作業」のようなイメージを持っています。

 

ベルトコンベアーというのは、運搬物を自動的に移動させる装置です。

「歩く歩道」のような感じで、幅の広い「ベルト」の上に載せられた運搬物が、「始点」から「終点」まで一定の速度で流れていきます。

 

 

様々な荷物が、ベルトコンベアーの上を流れているところを想像してみましょう。

「終点」にいる「作業員」が、運ばれてきた物を種類別に「仕分け」します。

aの荷物はAの箱に、bの荷物はBの箱に…というように。

 

熟練した「作業員」は、てきぱきと荷物を仕分けしていきますが、不慣れな「作業員」は作業を滞らせてしまいます。

荷物は自動的に流れてくるので、処理しきれない荷物が「作業員」のまわりにあふれることになります。

 

 

 

文章を読むとき、人は、目で「文字列」を追います。

そのとき視覚がとらえた「文字情報」は、脳で処理されます。

つまり、「文字列」で表されている言葉を把握し、集積させ、語句や文、そして文章全体の「意味」を理解しようとしていくわけです。

 

「読む」というのは、目でとらえた「文字列」の「意味」を、脳で総合するという行為です。

 

 

目で、「文字列」をとらえることは、容易に可能です。ただ、見ればよいわけです。

しかし、その「意味」をとらえるためには、それとは別の、脳の働きが必要です。

 

 

 

文章を読むのに苦労する人は、「意味」をつかむことが苦手です。

 

目で「文字列」を追っかけても、「意味」を把握しきれなくなって、その「内容」が頭の中に構成されないのです。

 

「文字列」の情報は、どんどん脳に送られてくるのだけれども、脳が、その情報を処理しきれないので、「読む」という行為が停滞してしまうわけです。

 

 

「ベルトコンベアーの作業」でいえば、次々に運ばれてくる荷物をさばき切れなくなって、途方に暮れているような状態です。

 

 

頭の中に「内容」が入っていないわけです。

そうなると、再度、目で「文字列」を追う作業を繰り返さなければなりません。

 

もう一度、同じ個所に目を通すわけですが、文章を読むのが苦手な人は、文章を読み直すことに大きなストレスを感じます。

 

読み直しているうちに、話の筋がわからなくなってしまうこともあります。

 

 

 

そこで、文章を読むのが苦手な人は、ゆっくりと「自分のペース」で、「文字列」を追いかけようと考えます。

 

そうすることで、脳が情報を処理するのに十分な時間を確保できると思うわけです。

 

しかし、読む速度を極端に落としてしまうと、リズムやテンポが悪くなり、脳の疲労が大きくなります。集中力も落ちてしまい、「内容」が頭に入らなくなってしまいます。

 

 

文章を読むのが苦手な人は、そもそも「文章を読むことに集中する」ことが苦手です。ですから、文章を読むスピードを落としてしまうと、文章を読みながら別のことを考えてしまったり、別のことに気を取られたりして、「読む」という状態を維持できなくなってしまいます。

 

 

 

文章を読むときには、「文字列」を追いかける目と、その情報を処理する脳が連動していなければなりません。

 

ですから、脳に余計な負荷を与えたり、不規則な対応をさせたりしないようにしたいわけです。

「文字列」の情報が、できるだけ「自動的」に脳に入ってくるほうがいいわけです。

 

そうすることで、脳の働きを、「意味の把握」に特化させることができ、効率よく正確に文章の「内容」をつかんでいくことができます。

 

 

どれほど苦痛であっても、ベルトコンベアーの速度を落とすべきではありません。

そこでの「仕分け」を仕事とするならば、基準となる速度で運ばれてくる荷物をさばけるようにならなければなりません。

そのために、訓練していくわけです。

 

 

 

さて、文章を読むのが苦手な人は、どうしたらいいと思いますか?

 

 

一定のスピードで、「文字列」の情報をとらえて、脳の中でその「意味」を構成するように「訓練」していけばいいわけです。

 

 

もう、わかりますね。

 

 

「音読」――声に出しながら読むことが、文章を読む訓練としては、最も理にかなった行為なのです。

 

 

 (ivy 松村)

 

「努力をしよう」

中学生は、定期テストに向けた勉強が佳境に入っています。

 

八王子七中は、今日から定期テストがはじまりました。

 

多くの学校が今週の水曜、木曜から期末試験です。

 

 

一気に「火」がついて、これまでにない量の勉強をこれまでにない時間をかけてこなしている人がいます。

 

その一方で、全くはかどっていない人もいますね。

 

 

 

都立高校を第一志望に考えている生徒には、志望校を受験する基準となる内申を伝えています。

私立高校を第一志望に考えている生徒には、推薦を受けるのに必要な内申を伝えています。

 

 

その内申を取るために、成績を上げていかなければいけない教科を確認し、何点を取る、という目標を決めました。

その目標点を取るために、どのような取り組みを行っていくのかを話し合い、予定を立てました。

 

 

 

志望校を、本気で目指そうと思うことで、勉強する意思が湧いてきます。

 

ノートに書かれてある「文字」の「量」と、そこに込められた「熱」が、どれくらい「その学校」に行きたいと思っているかの「本気度」を表しています。

 

 

今、本気になれない人は、入試の瞬間になっても本気にはなれないでしょう。

だから、志望校を下げるしかなくなるのです。

「本気にならなくても合格する高校」に行くしかなくなるのです。

 

でも、きっと、それで満足してもらえるはずです。だって、もともと「本気」ではなかったのですから。カッコつけて、「高めの高校」を口にしていただけなのですから。

 

 

 

塾の教師は、常に、「努力をしよう」という話をします。

 

いろいろな内容で、いろいろな口調で、いろいろな言葉を用いて話をしますが、結局、「努力をしよう」という話をしているわけです。

 

でも、多くの生徒たちは努力をしたくないわけです。

なんとか努力をしないで「逃げ切ろう」として、言い訳をしたり、ごまかしたりすることに「浅知恵」を働かせるわけです。

 

 

そんな生徒たちに「努力をしよう」と言い続けるのも塾の教師の仕事です。

やはり「努力をしよう」というわけです。

 

 

「努力をしよう」と言われて、あるとき、努力をはじめる人がいます。

「火」がついて、本気になるのです。

 

一方、やはり努力をしたくない人がいます。

 

それでも、私たちは「努力をしよう」と言います。しかし・・・

 

 

 

・・・一体、この「いたちごっこ」の先に何があるのでしょう?

 

努力をせずに「逃げ切った」者は、果たして「勝者」なのでしょうか?

 

 

 

中学生全員に、2冊のノートを差し上げています。

2冊を埋め尽くしてしまった生徒には、追加のノートを差し上げました。

 

手元にあるノートを見直してください。

 

そこに、努力の跡が見えますか?

そこに、本気の自分はいますか?

 

 

 

この文章を読んで、今からでも、ノートに「文字」を書きはじめる人がいるでしょう。

 

 

一方、やはり努力をしたくない人がいます。

 

 

 (ivy 松村)

 

Imitation and Learning from others

本日は、定期テスト勉強会のために校舎を開けました。

 

小6から中3の生徒たちが集まって、それぞれの勉強に取り組んでいました。

 

 

連休明けの6(金)、7(土)、8(日)にも、定期テスト勉強会を行いますので、不安を残している人、さらにがんばろうという意欲のある人は参加してください。

 

 

特に、七生中の2年生。ちょっと今回、危ない気がします。

社会のテストが「簡単だ」と予告されているからといって、なめていると、全体の成績を落としてしまうかもしれません。

 

来られるのであれば、6日(金)に校舎に来て勉強するようにしてください。

進捗をチェックして、アドバイスをします。

 

 

必ず、3、4、5の三日間の間、毎日少しずつ時間を取って勉強を進めるようにしてください。

連休が明けてからまとめてやろうとするのは、絶対にやめましょう。

 

 

 

理科や社会は、学校のワークや問題プリント、塾のワークなどに取り組むときは、1ページずつ「完璧に仕上げて」から、次のページに進むように言っています。

 

必ず、言われたとおりに進めてください。

 

そのやり方でテスト勉強を続ければ、力がつきます。しかし、非常に時間がかかりますね。

 

一気に短時間で終わらせることができないので、早い時期から根気よく勉強を進めなさい、と言っていますが、面倒になって、思わず手を抜いてしまいたくなる人もいるかもしれません。

 

校舎を開けてある日は、なるべく塾で勉強したらどうか、と生徒のみなさんに提案するわけですが、その理由のひとつは、正しいやり方で勉強を進めているかどうかを確認するためなのです。

 

 

 

さて、話題は変わりますが、勉強に関してよく持ち上がる話で、「学ぶ」の語源は「まねぶ」であるというものがあります。

「まねぶ」というのは「真似ぶ」と書きます。つまり、「真似る」という言葉のもとになった表現で、「学ぶ」というのは人の様を「真似る」ことからはじまるのだ、と言いたいわけです。

 

その語源が本当なのかどうかは知りませんが、世の中には、こうした言説から「勘違い」をしてしまっている人が結構いるように思います。

 

 

勉強ができる人のやり方を「まね」ても、なかなか成績は上がりませんよね。

 

それもそのはずです。真似るべき「本質」を「まね」ていないからです。

何を真似なければならないか、ということを正しくとらえることができていないためです。

もう少し正確にいえば、まねてはならないことを「まね」しているわけです。

 

 

 

たとえば、成績優秀な友達に、「定期テストなんて、2時間くらい勉強すれば90点取れるよ」と言われたとします。

「勘違いする人」は、それを聞いて「2時間勉強すれば90点取れる」と信じて本当に2時間しか勉強せずに、60点しかとれないわけです。それで、60点の答案を手に、友達の95点の答案を見てしてきょとんとしているわけです。

 

こう言われていることに気づいていないのです。

「(自分は優秀なので、)定期テストなんて、2時間くらい勉強すれば90点取れるよ。」

 

重要なのは「結果を出すための方法」のはずなのに、「2時間」という「勉強時間」だけに反応して、それを「まね」してしまっているわけです。

 

 

実は、このような例は、保護者にもよく見られます。「うちの子は、中3から塾に通って、国高に合格したの」と言われたときに、「国高に合格するには、中3から塾に通えば大丈夫なのね」という受け止めかたをする保護者はとても多くいます。

 

 

「個別特殊な例」を「一般的な事象」であるととらえ、それを「自分(や自分の子供)」に当てはめて考えてしまいます。また、その際に、実は関連性のうすい2つの要素を「因果関係」として捉えてしまうのです。同じような論法は、似非科学や詭弁、詐欺や洗脳に応用されます。

 

 

 

別の例も考えてみましょう。

たとえば、成績優秀な友達が、「赤シート」を使って勉強しています。

それを見て、「勘違いする」人は、「『赤シート』を使えば暗記できるようになるのだな」という短絡的な思考をするわけです。

 

普通に考えて、その程度のことで暗記力が上がるはずはありません。

いつも、地道に根気よく覚えるようにしなければ暗記はできない、と塾の教師に言われています。

「赤シート」を使っても、覚えられるようにならないぞ、と注意されています。

 

それにも関わらず、「赤シート」に頼りたくなります。

 

なぜかといえば、「楽」そうだからです。

 

チラチラと、「赤シート」で答えを隠したり確認したりしながらノートを見つづけていると、いつの間にか覚えられると思っているわけです。

 

 

「正しいやり方で覚えなさい」という言葉よりも、「楽に覚えられそう」という都合のいい願望の方に飛びついてしまうわけです。

 

 

「赤シート」が効果を発揮するのは、「赤シート」の「程度」を分かっている人が使うときだけです。

 

「赤シート」を使うだけで暗記できるような頭脳の持ち主は、そのような勉強法で十分なわけです。

あるいは、通学や休憩の時間さえ惜しんで「赤シート」で暗記をしている生徒の場合は、それによって効果的な学習をしているわけです。

 

 

優秀な人間の「表面」をなぞっても、同じような「結果」を手にすることができるとは限りません。

 

そもそも、ものごとの「本質」を理解しようとしない人は、真似るべき対象を正しくとらえることができません。

 

 

「真似る」というのは、本来思慮深く知的な行為です。

 

上辺だけを他人と同じように取り繕う行為を「猿まね」と評することがありますが、それは、「知性の欠落」を示唆しているわけです。

 

 

その勉強法、「猿まね」になっていませんか?

 

 

 

学力を上げる、あるいは、成績を上げる、という「目的」を正しくとらえている人は、「そのために何をしたらよいか」について考えます。

そのうえで「目的」を達成するための合理的な行動を選択します。

 

自分が「人並みの能力」しか持っていないのだったら、努力して学力を向上させていこうと考えるでしょう。そして、訓練をとおして、暗記力を伸ばしていこうと考えます。

それが正常な判断です。

 

 

ところが、「目的」を見失っている人は、「楽」かどうかで行動を決めるわけです。なるべく少ない時間で、なるべく少ない労力で、なるべく少ない費用で乗り切ろうと考えます。

そのうち、なるべく「楽」をすることが「目的」となってしまうのです。

 

学力を上げるための行動を取っていないので、テストで点が取れないのです。当然の帰結です。

 

 

「目的」を見失っている人は、驚くべき発想をするようです。

 

 

「塾に行ったら『楽』に勉強できないから、家でやったほうがまし。」(そして、結局家でもやらず。)

 

 

 

本日、定期テストはまだずいぶん先の日程なのに、塾に来て勉強していた生徒がいました。

がんばっているね、と声をかけると、「家では勉強しないので」と謙遜していました。

 

その返答も、行動も、すべて正解です。

 

 

「家では勉強しない」というのは、もしかすると本当なのかもしれません。

まあ、世の中の大半の中学生は家では勉強しないのでしょう。

だから、塾が存在しているのだともいえます。

 

 

「家では勉強しない」→「だから、塾で勉強する」というのは、合理的な行動です。

 

一方、「家で勉強する」→「だから、塾に行かない」というのも、また、合理的な行動です。

 

 

では、「家では勉強しない」→「塾でも勉強しない」というのはどうでしょうか。

 

当然、成績は上がらないわけですが、なぜか、大半の生徒は成績が上がらない、と悩んでいるわけです。

 

 

また、成績の上がらない生徒で、以下のような行動様式を繰り返す人がいます。

 

「自己流(猿まね)の方法で勉強する」→「成績が上がらない」→「塾でアドバイスする」→「面倒なので、言われたとおりにやらない」→「自己流(猿まね)の方法で勉強する」→以下無限ループ。

 

もちろん、成績は上がらないわけですが、なぜか、大半の生徒は成績が上がらない、と悩んでいるわけです。

 

 

 (ivy 松村)

勉強の「持久力」

今日もほとんどの生徒が自習に来ました。

本当に、勉強が板についてきました。よく勉強しています。自習姿に見入ってしまうほどです。

勉強のやり方や取り組み方などについて、あまり注意をすることがなくなって、なんとも寂しいような、うれしいような気分です。

 

 

多くの生徒が10時半まで勉強して帰ります。

 

 

生徒には、塾での勉強時間を、お家の人と相談するようにいっています。

 

10時半までがんばって勉強したい、ということを伝えて、じゃあ、がんばってきなさい、ということであれば、勉強させてもらえるということに感謝して、しっかり勉強しなさい、といっています。

 

中学生があまり夜遅くに帰宅するのはよいことではありませんし、生活のリズムを考えて、何時までに帰ったほうがいいということであれば、できるだけの勉強時間をがんばって取り組みなさい、といっています。

 

 

 

勉強は、ただ単に長時間取り組めばそれでいいというわけではありませんが、高校に行くまでの間に、長時間勉強できるだけの「耐性」を身につけることはとても大切です。

 

高校で、大学受験の(特に国公立大学に入るための)「勉強量」に押しつぶされてしまうのは、自習の能力がない生徒です。それは、 「勉強量」に根負けしてしまうということもありますが、「耐性」のない生徒は、時間の中で、求められる「勉強量」をさばけなくなっていくからです。

 

その理由は非常に単純です。

同じく5時間を有した生徒であっても、5時間をまるまる勉強に使う生徒がいる一方で、5時間のうちの2時間だけしか「勉強状態」を維持できない生徒がいるわけです。

あるいは、5時間分の勉強を、ダラダラと10時間かけて終わらせたりしているわけです。

 

必要な「勉強量」を、必要な時間でこなせないのです。

5時間の間、独力で勉強し続ける能力が身についていないからです。

 

 

 

勉強に必要な能力として、よく挙げられるのが「集中力」です。

少し前から、この言葉に違和感を持つようになりました。

 

勉強をしていて、他のことに気を奪われたり、もの思いにふけったり、手わるさや落書きをはじめたり、誰かに話しかけたり、ちょっかいを出したりしてしまう生徒がいます。

 

一般的には、これは、その生徒に「集中力」がないからだ、と説明されます。

 

 

集中というのは、物質や意識が狭い範囲に集約されたり凝縮されたりするさまをいいます。

「勉強に集中する」というのは、他のことが気にならないくらい勉強に意識が収束し、没頭している状態を指すことになります。

 

しかし、それは、「集中」ではなく「夢中」です。

 

 

スポーツの世界でも「集中」という言葉はよく使われます。

勝負の世界で「集中」を欠くことは、負けにつながります。

 

スポーツなどでは、ある局面やある時間の範囲の中で、注意や観察、反応や対応を怠らないように行動することを「集中」という言葉で表します。「残りの5分間を集中して守り切る」というように。

 

つまり、「集中」という言葉は、こうした文脈上では、「弛緩した精神状態」の対義語として用いられているわけです。

そして、勉強における「集中」も、これと同じ意味内容で使われているわけです。

 

 

 

そう考えると、「5時間勉強に集中する」などという状態は、ちょっとあり得ないと思えてきます。

スポーツの試合でも「集中」を維持し続けることは困難なのに、勉強の間、不断に「集中」し続けることなどできるでしょうか。

 

また、勉強には、(もちろん「緊張」が必要な場面も多々ありますが)「リラックスした状態」で行うことが理想的な場合もあります。そのほうが、知識をしっかりと記憶に残すことができたり、思考力を存分に発揮できたりすることがあるのです。つまり、一般的に考えて、「集中」の対極の状態で勉強することが望ましいといえる状況も考えられるわけです。

 

さらにいえば、ボーっとしない、手わるさをしない、私語をしないといった程度の行動を抑制することを、「集中」という言葉で表すべきなのだろうか、と思うわけです。

 

 

思うに、継続して勉強に取り組む能力を表すのに適切なのは、「集中力」ではなく「持久力」(あるいは「持続力」)という言葉なのではないでしょうか。

 

 

 

中1、中2の生徒の、「2学期のテーマ」は、ずばり、「勉強の持久力の向上」です。

 

中3は、夏期講習を通して、高レベルの「持久力」を養いました。

 

中1、中2の生徒には、漢検、数検、英検といった各種の検定や定期テスト勉強を通して、「持久力」を磨いてもらっています。

 

 

私が、生徒のみなさんの「帰る時間」を非常に気にするのも、そのためです。

 

「疲れたからもう帰る」ということを、みなさんは当たり前に思っているかもしれませんが、それは自分を甘やかしていることとつながっています。

 

必要な「勉強量」をやり切ろうという意志で勉強しているのではなく、「自分の都合」で「勉強量」を減らしているのです。

 

マラソン選手が、「疲れたから」といって、コースの半分しか走っていないのに帰ってしまうようなものです。

 

 

 

マラソン選手は、持久力を身につけるためにどのようなトレーニングをするでしょう。

 

長い距離を長時間走れるようになるためには、なるべく長い距離をなるべく長時間走る練習をするしかありません。少しずつ、走る距離、走る時間を伸ばしていくのです。

 

苦しい練習を上乗せしていくことで、少しずつ、自分の能力を向上させていくのです。

 

1時間勉強しただけで疲れてしまう人は、1時間勉強しただけで帰ってはいけないのです。

そういう人は、1時間半勉強してから帰りましょう、という話をしているのです。

 

 

 

たまに、「勉強は効率が大事」などとドヤ顔でいう人がいますが、その言葉に意味はありません。それは、単に、勉強の「中身」が大事、といっているだけですよね。わざわざ口にするほどのことではありません。

 

しかし、もしも、「短時間」ということを重視して言っているのなら、そこには、うすっぺらい価値観がにじみ出ています。「点数」という目の前の結果だけを「目的」としているから、「効率」を一番に考えてしまうのですね。

 

100キロのスピードで、100メートルしか走らない車を自慢しているわけです。それで「楽ちんだ」と言ってうかれているわけです。

 

 

自分自身が、この先ずっと「成長」してくのだという「ヴィジョン」を持てる人は、何百キロ先の目的地であっても、走り続けて、到達しようと考えるでしょう。

 

その「走り」のなかで少しずつ自分の能力を高めていけば、きっとたどりつけることを理解しているのです。

 

そのために、「今日という日」に、走る訓練を自らに課すのです。

 

 

 

「もう疲れた」というところから、さらにひと踏ん張りしてみよう。

 

限界と思う「先」に行こうとするがんばりが、きみの「持久力」を育てていくのです。

 

 

 (ivy 松村)

 

勉強の予定を立てる

昨日は英検の二次試験の日でした。

 

うまく答えらなかった質問があって、悔しそうにしていた生徒もいましたが、かなり手ごたえを感じている生徒が多いようです。

 

英検の二次試験に向けて、受検者は、毎日一度は面接の練習をしました。

一人あたり8~10回の面接練習を行ったことになります。

 

 

受検をした生徒に、どんな人が面接官だったかを聞いたのですが、かなり「バラつき」があるように感じました。

英語の発音も、ほとんどネイティブに近い英語を話すという人もいれば、そうではない人もいらっしゃるようです。

 

 

とにかく、おつかれさまでした。

あとは、よい結果を期待しましょう。

 

 

 

今日は、中2の生徒にこれから期末試験までの「勉強の予定」を立ててもらいました。

 

「勉強の予定」の立て方を知らない生徒が多かったので、一人ひとりにアドバイスをしました。

 

 

たとえば、明日塾に来て勉強をしようと思っているが、部活の終わる時間がわからない、というとき。

 

いつもは5時半に終わるけれども、大会が近いので練習時間が伸びて6時になるかも知れない、という状況だとしましょう。

家に帰って、お風呂に入ってご飯を食べてから塾に行くので、6時まで部活が伸びたら、塾に行けるのが7時半になってしまいます。

 

その場合に、明日の予定を「7時半から塾で勉強」とするべきではありません。

まして、「来られる時間に来る」というような、あいまいな「予定」は絶対に立てるべきではありません。

 

試験前の一週間は、なるべくたくさん勉強のために時間を使わなければならないはずです。

そのために、普段よりもあわただしく過ごさなければならないということも考えなければなりません。

 

期末テストに向けて一分でも勉強時間を確保しなければいけない人は、そういう状況のときに、「最低限のことだけ」をやろうとしてはいけないのです。

 

 

もし、「部活があるから」勉強時間が取れない、という「言い訳」を躊躇なく口にするのであれば、今後部活を続けるかどうかを、真剣に考えたほうがいいかもしれません。

部活のせいで勉強がおろそかになるのなら、部活をやめるべきでしょう。

 

本来、部活をやりながら勉強に全力で取り組むという「覚悟」がない人は、部活に入るべきではありません。

 

 

 

通常の部活が5時半に終わるはずなのであれば、「定期試験前」は6時半には塾に来られるように行動するべきだと思います。

部活が終わったら、一秒でも早く家に帰る、とにかく急いで支度をして、少しでも早く勉強に取り掛かれるようにてきぱきと行動するべきです。

 

普段であれば、友達と一緒に話などをしながら帰宅し、家で一息してからゆっくりお風呂に入って、テレビを見ながら夕食を取って、時間が来たら塾に行くのもいいと思います。

 

でも、「定期試験前」は、生活の中心を勉強に切り替えるべきなのではないでしょうか。

 

 

「勉強の予定」を立てるときには、「必要な時間」を定めて、それを一日の中のどこで確保するのか、を決めなければなりません。

 

「自分」に合わせて予定を決めるのではなく、「予定」を先に決めて、それに合わせて動くのです。

 

そのために、普段の生活のピッチを速めたり、何かをする時間を削ったりしなければならないということも出てきます。

「予定」を立てる段階で、「それ」を意識しておかなければならないのです。

 

 

永遠にそうしろ、と言っているのではありません。

少なくとも、この1週間は、密度の濃い過ごし方をするべきだといっています。

 

 

6時に塾に来るという意思を持ちます。

 

そう決めたら、行動も決まります。

部活が延長しそうな雰囲気のときには、あらかじめ部活の顧問の先生やメンバーに今日は5時半に帰りたいということを伝えるでしょう。

いつも一緒に帰っている友人や、お家の人にも伝えるでしょう。

時間を意識しながら行動するようになるでしょうし、必要な準備もしておこうと考えるでしょう。

 

 

もちろん、予定通りに行かないということはあり得ます。

しかし、それは「結果」なのであって、最初から必ず守れる「予定」だけを立てれば十分というわけではないのです。

予定通りの行動を貫徹することだけが大切なのではありません。

 

「予定」を立てることで、自分の行動に意味を持たせ、それによって、より有効に勉強を進めていくことも大切です。

 

予定がずれてしまったときには、その後の予定を調整し直せばいいのです。

 

 

 

中2の生徒一人ひとりと、中間テストおよび1学期の期末テストの点数と、期末テストの目標点との「開き」を確認したうえで、その差異をどうやってうめるのか、を話し合いました。

 

時間はいくらあっても足りない、ということがわかったと思います。

全員が、少しでも多くの勉強時間を確保しなければならない状況です。

一日を、いつもの通りに過ごして、空いた時間だけを勉強に費やせばいい、というような、恵まれた「貯金」を持った人は一人もいません。

 

 

せめて、この一週間は、根をつめて勉強してほしいと思います。

 

私たちも、せいいっぱいみなさんをサポートします。

がんばっていきましょう。

 

 (ivy 松村)

 

 

勉強をだめにする言葉

実技4教科は、勉強量だけでは成績を伸ばしていくのがなかなか難しいものです。

 

現実に、身体能力や運動能力、音感、手先の器用さなど、ある種の「才能」や「素質」の有無が大きな意味を持つでしょう。

 

しかし、それ以外にも注目しなければならない要因があるように思います。

それは、「高級文化」を理解しようとする「動機づけ」です。

 

「高級文化」を受容することを自然な行為であると思える生徒は、実技教科を抵抗なく学んでいくことができます。

 

特に音楽と美術は、「高級文化」に親しみを感じている生徒に有利な教科です。

 

古典音楽や古典芸能、名画や彫刻、建築、工芸品などに対して素直な感動を覚え、興味と関心を抱く生徒であれば、「テスト」のためにその知識を覚えることさえ、喜びとなるでしょう。

 

一方、「高級文化」に親しみを持たない生徒は、「理解しがたい奇妙な創作物」を「無理やり押し付けられている」と感じてしまうはずです。

 

 

何もピアノやバイオリンを習わせたり、頻繁に博物館や美術館に出かけたりすることが重要だといいたいわけではありません。もちろん、そうした「特別な文化的活動」は、子供たちに良い影響をもたらすでしょう。

しかしここで問題にしたいのは、子供たちが「高級文化」を軽んじたり、遠ざけたりしたくなってしまうようなコミュニケーションのあり方についてです。

 

 

私が強く訴えたいと思っているのは、子供たちに「高級文化」に対して否定的な印象を与えないように気を付けなければならないということです。

 

 

世の中には、「高級文化」を気に食わないと思う人たちが大勢います。

そのような人たちは、隙を見ては「高級文化」を貶めようとします。

絶対にやってはいけないのは、そのような「ネガティブ・キャンペーン」を幇助することです。

当たり前の話ですが、大人が悪くいうもの、茶化すものに対して、子供たちは同様の態度で接するようになるでしょう。

 

 

例を上げます。

 

・ピカソの絵はまるで子供が描いたようだ。

・クラシック音楽を聴いていると眠くなる。

・能や狂言を見てもよくわからないからつまらない。

・バレエの衣装は気持ち悪い。

 

 

個人の感性やとらえ方を否定するわけではありません。

理解できないものはしょうがないと思いますが、それをあえて伝えるべきではないだろうと思います。

 

あるものの価値を伝える言葉は、興味と関心を引き出します。

しかし、あるものの価値を貶める言葉は、嫌悪や侮蔑の感情を引き出すことになってしまうのです。

 

 

生徒たちには、人類がその悠久の歴史を通して普遍的な価値を認めるに至った素晴らしい数々の創造物と、大切な出会いをしてほしいと切に思います。

 

 

 

英数国理社の5教科に目を向けても、同じように学習意欲を減退させかねない言葉が巷にはあふれています。

 

 

・虫は気持ち悪い。

・学校で習う英語はおかしい。

・数学ができても社会に出て役に立たない。

・日本の歴史は・・・。

・わからなければパソコンで調べればいいのだから、漢字なんか覚えなくてもいい。

・作者の気持ちでも考えていろ。

 

 

ついつい軽口で言ってしまいそうなことばかりですが、口にしないように気を付けなければならないと思います。

 

「勉強なんかくだらない、でも、しっかり勉強しなさい」などといわれて、意欲がわく人間などいないでしょう。

 

 

私は、いつまでも言い続けます。勉強には価値があります。だからこそ勉強するのです。

 

 

 

さて、以降、いくぶん個人的で抽象的すぎる雑感を記します。これは、放言の類です。

 

フランスの社会学者ブルデューは、「文化資本」という概念を提起しました。

簡単にいうと、「素養や教養、社会的な評価を受ける振る舞いや資格」などのことです。これには「学歴」も含まれます。

 

ちょっとわかりづらいいいかたかもしれませんが、「高級文化」に親和的な人々は、代々、高い学歴を得やすいという社会構造があるわけです。

 

ブルデューは「文化資本」が「相続」されることを問題にしましたが、一介の塾教師である私は、ある個人が「文化資本」を蓄積し、「社会的上昇」を成し遂げようとする「第一歩」について考えます。

 

勉強に頼って「新進」を果たそうとする者は、勉強の対象となる「文化」や「知識体系」に「適応」する必要があるわけです。

 

 

今年は「ビリギャル」がヒットしましたが、「下剋上受験」という言葉も「受験界隈」で大きな話題となりました。

「社会的上昇」を果たすためには「受験」を乗り越えなければならない、というのは、この社会の一面の真理なのだろうと思います。

 

よくわからない「高み」から、そのための努力を揶揄したりけなしたりする人がいます。

 

しかし、私はその挑戦を、とても尊いと感じるのです。美しいと感じるのです。

そして、一緒に戦いたいと、思うのです。

 

 (ivy 松村)